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第三章 落ちこぼれ剣客と神算の事務屋。三国志の英雄たちが「ドン引き」した、たった一夜の復讐譚 徐庶と向朗の完全犯罪  作者: こくせんや
第一章 丞相を継ぐ者 諸葛亮の法に抗い、諸葛亮の情を支えた一人の友の物語。

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29話 撤退戦 猛き武勇は死地を救い 生ける伝説は恐怖を鎮める

本日2話目になります。混乱の極地。

【鬼神の威光】


 本陣を覆う重苦しい空気は、雨を含んだ雲のように低く垂れ込め、兵たちの呼吸すら妨げているようだった。


 桟道は詰まり、情報は途絶え、北からは魏の名将・張郃ちょうこうの牙が迫る。


 私が築き上げた「完璧な兵站」という血管は、今や動脈硬化を起こした老人のそれのように、死の鬱血うっけつを起こしていた。

 その淀んだ空気に、一陣の風が吹き込んだのは、翌日の昼過ぎであった。


 泥まみれの伝令騎兵が、幾重にも積まれた『方寸ほうすん』の壁を縫うようにして、本営広場へと飛び込んできたのだ。 


「報告! 魏延将軍より急報!」

 伝令の声は、疲労で掠れていたが、そこには確かな熱があった。


「魏延将軍、王平将軍の部隊の救出に成功! また、北から転進してきた高翔将軍とも、両日中には合流の見込み! 敵将・張郃軍とのさしたる戦闘はなく、魏軍は東方へと後退を開始しました!」


 その一報に、凍りついていた幕舎はどっと沸いた。

 これまで張り詰めていた糸が切れ、抑圧されていた安堵と興奮が爆発したのだ。


「おお! さすがは魏延将軍だ!」

「あの鬼神が牙を剥いて近づいただけで、歴戦の張郃といえど剣すら交えずに逃げ出したか!」

「やはり魏延の武勇は、天下に響き渡っているのだ!」


 将たちは口々に魏延を称え、手を叩き、あるいは涙ぐんで抱き合った。最悪の事態――王平軍の全滅と、それによるドミノ倒しのような全軍崩壊――が回避されたことに、誰もが胸を撫で下ろした。


 彼らの目には、魏延の武威が敵を追い払ったという、心地よい英雄譚しか映っていない。


 だが、私は歓声の輪から一歩引き、泥で汚れた地図上の街亭と略陽の位置関係を睨み据えていた。

 上座の丞相・諸葛亮もまた、表情を崩さず、羽扇で口元を隠しながら沈思している。その瞳は、歓喜ではなく、冷徹な分析の光を宿していた。


(……そうではない。奴らは恐れをなして逃げたのではない)


 私は、冷ややかな汗が背中を伝うのを感じた。

 張郃もまた、輜重を持たぬ「死兵」なのだ。


 奴は疾風のように街亭を陥れた。それは、補給を度外視した軽装の急襲部隊であればこその速さだ。奴らは限界を知っている。街亭を落とし、蜀軍の咽喉のどを食いちぎるという最大の目的は達した。


 そして、我々の軍が、予定されていた混乱や潰走ではなく、魏延を軸とした重厚な陣形を保ったまま、迎撃の構えを見せた。


 張郃は見極めたのだ。


 もしここで、魏延という猛獣とまともにぶつかり合えば、疲弊し、糧を持たぬ張郃軍は、蜀を噛み砕く前に牙を折られる。深追いは自滅を意味する。


 だからこそ、彼は「引いた」のだ。

(ここが限界とわきまえている……。なんという古狸か)


 功名心に駆られて無茶な追撃をせず、街亭の奪取と蜀軍の撤退という戦果を確定させるために、迅速に兵を引く。その判断の速さと正確さは、あの狂気じみた強行軍と同じ指揮官のものとは思えぬほど、理知的であった。


【撤退の要】


「……手強い」

 私は思わず呟いた。


 魏延の武勇も凄まじいが、それを受け流し、状況に合わせて変幻自在に動く張郃という老将の戦略眼。

 魏には、これほどの怪物が数多いるのか。


 歓声に沸く本陣の中で、私と丞相だけが、見えざる敵の「底知れぬ怖さ」に息を呑んでいた。


 魏軍の追撃が止まったとはいえ、撤退の猶予が生まれたわけではない。おそらく魏軍は本国からの補給を受け、体制を整え次第、再度多方向から、今度は万全の重厚さで襲来するであろう。


