27話 決断 震える筆は愛弟子を闇に捨て 猛将の誇りは泥道を往く
本日2話目になります。
【撤退の雷鳴】
「黒い旗」の報告がもたらした戦慄が、幕舎の空気を重く支配していた。
我々の議論を、主座で目を閉じたまま黙して聞いていた丞相・諸葛亮が、ゆっくりと目を開いた。
その瞳には、もはや迷いはなかった。あるのは、千尋の谷底を見据えるような、深く、冷たい覚悟のみであった。
「……全軍、撤退戦に移行せよ」
静かな一言だった。だが、それは雷鳴よりも激しく、幕舎に激震を走らせた。
「なっ……!?」 「撤退、ですか!?」
将たちがざわめく中、床を蹴るようにして魏延が前に進み出た。
「待たれよ、丞相! 何故だ!」
魏延は地図上の街亭と、その南にある略陽を指で叩いた。
「馬謖が敗退したとして、敵は所詮、一万の軽騎兵ではないか! 対する我ら本隊は無傷。数万の余力がある! 再度軍を差し向け、略陽付近で迎撃し、撃退できる!」
魏延の主張は、戦術的には正論であった。数で勝る我々が、補給を持たぬ敵を包囲殲滅することは、造作もないことだ。目の前の敵を恐れる必要などない。
だが、諸葛亮は首を横に振った。
「ならぬ」
その声は、魏延の熱気を氷点下まで冷やすほどに冷徹であった。
「確かに、目の前の張郃軍は一万に過ぎない。だが、魏延殿。あの『黒い旗』の意味を。あれは、魏という国家が総力を挙げて動いている証左です」
諸葛亮は、地図の彼方、長安から洛陽へと続く広大な領域を羽扇で示した。
「おそらく、張郃の後方には、既に十万を超える援軍が殺到しているでしょう。そして、その後方にも、さらに十万。魏は、我らの数倍、いや十倍の兵を容易に用意できる国力を持っているのです」
諸葛亮は、我々全員を見渡して告げた。
「我らが小国・蜀をもって大国・魏に勝利するには、ただ一つ。『民を味方に付け、魏から時と糧を奪う』しかない。正面からの消耗戦は、自滅への道です」
「し、しかし! ここで引けば、涼州の民はどうなる! 漢室の威光は!」
食い下がる魏延に対し、諸葛亮は悲痛なまでの現実を突きつけた。
「……たとえ、ここで張郃を撃退し、その後に続く十万の軍をも奇跡的に打ち倒したとしよう。 だが、その時、我々に何が残る? 矢は尽き、糧は消え、兵は傷つく。余剰のない我らに、その先はない」
廷内は、死のような沈黙に包まれた。
諸葛亮は、自らの胸に手を当て、搾り出すように語った。
「魏延殿。今の我らにとって、勝利とは毒杯に等しい。 勝てば勝つほど、我らの物資は削られ、兵は疲弊します。 だが敵は、無限の湧き水のごとく、次々と新しい軍を送り込んでくる。 我らが最後の矢を射尽くし、最後の米を食い尽くした時……そこに待っているのは、もはや撤退すら許されぬ、完全なる包囲殲滅のみ」
諸葛亮は、羽扇を膝に置いた。
「私が守るべきは、一時の勝利ではない。蜀漢という『法』と『理』の継続である。 ……全軍、撤退せよ。これは、丞相命令である」
その言葉は、今回の北伐の「敗北宣言」であった。
だが同時に、将来の再起のために、今この瞬間の屈辱と痛みを飲み込むという、指導者としての極限の決断でもあった。
魏延は拳を震わせ、何かを叫ぼうとしたが、諸葛亮の悲壮なまでの眼差しに射抜かれ、言葉を呑み込んだ。彼もまた、将として理解してしまったのだ。ここで戦えば、俺たちは英雄として死ねるかもしれないが、国は滅びる、と。
私は、地図の上で輝いていた勝利の夢が、急速に色あせていくのを呆然と見つめていた。
【氷の機械と、泥の矜持】
撤退の決断を下した直後、丞相・諸葛亮の纏う空気は一変した。
それまでの苦悩や迷いは霧散し、代わりに現れたのは、国家という巨大な機械を動かすための、感情を持たぬ、機械ような冷徹さであった。
「伝令。隴西襄武県城を攻囲中の呉班将軍に告げよ。攻囲を即時中止、速やかに撤退に移行せよ。ただし、撤退路はこの冀県城ではなく南下、岐山へ向かうよう指示するのだ」
丞相の指先が地図の上を滑る。冀県城に集結させれば、追撃された際に混雑し、狂乱する恐れがある。兵を分散させ、敵の狙いを絞らせないための処置だ。
