20話 真の作戦 荊州の地獄は冷たき策に蘇り 悪夢の再現に猛将は酔いしれる
怒涛の展開
【真の矛先】
「街亭」
唐突な丞相諸葛亮の言葉に、廷内は一瞬静まり返った。
丞相は、羽扇で地図上の街亭を指し示し、静かに、しかし力強くその真意を説き始めた。
「各々、街亭は、あくまで『蓋』である」
その言葉は明快だった。
「我らが目指す第一の利は、涼州の平定。すなわち、西方の隴西、武威、天水の完全なる確保にある。街亭は、長安からこの地へ至る魏の大軍の喉元。ここさえ塞げば、魏の援軍は涼州に入ることができず、かの地の諸郡は孤立無援となる」
丞相の視線が、地図上の西側一帯をなぞる。
「街亭で敵を食い止めている間に、各隊が西方を席巻する。それが成れば、蜀漢の版図は倍増し、長安を窺う盤石な足場となる。故に、街亭に求められるのは勝利ではない。『不敗』である」
そして、丞相は列席する将たちを見渡し、厳かに宣言した。
「この、耐え忍び、時を稼ぐ重要かつ困難な任……。参軍、馬謖に命じる」
その指名に、武官の列からどよめきと共に、隠しきれない不満の声が上がった。魏延が、我慢ならぬといった様子で進み出る。
「丞相! 街亭は魏の主力が殺到する死地。馬参軍の才は認めますが、敵の猛攻を体で受け止めるような泥臭い防衛戦は、実戦経験の乏しい彼には荷が重すぎる! ここは、この魏延か、あるいは……」
「魏延将軍」
丞相は、魏延の懸念を遮るように、静かに、しかし断固として告げた。
「貴殿の武勇は、敵を撃ち砕く矛。だが、街亭に必要なのは盾だ。敵を撃滅する必要はない。ただ道を塞ぎ、砦を固め、魏軍を一歩も通さなければそれでよいのだ。地形を利した防御の構築ならば、馬謖の知略が最も適していると判断した」
丞相は視線を馬謖に移した。その眼差しは、師として弟子に言い聞かせるような厳しさを含んでいた。
「馬謖よ。決して色気を出してはならぬ。敵を討とうと欲してはなりません。ただひたすらに守り、時を稼ぎなさい。それがこの戦役における、そなたの最大の功績となる。王平将軍を副将に連れて行きなさい。亡き黄忠将軍とともに、定軍山で夏侯淵を討ち取った王平の経験は頼りになる」
「……はっ。承知いたしました」
馬謖は恭しく拝命したが、その伏せた瞳の奥には、「守るだけなど容易いこと。見ておれ、それ以上の戦果を挙げてみせる」という、危うい自負が見え隠れしていた。
一方、出征時の長安奇襲だけでなく、またしても矛を収めさせられた魏延は、屈辱と怒りで全身を震わせていた。
顔は朱を注いだように紅潮し、首筋には太い血管が怒張している。握りしめた拳は、爪が掌に食い込むほどに硬く、今にも何かを殴りつけんばかりの勢いであった。
だが、彼は動かなかった。
「丞相の命令は絶対である」という軍律と、先帝への忠義だけが、暴発寸前の猛虎を辛うじて鎖で繋ぎ止めていた。その姿は、血を流しながら耐えるような、痛々しいほどの忍耐であった。
私はその魏延の背中を見て、唇を噛み締めた。 かける言葉が見つからない。「耐えてくれ」などという軽薄な慰めは、この猛将の誇りを傷つけるだけだ。かといって、馬謖に代わる才、魏延も納得し、かつ丞相の理に適う「第三の案」を提示できるだけの知恵も、私にはない。
(私は長史でありながら、この亀裂を前にして、ただ立ち尽くすことしかできぬのか……!)
魏延の怒りはもっともだ。馬謖の危うさも分かっている。だが、それを調停する術を持たぬ己の無能さが、腹立たしくてたまらない。私の胸の中にもまた、行き場のない憤りが渦巻いていた。
その張り詰めた空気を破るように、魏延の背中に、丞相の声が静かに、しかし熱を帯びて届いた。
「魏延将軍。顔を上げられよ」
丞相は立ち上がり、地図の東側、秦嶺山脈の複雑な道筋を指し示した。
「私が貴殿を街亭に置かなかったのは、貴殿を軽んじたからではない。最強の矛を、盾として使う愚を避けただけだ。……我らの本命は、街亭の防衛だけではないのだ」
廷内が静まり返る。丞相諸葛亮は、魏延の目を真っ直ぐに見据え、切り出した。
「我らの真の狙いは、趙雲将軍と対峙している、魏の本軍。その背後を突く、電撃的な急襲にこそ、ある」
【電撃作戦】
廷内が静まり返る。丞相諸葛亮は、羽扇の柄で地図の東側、秦嶺山脈の複雑な道筋をゆっくりとなぞった。
「我らの本命は……魏の本軍。その背後を突く、電撃的な急襲にこそ、ある」
その言葉に、私は思わず息を飲む。
「今、東方では、趙雲将軍率いる別働隊が、箕谷から長安方面へと侵攻し、魏では曹真率いる十万の主力と対峙している。」
丞相の指先は、滑らかに西方へと流れた。
「我々本軍が涼州を制し、上邽の郭淮を抑え、隴西を平定する……。そして街亭での堅守を行い、その布石が全て完成した時を見計らい、我々の中から選ばれた部隊が、一気に東へと急襲するのです。 そして、箕谷の趙雲軍と対峙している魏の本軍の背後を……一気に突くのです」
これこそが、長年の準備の末に練り上げられた、丞相の真意に違いない。
この戦略は、あまりにも大胆で、同時に美しくもあった。
