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第三章 落ちこぼれ剣客と神算の事務屋。三国志の英雄たちが「ドン引き」した、たった一夜の復讐譚 徐庶と向朗の完全犯罪  作者: こくせんや
第一章 丞相を継ぐ者 諸葛亮の法に抗い、諸葛亮の情を支えた一人の友の物語。

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18話 長史の戦 歴史に残らぬ筆は街を灯し 一椀の熱は徹夜の友を癒す

本日1話目になります。向朗の裏方仕事は続きます。

【商人の法】


商談がまとまり、場の空気が和らいだのを見計らって、私はもう一歩、踏み込んだ提案を口にした。これは単なる商いではなく、彼らの生存本能に訴えかける賭けでもあった。


「皆様。我々は手を組んだ。だが、一つだけ懸念がある」


私は地図上の天水郡を指で囲った。

「この地は、これから魏との戦いの最前線となる。勝敗は兵家の常。もし戦況が覆り、魏軍が押し寄せれば、この街は再び戦火に焼かれるだろう。その時、商いは止まり、皆様の財産も命も保証できない」


行の(おさ)たちの顔に、再び緊張が走る。彼らは商人だ。利には敏いが、それ以上に損失にも敏感だ。蜀軍が不利になれば、彼らは(てのひら)を返し、我々との取引などなかったかのように振る舞うだろう。それは彼らの自衛手段であり、責めることはできない。


だが、私は彼らを、単なる現地の協力者として終わらせたくはなかった。彼らの持つ物流と情報の網を、蜀漢の(ふところ)に取り込みたかったのだ。


「そこで、提案がある」

私は穏やかに、しかし力強く告げた。


「皆様の本拠地を、あるいはその一部を、漢中の南鄭、さらには成都へと移してはいかがか」


「移住……だと?」


鏢行の頭目が怪訝な顔をした。


「住み慣れた土地を離れろと言うのか。それに、蜀の道は険しいと聞く」


「道は険しい。だが、その先にあるのは絶対的な安全だ」


私は、丞相の築き上げた法治国家の姿を、誇りを持って語り始めた。


「今の漢中、そして成都の道を行けば、皆様は驚かれるだろう。 道端に落とした物は、持ち主に必ず戻ってくる。夜に戸締りをせずとも、盗賊が入ることはない。 役人は賄賂を求めず、法は万人に平等に執行される。そこにあるのは、魏の支配下にあるような恐怖や疑心暗鬼ではない。計算できる安定だ」


私は彼らの目を一人一人見つめた。

「商いにとって、最大の敵は何か。それは『予測不能な混乱』ではないか? 我が蜀漢の法は厳しい。だが、その厳しさは、皆様の商いを不当な暴力や略奪から守るための鉄の囲いなのだ」


さらに、私は実利を説いた。


「漢中は今、北伐の兵站基地として空前の活気を呈している。成都には、魏では手に入らぬ蜀錦や茶、南中の産物が溢れている。 戦場の最前線で、いつ焼かれるか分からぬ店を守るよりも、後方の安全な地で、我々の法に守られながら、新しい販路を開く。……これこそが、真に賢い商人の道ではないか?」


行の長たちの間に、どよめきが広がった。 彼らは魏の腐敗した政治と、戦乱による略奪に疲れ果てていたのだ。「盗賊のいない道」「賄賂のいらない役所」。それは彼らにとって、夢のような商売環境に聞こえたに違いない。


「……南鄭の治安がそれほど良いというのは、まことか?」

皮行の長が、身を乗り出して聞いた。


「私が保証する。私は長史として、その法の隅々までを監督している者だ」


私の言葉に嘘がないことを、彼らは私の目を見て悟ったようだった。向朗という男の、不器用なまでの篤実さが、彼らの警戒心を解きほぐしていった。


「面白い」

鏢行の頭目が膝を叩いた。


「戦場での商売は、もう懲り懲りだ。あんたの言う『安全な法』とやら、一度見に行かせてもらおうか」

彼らが頷いた瞬間、私は確信した。 これで天水の経済は、蜀漢と一蓮托生となる。彼らが移住すれば、天水が再び魏の手に落ちたとしても、その富と機能は、すでに我々の腹の中にあるのだから。

