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第三章 落ちこぼれ剣客と神算の事務屋。三国志の英雄たちが「ドン引き」した、たった一夜の復讐譚 徐庶と向朗の完全犯罪  作者: こくせんや
第一章 丞相を継ぐ者 諸葛亮の法に抗い、諸葛亮の情を支えた一人の友の物語。

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28話 撤退戦 滞る血脈は絶壁に詰まり 悲しき算術は命を選別す

本日1話目になります。

【凍てつく心臓】


 諸葛亮は報を聞くやいなや、即座に全軍撤退の命令を下した。

 だが、それは口にするほど容易なことではない。

 無秩序な撤退戦は、狂乱と恐慌を引き起こし、全軍崩壊に至る。それは、多くの歴史書が血文字で記してきた敗者の末路である。


「全軍撤退戦に移行。赤と黒の狼煙をあげよ」


 諸葛亮の声は、冬の湖面のように静まり返っていた。

 事前に取り決めていた狼煙を上げたとして、各地に伝わる情報は「全軍撤退」という簡潔な命令でしかない。


 戦場から数十里離れたこの本営で、丞相の意思を、それぞれの部隊に対する物理的な動きに変えるには、何百もの冷徹な決断と、それだけの文書を伝令に持たせ、届ける必要がある。


 行軍長史である私は、丞相の命を補完すべく、具体的な指示を迅速に行わなくてはならない。一秒が、十人の命に換算されるのだ。


「姚伷! 呉懿将軍の部隊歩兵五千を、魏延将軍の後詰として準備させよ。王平将軍の救援如何によって、同行する匠兵、医兵の数を、甲・乙・丙の三案で事前準備!」

「はっ、直ちに!」


「楊顒! 我らに同調する天水郡の民の移動に必要な日数を至急推論せよ。……もし彼らを連れて行けぬならば、我らは二度とこの地を踏めないと思いなさい。彼らは、我らを信じて魏を裏切ったのだぞ!」

「承知いたしました!」


 私の声は、先ほどまでの静かな事務官のそれではなく、喉を裂くような金切り声に変わっていた。

 軍議の場は蜂の巣をつついたような騒ぎとなり、書簡を抱えた伝令たちが互いにぶつかり合う。


「呉班、廖化らの隊への撤退命令の受領はまだか!」

 私は叫んだ。廖化将軍の部隊は隴西を占領すべく、ここから数十里も離れた地点で魏軍と対峙している。その距離が、この撤退戦で最も致命的な時差ラグを生む。


「急がせても、廖化将軍のもとに命令が届き、彼らの部隊を転進させるには、最短で後二日を要します!」

 副官の一人が悲鳴のように答えた。

 二日。この二日間で、隴西の魏軍が態勢を立て直し、逃げ遅れた呉班・廖化の部隊を追撃する可能性は極めて高い。


 法は人命を平等に扱うが、戦場における距離と時間は、無情にも数千の命を切り捨てることを要求する。

 私は、その残酷な計算を瞬時に行い、奥歯が砕けるほど噛み締めた。


「趙雲将軍への撤退命令は如何!」

 私の問いに、伝令役人は顔面蒼白のまま、簡潔かつ残酷な数字を告げた。

「秦嶺山脈の山頂と山頂を中継し、今、緊急の狼煙が上がっております。しかし、伝達できる情報は……赤と黒の二本の煙のみ。意味は『全軍撤退』。ただその四文字を、数日かけて伝えるのが限界です」


 私は全身から力が抜けるのを感じた。

 十万の軍勢の命運、複雑怪奇な戦況の変化、そして「なぜ退くのか」という理由。それら全てを削ぎ落とし、ただ「赤と黒」という色だけに圧縮して空に放つしかないのだ。

 風が吹けば消える煙。雨が降れば見えぬ煙。

 そんな心細い信号に、歴戦の勇将・趙雲の命を預けねばならないのか。彼がこの単純すぎる情報をどう解釈するか、確かめる術すらない。もし彼が「敵の偽装工作」と疑い、進軍を止めなかったら?


 私の頭の中には、桟道に詰まった輜重の泥沼、隴西で孤立する呉班ら部隊、そして今、たった二本の煙に命を預けられた趙雲軍の姿が、悲壮な絵図となって焼き付いた。


 しかし、諸葛亮だけは、嵐の中の岩のように微動だにしていない。

 彼はただ静かに座し、主要な命令を発するのみ。その冷たい瞳で、敗戦という現実を解読するかのようであった。

 その声には、悲しみも、焦りも、怒りも、一切の「情」が含まれていなかった。

 まるで、彼自身が人間であることを辞め、撤退という目的を遂行するためだけの「演算装置」に成り果ててしまったかのようだった。


 私の心は、放棄される物資のリストと、空に消えていく狼煙の頼りなさ、そして諸葛亮の人間離れした横顔の間で、激しく震えていた。

 私はただ、この悲壮な職務を遂行する事務官として、悲鳴を上げたい衝動を、奥歯が砕けるほど噛み締めることで押し殺すしかなかった。


「向朗長史、次。北に救援に向かった魏延らの部隊の退路の安全確保。各拠点への文書作成を急げ。北に向かった高翔将軍の撤退を優先し、続いて、魏延ら騎兵と呉懿将軍の後続と速やかに交代。

王平将軍らを救出の如何に限らず、最低限の糧のみを残し、撤退せよ。ただし撤退日を厳守せよと伝えよ。早くても遅くてもならぬ。厳守だ」


 彼らの撤退日が早ければ、桟道に入れずに立ち往生している人々が恐慌をきたす。遅ければ取り残され、魏軍に包囲殲滅させられる恐れが高まる。

 諸葛亮の指示は、私の内なる葛藤を無視するかのように、ひたすらに正確で、冷たかった。


 彼のその「冷徹さ」こそが、この国が今、頼るべき最後の柱なのだと、私は震える手で筆を握りしめた。


(孔明……。あなたは、恐ろしくはないのですか?)


