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第三章 落ちこぼれ剣客と神算の事務屋。三国志の英雄たちが「ドン引き」した、たった一夜の復讐譚 徐庶と向朗の完全犯罪  作者: こくせんや
第一章 丞相を継ぐ者 諸葛亮の法に抗い、諸葛亮の情を支えた一人の友の物語。

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21話 焦燥 命綱の重みを優しく語りかけ 焦る背中に友の祈りを込める

事件へのカウントダウンの始まりです。

【盤上の陶酔】――才気という名の病


冀県きけん城外の軍営。


魏延の陣からは、先鋒を任された歓喜と、これから始まる急襲への高揚した怒号が、熱風となって吹き荒れていた。


だが、その喧騒から切り離された馬謖の天幕だけは、真冬の湖底のような、青白い静寂に支配されていた。

軍議が終わり、諸将が退出した後も、馬謖だけは地図の前から離れようとしなかった。


彼の視線は、自身の守備地である街亭を通り越し、遥か東、長安、そしてその先の中原へと注がれている。彼にとって、目の前の地図は単なる紙ではない。彼が支配すべき世界の雛形であった。


「……見えます。手に取るように」


馬謖は熱に浮かれたような瞳で、独りごちた。


「街亭を完璧に封鎖し、敵の喉元を塞ぐ。さすれば南安、安定の三郡は雪崩を打って我が軍に降る。魏の郭淮がいかに粘ろうとも、民心が離れ、補給が断たれれば防ぎようがない」


彼は白く長い指で、地図上の関中平野を愛撫するように滑らせた。


「そこから先は、まさに破竹の勢い。魏延将軍の武勇も、向朗殿の兵站管理も、すべてはこの一点――私が脳内で描いたこの『勝利の線』を具現化するための、手足に過ぎぬ」


馬謖の胸中には、甘美な全能感が毒のように広がっていた。

泥にまみれて行軍する兵の呼吸も、現場で指揮を執る百人隊長たちの怒声も、この天幕の中には届かない。ここにあるのは、夾雑物のない純粋な論理と、美しい知略の結晶だけだ。


彼は錯覚し始めていた。この壮大な北伐の絵図を描いているのは丞相諸葛亮だが、その筆先に墨をつけ、実際に歴史の軌道を決めているのは自分なのだと。

兵書を読み漁り、研鑽を積んできた自らの才が、今まさに現実を凌駕しようとしている。その陶酔が、彼の口元に冷ややかで薄い笑みを浮かばせていた。


馬謖は、胸元で緩やかに羽扇を揺らし、遠く一点を見つめる。

その横顔。眉間の皺の寄せ方から、吐息の間合いに至るまで、それはまるで諸葛亮そのものであった。

だが、私の目には、それが頼もしい成長の証ではなく、身の丈に合わぬ衣を無理に着飾った、危うい道化のように映った。


「――幼常。」


背後からの呼びかけに、馬謖は夢から醒めたように肩を震わせた。


「……向朗長史。……私の作戦になにか疑問でも?」


「そうではない。お前の、その『在り方』についてだ。

羽扇の扱い、物言い……まるで丞相の写し鏡のようだ。

だがな、まつりごといくさも、演目ではない。その借り物の仮面で、万の兵の命という『実数』を背負えんぞ」


「……仮面、とは心外な」


ムッとする馬謖。私は、かつて甥のように緩んでいた鎧の紐を、乱れた公文書を正すような手つきで、几帳面に結び直してやりながら言葉を継いだ。


「怒るでない、幼常。私はな、お前のその才を誰よりも高く評価しておる。だからこそ言うのだ。

丞相が求めておられるのは、ご自分の『影』ではない」


「影……?」


「左様。影は、光が消えれば共に消えてしまう。実体のない幻だ。

だが、蜀が必要としているのは、丞相とは異なる視点を持ち、欠けたるを補う『柱』となれる男だ。

私は見てきたぞ。荊州で、兄・馬良の後ろを必死に追いかけ、書物を読み漁り、議論を戦わせていたあの頃の幼常を。

泥臭く、不器用だが、自分の頭で考え、自分の言葉で語っていた。……あの頃のお前こそが、最も頼もしかった」


向朗の手が、馬謖の胸元の飾りに触れ、それを正した。


「飾りを捨てなさい。机上の空論は、書面の上では美しくとも、現実の泥沼の前では無力だ。

諸葛亮の模倣者として歴史に埋もれるか、馬幼常として実利を残すか。

丞相が信任したのは、ご自分を真似る能吏ではない。……『馬謖』という、独自の才を持った一人の国士のはずだ」


向朗の言葉に、馬謖は一瞬、虚を突かれた顔をした。


馬謖の声は、先ほどまでの陶酔を含んだ響きを失った。だが、代わりに嫉妬と焦りが入り混じった、乾いた音へと変わった。

彼の視線は、再び地図へ――魏延が進むであろう、長安への栄光の進撃路へと吸い寄せられた。


「だが、私は……ただ、街亭の石ころを守る番犬になれと仰るのですか?」


口に出した瞬間、抑え込んでいた不満が堰を切った。


「丞相は、魏延将軍に歴史に残る奇襲を命じられました。あれこそが花形、あれこそが英雄の仕事です。それに引き換え、私の街亭は……ただの泥臭い『蓋』です。敵が来るのを待ち、ひたすら耐えるだけの地味な役回り。……私の才は、このような辺境の土くれを守るために磨いてきたのではありません」