私は、彼らに深々と頭を下げた。それは征服者としてではなく、共に国を富ませる同志としての礼であった。



【夜明けの誇り】


 連日にわたる商人たちとのヒリつくような交渉、そして夜な夜な続く膨大な竹簡と木簡の山との格闘。それらに、ようやく一区切りがつこうとしていた。


 官舎の窓の外が、墨を流したような闇から、白々と透き通るような瑠璃色へと変わり始めていた。


 私は、筆先が震えそうになるのを指の力で抑え込み、最後の一巻の結びの署名を書き入れた。


『蜀漢丞相府長史 向巨達』


 筆を硯に置くと、カタン、と乾いた音が静寂の部屋に響いた。それが、長い戦いの終わりを告げる鐘の音のように聞こえた。 


 ふう、と深く息を吐き出す。

 私は強張った指を解き、すぐさま手元に置いてあった風呂敷包みに手を伸ばした。


 中に入っているのは、先日、この官舎の書庫から掘り出した宝物――魏の大臣であり能書家として名高い鍾繇が揮毫した『急就章』の写本である。


 この徹夜の激務を耐え抜けたのも、すべてはこの美しい筆運びを心ゆくまで愛でたいという、不純かつ強烈な執着心があったればこそだ。


 私は包みの上からその感触を確かめ、小さく頷いた。

「……長史殿。お疲れ様でした」 


 沈黙を破り、労いの声をかけてきたのは、私の左右で共に筆を振るっていた副官の姚伷と楊顒だ。 


 二人は、目の下に墨を塗ったような濃い隈を作り、頬はこけ、髪は乱れている。天下の能吏と謳われる彼らが、まるで敗走した落ち武者のような有様だ。だが、その目には「やりきった」という充実した光が宿り、口元には穏やかな笑みさえ浮かんでいる。


 対照的なのは、部屋の隅にうずくまっている若者たちだ。

 天水の麒麟児・姜維、そして梁緒、尹賞。


 戦場では一騎当千の働きを見せるであろう彼らも、今は魂が抜けたように壁にもたれかかり、白目を剥きかけている。


 剣を振るう筋肉と、筆を振るう筋肉は違うのだろう。慣れない事務処理と、私の常軌を逸した処理速度に振り回され、彼らの精神力は限界を迎えていた。


「……し、死ぬかと思いました……」


 姜維が掠れた声で呟く。


「戦場で三日三晩戦う方が、まだ楽です……。向朗公は、化け物ですか……」


「人聞きが悪いな、若人よ。私はただの、本好きの老人だよ」


 私が苦笑すると、楊顒が部屋の隅にある火鉢へと向かった。そこには、数刻前から小さな土鍋が掛けられており、コトコトと微かな音を立てていた。


 楊顒が布を使って蓋を開ける。


 ボワッ、と白い湯気が立ち昇り、同時に、食欲を強烈に刺激する香りが部屋いっぱいに広がった。

 煎った茶葉の香ばしさ、刻んだ生姜のツンとした刺激、そして煮込まれた葱の甘い香り。


「おお……」


「ささやかなものですが、茶粥です。徹夜の空きっ腹には、何よりの薬でしょう」


 姚伷が手際よく椀に配膳し、私に、そして死に体の姜維たちにも差し出した。


 姜維は震える手で椀を受け取った。その手が、重たい槍を持つ時よりも頼りなく揺れているのを見て、姚伷がからかうように笑った。


「おや姜維殿、箸も持てませんか? これからが本番ですぞ。蜀の官吏たるもの、筆一本で山を動かす気概がなくては」


「か、勘弁してください……。姚伷殿や楊顒殿は、よく平気な顔をしておられますな……」


「慣れですよ。我々は長年、この古狸……失礼、長史の嵐のような仕事ぶりに付き合わされてきましたからな。これくらいは準備運動のようなものです」


 楊顒が涼しい顔で茶粥を啜る。その姿に、姜維たちは畏怖の念を抱いたようだった。


 私たちは卓を囲んだ。それは主君と部下というよりは、共に死線を潜り抜けた戦友の集いのようだった。

 私は椀を両手で包み込んだ。陶器を通して伝わる熱が、冷え切った指先を解凍していく。

 フゥフゥと湯気を吹き、熱い液体を啜る。


「……っ」

 熱い。そして、美味い。


 とろりと煮込まれた米の甘みと茶の苦味、そして塩気の効いた汁が、食道を焼きながら胃袋へと落ちていく。生姜の辛味が、凍りついていた五臓六腑に染み渡り、葱の香りが凝り固まった脳の皺を一枚一枚優しく伸ばしていくようだ。


 ただの粥ではない。これは命のスープだ。


「……うまいな。生き返るようだ」


 私がしみじみと漏らすと、二人は顔を見合わせて、子供のように破顔した。


「ええ、本当に。……戦場で武功を立てた将軍たちが飲む勝利の美酒というのは、もっと華やかな味がするのでしょうが」


 楊顒が自嘲気味に、しかしどこか誇らしげに言った。


「我らの杯にあるのは、ただの茶粥。我らの仕事は、敵将の首を取るわけでもなく、天下を驚かす奇策でもない。薄暗い部屋で、埃まみれになりながら、筆と木簡と格闘するだけの地味な作業です。どんなに働いても、歴史書には一行も残らんでしょうな」