 私は、主将としての彼の決断の重さを理解していた。この極限の状況で、彼が少しでも動揺を見せれば、軍はパニックを起こし、規律は崩壊する。


 彼は、すべての責任と悲劇を一人で飲み込み、自らの心を凍らせることで、「主将としての感情を捨て、法を遵守し、公平に正確に徹する」という究極の義を貫いているのだ。


(丞相は、馬謖の驕りの報よりも、この桟道の隘路の方が、どれほどこの国を滅亡の淵に立たせているかを理解しておられるだろう……!)


 馬謖の敗北は、個人の失敗だ。しかし、この輜重の混迷は、国家総動員体制の構造的な欠陥が招いた必然の帰結だ。

 私は、自身の情熱が、この事務的な泥沼の中で押し潰されていくのを感じた。


「向朗長史、次。天水の民の移動に、何を残し、何を捨てるか。優先順位を示せ」


 諸葛亮の静かな声が、再び私の名を呼んだ。その声には、責める色も、慰める色も一切ない。ただ、法と職務の遂行を求める、冷徹な響きだけがあった。


 私は悲壮な決意を胸に、血の通わない数字と物資の名前が書かれた簡に向き合った。

 馬謖の処罰は、この撤退戦を乗り切った後の問題だ。今はただ、諸葛亮の法の手足となり、この詰まりかけた血管をこじ開け、崩壊寸前の軍を漢中へと連れ帰さねばならない。


 私の心臓は、もはや恐怖ではなく、悲劇的な職務遂行の覚悟によって、冷たく脈打っていた。


【詰まる血管】


 しかし、それらの問題でさえ、天水の本軍が漢中に帰還するための最大の障害の前では、瑣末なものに過ぎなかった。

 その障害とは、蜀の生命線であり、同時に我々の首を絞める絞首縄ともなり得る、一本の桟道だ。

 そして何より、私が心血を注いで作り上げた「完璧な補給システム」そのものが、今や最大の敵となっていた。

「輜重隊の報告はどうなっている!」

 私の問いに、糧秣担当の役人が、顔面蒼白で答えた。

「向朗長史……輜重隊は、依然として漢中から途切れることなく、()()()()()()()()()()()()()。食糧、武器、補給品……すべてが、狭隘な桟道上に隙間なく詰まっております!」


 その言葉が、私の心臓を凍らせた。

 そう。後続の輜重隊は、私の立てた完璧な行程の通りに、一分の遅れもなく、延々とあの細い桟道をこちらに向けて進んでいるのだ。

 私が設計した『木牛流馬』と『方寸』による輸送手段は、前進することにおいては無類の効率を誇る。桟道の幅に合わせて設計された『木牛』は、桟道を乱雑にすれ違う余地はない。二列以上の展開は出来ないのだ。


 動脈と静脈は交わらない。


今、その血管には、漢中から送り出された物資が、高圧で送り込まれ続けている。その流れに逆らって、十万の軍勢を退却させることなど、物理的に不可能だ。


――血管が、詰まっている。


 私の脳裏に浮かんだのは、壊死寸前の臓器の如き絶望的なイメージだった。


 今すぐ輜重隊の流れを止め、その巨体を狭い道の中で反転させない限り、本軍の数十万の兵士たちは、桟道の入り口で立ち往生し、背後から迫る魏軍の格好の餌食となる。


 しかし数百里離れた最後尾の輜重隊に狼煙の意味が伝わるとしても何刻必要になることか。


 報告の簡が私の前に積み上げられる。どの部隊が、どの桟道のどの地点を通過中か。何を優先して持ち帰り、何を谷底へ捨てるべきか。転進にどれだけの時間を要するか……。


 その膨大な情報の処理に、私の脳髄は焼き切れそうだった。

 かつて私は誇った。この輸送手段は「無言の龍」であると。だが今、その龍は自らの尾を食らい、身動きが取れずにたうち回っている。


「長史、撤退日数の概算が完了しました」


 楊顒が、震える手で計算書を差し出した。彼もまた、自分たちが作り上げた規律が招いた悪夢に、顔色を失っていた。


「撤退の狼煙が、輜重隊の最後尾に伝わり、全部隊が転進を開始するには、最短でも七日を要します。その後、天水の民達が先に移動、約十万の民が桟道に流入するまで約十四日、本軍の桟道内へ撤退完了は、更にその七日後と試算されます。……全軍撤退まで、約一ヶ月必要です」


 一ヶ月。


 この絶望的な数字が、冷たい現実を示していた。

 魏軍が追撃態勢を整えるのに数日。馬謖を破った張郃の軍勢が迫るのに数日。


 一ヶ月などという悠長な時間は、我々には残されていない。

 私は、自分が作り上げた「二尺の木箱(方寸)」の山が、味方の退路を塞ぐ墓標に見えた。


 規格化され、効率化されたがゆえに、融通の利かない鉄壁の壁。


 私は、自らの知恵が生み出した怪物に、今まさに食い殺されようとしていた。

進むも地獄、引くも地獄。狭すぎる蜀の桟道です。

静岡から新潟までの山間ルートのような工程。10万人が、コンビニも旅館も使わず一ヶ月かけて、歩きつづけてきた約400kmの行軍。当然帰りも同じ距離。。。同じ時間なのです。

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