 その時こそ、我々の退路は完全に断たれる。

 私は杖を突き、騒ぐ将たちを静めた。


「静まれ! 喜ぶのはまだ早い! 敵は引いたのではない、助走を取ったのだ!」


 場が静まり返る。私は間髪入れずに、丞相・諸葛亮と練り上げた撤退計画の、次の段階を指示した。


「伝令! 魏延将軍と高翔将軍に伝達。両将軍の部隊は略陽にて待機、防衛線を構築せよ。予定通り、後詰として呉懿ごい将軍に歩兵と、選抜した匠兵しょうへい・医兵を含め、合わせて一万を略陽に向かわせる」


 私は伝令兵の肩を掴み、その目を覗き込んだ。


「呉懿軍の到着まで三日。それまで何としても持ちこたえさせよ。到着後、呉懿軍を殿しんがりとし、順次退却を開始されたし。……魏延にはこう伝えろ。『貴殿の背中は、私が預かった』とな」


 伝令兵が大きく頷き、駆け出していく。


 言葉には出さずとも、荊州以来二十年を共に戦ってきた魏延ならば、無茶はすまい。かつての長坂坡での張飛将軍のように、一人だけ死地に立つ必要はない。


 この配置の意味――自らが殿として最も危険な場所に留まること。留まり遅滞するだけで、本隊を逃すための時間を稼ぐという役割――を、言わずとも理解して行動しているはずだ。


 あの男の武勇と、私への信頼。それこそが、この危うい撤退戦の唯一の要石かなめいしであった。


【逆転する歯車】


 だが、最大の問題はここからだ。

 私は振り返り、本陣の後方――漢中へと続く桟道の入り口を見据えた。


 そこには、今なお漢中から送り続けられている補給物資の列と、撤退しようとする本隊の列が衝突し、絶望的な渋滞を引き起こしていた。


「撤退を開始した本隊の部隊は、岐山南方桟道の入口から数里手前にて、『方寸』を用い、防御陣を展開せよ! 民が撤収完了するまで、一歩たりとも動いてはならぬ!」


 私は叫んだ。


 桟道は狭い。車二台がすれ違うことすら困難な一本道だ。そこに、数万の兵と民、そして膨大な物資が殺到すれば、誰一人生きて帰れぬ地獄となる。


「向朗長史……」


 副官の楊顒が、悲痛な面持ちで進み出た。


「輜重隊が詰まっております。『木牛』の車列が北へ向いており、本隊が南へ下ろうとしても、すれ違う隙間がありませぬ。……やはり、『木牛』を谷底へ廃棄し、道を空けるしか……」


 周囲の将校たちも、苦渋の表情で頷いた。

 『木牛』は、私が心血を注いで開発した輸送車だ。だが、今はその巨体が退路を塞ぐ栓となっている。Uターンさせる場所など、この断崖絶壁にはない。生き残るためには、宝を捨てるしかない。誰もがそう思った。


「……馬鹿者」

 私は低く、しかし腹の底から響く声で言った。


「誰が『木牛』を捨てると言った? 誰が『方寸』を諦めると言った!」


「しかし、車を反転させる場所など……!」

「場所など要らぬ! その場で回せば良いのだ!」


 私は懐から、正確な時を告げる水時計を取り出し、睨みつけた。

 時刻は、まもなく正午。


「全輜重部隊に通達! 太鼓を鳴らせ! 狼煙を上げよ。翌々日の『うまの刻(正午)』の鐘と共に、全軍一斉に足を止めよ!。事前の指示の通り、木牛を一斉に反転させるぞ」


 私の剣幕に押され、伝令たちが走り出す。


 翌々日、山々に太鼓の音が響き渡り、北へ向かおうとしていた数千の木牛の列が、ピタリと停止した。

 雨音だけが響く静寂。


 何が始まるのかと、兵たちが不安げに顔を見合わせる中、輜重隊は事前の訓練の通りに、『方寸』を降ろし、『木牛』を解体する。


 兵たちが息を呑む。


 そう。私が設計した『木牛流馬』は、釘一本使わずにほぞくさびだけで組まれている。

 そして、『方寸』もまた、規格化された箱だ。


「午の刻の鐘と共に、一斉に楔を抜け! 車体をバラせ! 人間が回れ! そして再び南へ向けて組み上げろ! ……転進は一刻(二時間)。慌てるな。急ぐ必要はない。全軍同じ動きをするのだ」


 ゴォォォン……!

 時を告げる鐘が鳴った。

 その瞬間、世界が変わった。

 カカン! カカカン!