「北方、武威へ向かった高翔将軍には転進を命じよ。直ちに略陽へ向かうように。高翔軍が側面から牽制する動きを見せれば、追撃する張郃軍は足を止めざるを得まい」
そして、丞相は魏延に向き直った。
「魏延将軍。貴殿には、出陣準備中の騎兵八千で、直ちに北へ向かって欲しい。騎兵ならば略陽城まで一日の距離だ。現在、敗走しながら交戦中の王平軍を救出せよ」
魏延の顔が歪んだ。
喉元まで出かかった「なぜ俺が」という言葉を、彼はギリリと奥歯で噛み潰したようだった。念願の長安急襲を目前で取り上げられ、代わりに命じられたのは、敗軍の救出という最も損な役回りだ。その双眸には、行き場のない憤怒の炎が燻っていた。
「ただし」丞相は、魏延の憤りを承知の上で、あえて鋭く釘を刺した。
「仮に王平軍の救出が間に合わねば、略陽城を死守せよ。張郃軍に一粒たりとも糧を与えてはならん。奴らの弱点は飢えだ。城を守ることが、最大の攻撃となる」
そして丞相は、魏延の目を射抜くように見つめた。
「この混乱の中、張郃の鋭鋒を受け止め、全軍の壁となれる将は……蜀広しといえど、魏延、貴殿をおいて他にない」
その言葉に、魏延は鼻を鳴らし、ふてぶてしくも傲岸な笑みを浮かべた。
それは丞相への反発ではない。「結局、最後は俺に頼るしかないのだろう」という、猛将としての強烈な自負と、綺麗な作戦が破綻した後の泥拭きを引き受ける、一種の諦観にも似た覚悟であった。
「……ふん。致し方あるまい。泥水啜る汚れ役も、この魏延でなければ務まらぬということか」
彼は短く吐き捨てると、拱手した。
「承知仕った! 雑兵どもは任せておけ!」
魏延が弾かれたように幕舎を飛び出していった。その背中は、納得がいかぬ怒りを全身に漲らせながらも、己にしかできぬ死地へと向かう、凄絶な背中であった。
丞相の白い顔から、一気に、そして完璧な秩序をもって命令が発せられていく。 私はその姿を見ながら、背筋に冷たいものが走るのを禁じ得なかった。
(孔明は……奇襲による勝利だけでなく、この最悪の敗戦の事態も、あらかじめ詳細に想定していたと言うのか)
勝つための策だけではない。負けた時にどう傷を浅くし、どう生き残るか。その撤退の道筋までもが、彼の頭脳の中には既に完成された図面として存在していたのだ。
神算鬼謀と人は呼ぶが、その正体は、あらゆる可能性を網羅し、最悪の事態に備え続ける、人間離れした「悲観的な準備」の結晶であった。私は友の底知れぬ深淵を覗き込んだ気がして、戦慄を覚えた。
しかし、私には、長史として、そして友人として、どうしても聞かねばならぬことがあった。 全ての部隊への指示が終わった一瞬の静寂の中、私は恐る恐る口を開いた。
「……丞相。馬謖参軍は、いかがいたしますか?」
街亭で包囲され、敗走した馬謖。彼への救出命令が、まだ出ていない。
その名を耳にした瞬間、丞相の筆がピタリと止まった。
その表情に、一瞬だけ、人間らしい戸惑いと、肺腑を抉られるような苦悩の影が走ったのを、私は見逃さなかった。愛弟子を見捨てるのか、それとも危険を冒して救うのか。法と情が、彼の胸中で激しく火花を散らしたはずだ。
だが、その迷いは瞬きする間に消え失せた。 丞相は顔を上げると、氷のように冷酷な声で告げた。
「……捨て置け」
「なっ……!?」
私は耳を疑った。
「馬謖の軍は既に瓦解している。彼を救うために兵を割けば、本隊の撤退が遅れ、全軍が危険に晒される。……彼が自力で戻らぬ限り、助ける術はない」
それは、「法」による切捨てであった。軍令を破り、敗北を招いた将のために、これ以上の犠牲を払うことは許されない。 丞相は再び筆を走らせ始めたが、その筆先が微かに震えているのを、私は見てしまった。
「捨て置け」――その短く乾いた響きは、馬謖への死刑宣告であった。 だがそれ以上に、それは諸葛亮自身が、己の心臓に凍てついた刃を突き立て、そこから滴る「情」の一滴さえも許さず、無造作に抉り捨てるような、戦慄するほど冷酷な自決の儀式でもあったのだ。
ついに崩壊。それぞれの苦渋の決断シーンでした。