馬謖の言葉には、自身の才能への過信と、それを正当に評価されないことへの苛立ちが滲み出ていた。

韓信のように、一軍を率いて敵を翻弄し、天下を驚かせたい。その渇望が、彼を焦らせている。


私は静かに首を振り、あえて厳しい口調で言った。


「幼常。戦線の優劣などない。むしろ、お前のその『蓋』こそが、この北伐の心臓なのだ」


向朗は地図上の街亭を指で叩いた。


「街亭を確かに抑えられるからこそ、魏延の奇襲が成立する。蓋が外れれば、中身はすべて溢れ出し、奇策もろとも全軍が水泡に帰す。お前の任務は、魏延の背中を守る命綱であり、全軍の生命線なのだぞ」


馬謖は唇を噛む。


「命綱……。聞こえは良いですが、所詮は裏方です。私は、誰もが称賛する戦いがしたいのです」


私は彼に近づき、その若く強張った肩に手を置いた。そして、かつて彼に学問を教えていた頃のように、諭すように語りかけた。


「幼常よ。かつて、高祖・劉邦様が項羽と天下を争った時も、戦場で名を馳せた張良や韓信だけが漢の礎となったわけではない」


私は、彼が敬愛する古の賢人たちの名を挙げた。


「思い出してみよ。高祖が天下統一の論功行賞を行った際、第一等の功臣とされたのは誰か。戦場で敵を倒した曹参か? 奇策を用いた陳平か? ……違う。後方で兵站を支え、関中を守り抜いた蕭何しょうかであったはずだ」


馬謖の眉がわずかに動く。私はさらに言葉を重ねた。


「そして、私はお前にこそ、ある男の名を思い出してほしい。……『張蒼ちょうそう』のことだ」


「張蒼……。北平侯となり、後に丞相となった賢人ですね」


「そうだ。張蒼は、秦の御史であった頃から文書と算術に長けていたが、戦場で敵将の首を挙げた豪傑ではない。華々しい一騎打ちなど、生涯一度もなかっただろう。

だが、彼はどうした? 暦を正し、度量衡ものさしを定め、楽器の律を整え、国家の数理と秩序を支え続けた。

彼が整えた『規律』があったからこそ、漢という巨大な国は動き、兵は食らい、将は戦えたのだ。その地道にして偉大な功績により、彼は百歳を超える長寿を全うし、漢の賢相として歴史に名を刻んだ。

確かに蕭何が背中を守り、韓信が勇躍し、曹参か陳平が敵を打ち破り高祖劉邦は天下を掴んだ。

だがな、戦乱を終え、漢という国が数百年続く大業は、張蒼の規律なればこそ。」


私は特に力を込めて、馬謖の目を見つめた。


「幼常、お前の才は、この張蒼に通じるものがある。

理知的で、誰よりも数字に強く、大局が見える。

派手な武功だけが『才』ではないのだ。堅実に守り、崩れぬこと。計算通りに運び、味方を活かすこと。それもまた、張蒼たちが成し得た、天下を治めるための偉大な志なのだ。お前には、その才があるはずだ」


馬謖が押し黙る。


彼の理知的な頭脳は、私の言葉の正しさを理解している。感情論ではなく、歴史の事実として、守りや兵站、制度設計の重要性を誰よりも知っているはずなのだ。


だが、彼の胸中で燃え盛る功名心という名の青い炎は、その理屈さえも焼き尽くそうとしていた。


「……王陵、陳平、そして張蒼……」


彼は先人の名を呟き、逡巡した。

守りに徹することで得られる信頼と、奇策を用いて得られる栄光。


泥にまみれた実務家の道と、天を駆ける天才軍師の道。

その二つの間で、彼の心は激しく揺れ動いていた。


「向朗長史。……理は、分かります。分かってはいるのです」


馬謖は絞り出すように言ったが、その視線は再び地図上の「敵陣」へと彷徨った。


私は、その揺れる瞳の奥に、消し去ることのできない野心の種火を見てしまい、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


彼の才気はあまりに鋭く、そしてあまりに危うい。

諸葛亮という巨大な光に憧れるあまり、彼は自分自身の本質――張蒼のごとき実務の才――を見失いかけている。


(……この才は、天駆ける龍となるか、それとも泥土に塗れる白骨に成り果てるか)


彼がどちらを選ぶのか。それはもはや、私の言葉が届かぬ領域にあるのかもしれない。


天幕を出る私の足取りは、鉛のように重かった。冬の風の冷たさだけが、予感のように私の頬を刺していた。

自信家の慢心と挫折。そんな馬謖のイメージです。


ん?私向朗が張蒼ではないのか?と。

私は天下の事に興味はないですな。(蜀書向朗伝『不干時事』(世情に興味なし))

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