 数千の木槌が一斉に振り下ろされ、乾いた音が山脈全体に響き渡った。


 巨大な荷車であった木牛が、瞬く間に車輪、車軸、枠組みという「部品」へと姿を変える。

 狭い桟道の上で、兵士たちはその場でくるりと体の向きを変え、部品を南側へと回す。

 北を向いていた牛の頭が消え、南を向く骨格が現れる。


私の目には彼方数十里先の木牛は見ることは出来ない。だが、木箱『方寸』は、茶色の龍は秦嶺の中で、確かに龍頭とその尾を変えたのだ。


 規格化された部品だからこそ可能な、機械的なる反転。

 それはまるで、巨大な龍が、その鱗一枚一枚を逆立て、身をうねらせて逆流を開始するかのような、壮絶かつ緻密な光景であった。

「積荷の『方寸』を積み直せ! 楔を打て! 舌を固定せよ!転進!」


 私の声が枯れるほどに響く。


 兵士たちの手は、訓練の賜物か、あるいは生への執着か、神速の域に達していた。


 誰も言葉を発しない。ただ、木と木が噛み合う硬質な音だけが、絶望的な撤退戦を、希望ある行軍へと書き換えていく。


【足踏み】


 一刻後。

 そこには、整然と南――漢中の方角を向いた、数千の木牛の列が完成していた。

 一台の脱落もなく、一つの荷も捨てることなく。

 ただ向きだけが、完全に逆転していた。


「……なんと」

「これほどの早業……まるで魔法だ」


 見ていた将軍たちが、呆然と呟く。

 魔法ではない。これは「規格」の勝利だ。


 私がこだわり抜いた、あの「二尺の木箱」と「分解可能な車」という設計思想が、この土壇場で十万の命と物資を救ったのだ。


 命令は下され、作業は完了した。


 だが、現場の空気は依然として張り詰めていた。

 物理的な準備は整ったが、兵たちの心には、いつ魏軍が襲ってくるか分からない恐怖が巣食っている。


 特に新兵たちは、背後からの風音にも怯え、今にも我先に桟道へ走り出しそうだ。一度「恐怖」という疫病が蔓延すれば、整然とした列は崩壊し、将棋倒しとなる。

 私は声を張り上げた。


「皆、不安なのは分かるが耐えろ! 一月だ! 一月耐え抜けば、必ず全員が生きて漢中に帰れる! 食料も、退路も、今見た通りだ。我らの血管は死んでいない!」


 私の言葉に、兵たちが顔を上げる。だが、その瞳の奥にある恐怖の色は消えない。


 私の言葉だけでは足りないのだ。彼らが必要としているのは、理屈ではなく、絶対的な「拠り所」だ。


「……見よ。丞相を、信じろ」


 私は指差した。

 陣営の中央。

 向きを変えたばかりの木牛から降ろされた数百の『方寸』が、指揮台として積み上げられている。

 そのひときわ高い木箱の塔の上に、一人の男が立っていた。


 丞相・諸葛亮。


 装飾のない白絹の漢服を風になびかせ、羽扇を手に、彫像のように微動だにせず彼方を見据えている。

 雨は冷たく降り注ぎ、彼の衣を濡らしているはずだ。だが、彼は傘も差さず、ただ静かに、北の空――魏の軍勢がいる彼方を睨んでいた。


 その姿は、混乱する戦場にあって、唯一絶対の不動点であった。


 彼は何も語らない。剣も振るわない。


 だが、その白き姿が、我々と同じ雨に打たれ、我々と同じ場所に立っているという事実だけで、浮足立っていた十万の兵の心が、不思議と鎮まっていくのが分かった。


「丞相が見ておられる……」

「あの方が動かぬ限り、我々は負けない」


 兵士たちの間に、波紋のように安堵が広がっていく。

 私の名では止まらない。法だけでも縛れない。『方寸』の壁でも防げない。


 この極限の恐怖を統制できるのは、諸葛亮という名の「生ける伝説」だけなのだ。


 友は、あえて皆に姿を晒すことで、自らを人柱として軍を繋ぎ止めている。


 雨に打たれるその背中は、以前よりも小さく、そして痛々しいほどに孤独に見えた。

 だが、その孤独こそが、今この瞬間、蜀漢という国を支える唯一の柱なのだ。


 私は、その孤高の背中を兵士たちと共に見上げた。

 そして、心の中で誓った。


(友よ、貴方が魂で軍を支えるなら、私は技で道を拓こう。……必ずや、貴方を漢中へ、生きて還してみせる)

 私は再び杖を握りしめ、泥濘の中へと足を踏み出した。

 私の戦いは、まだ終わらない。最後の兵が桟道を渡りきるその瞬間まで、この数字と泥の戦場は続いていく。

諸葛亮はいつも軍勢を離れた場所、崖の上から遠くを見ているイメージですね。木箱ですが笑


三国志の物語の多くは勝利した側の高揚を伝えますが、負けて撤退する側の悲壮感・絶望感の中での必死の抵抗を語るシーンがなかなか少ないですよね。例えば、官渡の戦いで負けた袁紹軍や、夷陵の戦いで負けた劉備軍についてとか。いつか物語を語ってみたいものです。

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