 楊顒の言葉には、文官特有の哀愁があった。

 華々しい武功は語り継がれる。だが、その背後で兵站を支え、占領地の治安を守り、民を飢えさせないために奔走した官吏の名は、歴史の波に消えていく。


 姜維が、粥を啜りながら複雑な表情で俯いた。若き武人にとって、「歴史に残らぬ激務」とは、受け入れがたいものなのかもしれない。


「ですが、楊顒殿」


 姚伷が、茶碗を愛おしげに両手で包みながら、静かに、そして姜維たちに聞かせるように応じた。


「我々が徹夜で整えたこの帳簿一つで、今日は千の民が安心して市場で買い物ができるのです。不当な取り立てに怯えることなく、商人が店を開き、飢えた子供に温かい粥が行き渡る。……無数の敵を屠り、しかばねの山を築くよりも、よほど良い仕事ではありませんか」


 姚伷の言葉は、朝の光のように真っ直ぐだった。

 姜維の手が止まる。彼はハッとしたように顔を上げ、姚伷を、そして私を見た。


 私は深く頷き、茶粥の最後の一滴を飲み干した。


「違いない。……実はな、二人に隠していたことがある」


「隠し事ですか?」


「ああ。私は仕事が嫌いだ。面倒くさがりで、本当はずっと書庫に籠もって『急就章』の筆運びを眺めていたい。だから、仕事などさっさと終わらせてしまいたかった」


 二人が目を丸くする。私はニヤリと笑った。


「だがな、整った帳簿を見るのは好きだ。整っていなければ自ずと仕事が増える。あるべきものがあるべき場所に収まり、民の暮らしが滞りなく回る。……その『当たり前』を作るのは、英雄の剣ではない。我々の筆だ。誰にも称賛されず、記録にも残らない。だが、この地味な仕事こそが、荒れ果てた土地に『日常』という名の平和を取り戻すのだ」


 その確かな手応えが、どんな勲章よりも私たちの胸を満たしていた。

 私たちは空になった器を置き、誘われるように窓辺に立った。


 重厚な木枠の窓を押し開ける。


 キィ、という音と共に、冷たくも清々しい朝の空気が流れ込んでくる。頬を撫でる風は、昨夜までの澱んだ空気を一掃し、新しい一日の始まりを告げていた。


 眼下には、朝焼けに染まり始めた冀県城の町並みが広がっている。


 薄紫色の空が、徐々に黄金色へと変わっていく。

 家々の煙突からは、朝餉あさげの支度をする白い煙が立ち上り始めている。大通りには、荷車を引く商人や、畑へ向かう農夫たちの姿が豆粒のように見えた。

 昨日までは、略奪を恐れて息を潜めていた街が、今は呼吸を始めている。


「見てください、あそこの屋根。瓦が朝日に輝いて、まるで金のようですな」


 楊顒が指差した先で、朝陽を受けた寺院の屋根がキラリと光った。


「昨日はあんなに静まり返っていたのに、もう人の声が聞こえる」


 姚伷が耳を澄ませる。遠くから、市場の開門を待つ人々のざわめきや、犬の鳴き声、荷車の車輪が回る音が風に乗って届いた。それは、平和な日常の喧騒だった。


「今日の朝市には、きっと新鮮な野菜が並ぶでしょう。あとで少し、視察と称して覗いてみますか」

「いいな。ついでに美味い酒でも買って、今夜はささやかな祝杯といこうか」

「長史、仕事は終わったのですから、まずは泥のように眠るべきでは?」

「何を言う。こんなに良い朝に寝るなど勿体ない。……本を読むには最高の光だぞ」


 私が懐の『急就章』をポンと叩くと、二人は呆れたように、そして嬉しそうに笑った。


 姜維たちも、壁際で力なく、しかし尊敬の眼差しでこちらを見て笑っている。


 他愛のない会話が、朝の光の中に溶けていく。


 私たちは、自分たちが守り抜いたこの穏やかな風景を、ただ静かに、満足げに見つめていた。

 それは、法と情を紡ぐ者たちだけが共有できる、至福の夜明けであった。



----------あとがき----------

締め切り直前のような仕事風景。


彼ら裏方の仕事が一日でも早く、正確であればあるほど、音を立てず潤滑して世の中が回っていく。

そんなイメージですね。

悲しいかな。彼らの統治は短い。。。

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