各方面の布陣は、この急襲の成功のための陽動に過ぎなかったのだ。そして、丞相諸葛亮は鋭い視線を、議論で荒々しくなっていた魏延へと向けた。
「この急襲には……蜀軍きっての勇将であり、何よりもこの秦嶺周辺の土地の細部に至るまで熟知している将が、どうしても必要である」
丞相は、ゆっくりと、しかし断固たる響きを込めて、その字を呼んだ。
「文長。……貴殿に、この急襲軍の指揮を執っていただきたい」
魏延は、豪快な笑みを浮かべていた顔から一転、驚愕に目を見開いた。子午道の奇策を却下された直後、彼が託されたのは、より大規模で、かつ戦役の成否を分ける真の奇策であった。彼の全身から、歓喜と、長年の献身が報われたという熱が噴き出すのを感じた。
丞相諸葛亮は、地図上の渭水沿いの険しい桟道を指先で叩きながら、魏延に具体的な指令を下した。
渭水沿いの桟道はとても大軍が通れる道ではない。
頼みの木牛が通れるのか。確認すら出来ていない道だ。
「魏将軍には、軽騎兵のみ八千を率いて、この山道を疾走し東征にあたっていただきたい。木牛流馬の輜重隊は伴わず騎兵のみで急行、携行する糧は、十日分。」
「十日……」
廷内がどよめいた。片道分の食糧しかない。それは退路を断った特攻に等しい。だが、丞相は表情を変えずに続けた。
「敵将・曹真の本陣を急襲し、これを撃滅した後は、箕谷にいる趙雲将軍の二万と合流されよ」
そして、丞相は事も無げに告げた。
「帰路と追撃に必要な残りの糧は、趙雲の軍がもとより余剰を持たせてあります」
私はその言葉に、背筋が凍りつくのを感じた。
(もとより……?)
趙雲将軍の別働隊は、囮として長安からの魏の援兵を引きつける役目のはずだ。その部隊に、最初から合流する友軍のための兵糧を、余分に持たせていたというのか。
この奇襲は、思いつきではない。出陣の遥か前、いや、この北伐の構想が練られた最初から、この瞬間を見越して計算されていたのだ。
(恐ろしい……。この男は、魏延の性格も、趙雲の堅実さも、すべてを盤上の駒として、何ヶ月も前から配置し終えていたのか)
私は戦慄した。孔明の描く「法」の緻密さは、私の想像の遥か上を行っていた。
魏延は、その恐るべき計画を聞かされ、ニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。 騎兵八千。決して多くはない。対するは魏の主力約十万。常人ならば震え上がる死地だ。
「面白い……。ああ、面白いぞ、孔明!」
魏延は、丞相を字で呼ぶ無礼さえ忘れ、興奮に震えた。
「八千、ああ十分だ! 風のように駆け抜け、曹真の首を挙げてみせよう!」
吠える猛将に対し、丞相は静かに、しかし冷酷な追撃の策を授けた。
「ただし、曹真撃退後は、深追いをする必要はありません」
「何故だ? 一気に長安を……」
「いや。狙いはそこではない」
丞相の瞳に、冷たい光が宿る。
「魏軍の要である曹真が崩れ、扶風郡の安定が失われれば、どうなるか。西方各地の城は、もはや統制を失い、情報も遮断されるでしょう。 統制を失った兵、恐怖に駆られた民が、雪崩を打って東へ、長安へ洛陽へと逃げ惑えば、魏の防衛網はズタズタに引き裂かれる」
丞相は、魏延の目を深く見つめた。
「かつて、曹操の南進により、荊州がどのような地獄を見たか……。その渦中を駆け抜けた我らならば、わかるはずです」
その言葉を聞いた瞬間、魏延の表情が変わった。 彼の中で「長安攻略」という単純な武功への欲求が、より深く、より昏い愉悦へと昇華されたのだ。
家を焼き、故郷を捨て、数十万の民が泥と血にまみれて彷徨った、あの荊州の悪夢。
親とはぐれた子の慟哭。我先に逃れようと友を踏みつける兵。あれは人の世の光景ではなかった。
孔明は今、あの日の「地獄」を、そのまま敵国・魏の心臓部で再現せよと命じているのだ。
西から押し寄せる数十万の難民と敗残兵の濁流。
長安の城門は、この人の波を慈悲をもって呑み込むか、それとも非情に閉ざして見殺しにするか。
門を開けば秩序が死に、閉じれば道義が死ぬ。
どちらを選ぼうとも、長安という巨都は、恐怖と混乱によって内側から破裂する。
「……くくっ」
魏延の喉の奥から、低く押し殺した笑い声が漏れた。 それは過去を懐かしむ感傷ではない。猛獣が、目の前の獲物の喉笛をどう喰いちぎるかを見定め、舌なめずりをするかのような、不敵で危険な笑みであった。
「あの日の絶望を、今度は魏の奴ら自身に味わわせてやるということか。……上等だ。最高の復讐劇ではないか」
魏延はぎらりと目を光らせ、拳を強く握りしめた。
「よかろう。この魏延、その地獄の釜の蓋を開ける役目、喜んで引き受けた。魏の連中に、真の恐怖というものを教えてくれるわ!」
冷徹な策謀家と、獣ごとき武人は、二十年の時を経て、強固に結びついていた証であった。
どんでん返し。
街亭を守れたとして、その後は?に対するアンサーな展開を書いてみました。
稚作は、架空戦記ものではありませんので……この後に続く悲劇的展開をお楽しみください。
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