16話 冀県城の解放 凍てつく心は漢の風に解け 仁愛の法は民の涙を拭う
本日1話目になります。
【捨てられた街の慟哭】
天水郡、冀県城
。
灰色の厚い雲が、城壁の上空に重く垂れ込めていた。時折吹き抜ける涼州特有の乾燥した風が、土埃を巻き上げ、人々の肌を刺す。だが、民たちが震えていたのは、寒さのせいだけではなかった。
「太守様が……逃げたぞ!」
その悲鳴にも似た叫び声が、城内の静寂を切り裂いたのは、太陽が中天に差し掛かる頃であった。
魏の天水太守・馬遵。彼は、蜀軍の接近を知るや、配下の将や民を守るどころか、彼らが蜀と通じていると勝手な疑心を抱き、側近だけを連れて上邽へと逃亡したのである。
主を失った城は、嵐の中の小舟のように混乱の渦に飲み込まれた。
城下町の路地裏では、古着商の老人が、震える手で商品の布を土間に隠そうとしていた。
「なんということじゃ……。お上が逃げ出すとは……。蜀の軍が来たら、わしらは皆殺しにされるんじゃろうか」
彼の脳裏には、魏の宣伝によって植え付けられた「蜀兵は血に飢えた野蛮な賊徒」という恐怖の印象が焼き付いている。
「爺さん、早く戸を閉めろ! 略奪が始まるぞ!」
隣家の若者が怒鳴るように言いながら、自分の家の窓に板を打ち付けている。その目は血走り、恐怖で正気を失いかけていた。
市場は阿鼻叫喚の巷と化していた。
食料を買い占めようとする者、家財道具を背負って逃げ惑う者、子供の名前を泣き叫びながら探す母親。
「魏軍でさえ我らを見捨てたのだ! 敵軍が情けをかけるはずがない!」
「女と子供は蔵の中に隠せ! 見つかったら何をされるか分からんぞ!」
城門を守る兵士たちもまた、指揮系統の崩壊により恐慌を来していた。
「太守がいないのに、誰のために戦うんです! 俺たちも見捨てられたんだ!」
「逃げろ! 蜀軍が来るぞ!」
槍を捨て、持ち場を離れようとする兵士たち。その混乱の濁流を、一人の若き武将が鋭い一喝で押し留めた。
「狼狽えるなッ!!」
雷のような怒号が響き渡った。
兵士たちが足を止める。その視線の先にいたのは、天水郡の中郎を務める、姜維であった。
年の頃は二十代後半。涼州の風に鍛えられた精悍な顔立ちに、知性と武勇を兼ね備えた、爛々たる眼光を宿している。「天水の麒麟児」と噂される若き俊英だ。
「ちゅ、中郎……! ですが、太守様が!」
「太守が逃げようとも、この冀県城には数万の民がいる! 我らが持ち場を離れれば、誰が民を守るのだ!」
姜維は拳を震わせながら、馬遵が逃げ去った東の空を睨みつけた。
(疑心暗鬼に駆られ、我らを置いて逃げたか……馬遵!)
唇を噛み締め、血の味が口に広がる。信頼していた上官に「裏切り者」のレッテルを貼られ、置き去りにされた屈辱と絶望。
だが、彼は個人的な感情を鋼の理性で押し殺し、剣の柄を強く握り直した。
「城門を閉ざせ! 暴徒を鎮圧し、治安を維持せよ! 蜀軍が来るまで、この街を無秩序な地獄にするな!」
姜維の凛とした姿と、迷いのない命令に、兵士たちは正気を取り戻した。
「は、はいッ!」
彼らにとって、逃げた太守よりも、今ここに踏み止まっている若き中郎の方が、よほど頼るべき「主」に見えたのだ。
姜維は、混乱する城下を見下ろした。
彼にとっての戦いは、迫りくる蜀軍への迎撃ではない。主を失い、崩壊する秩序の中で、民を自滅から守るための孤独な戦いであった。
【第二章:静寂の進軍】
やがて、地響きと共にその時は訪れた。
城外に、緑色の軍旗が林立し、整然とした隊列を組んだ軍勢が姿を現す。
蜀漢の丞相、諸葛亮孔明率いる北伐軍である。
城内の民衆は息を殺し、板戸の隙間から、あるいは城壁の影から、恐る恐るその様子を覗き見た。
怒号と共に城門が破られ、雪崩のように兵が押し寄せ、火が放たれる――誰もがそんな地獄絵図を想像し、身を硬くした。
だが。
城門は、内側から静かに開かれた。
姜維ら取り残された官吏たちが、民への被害と無駄な抵抗を避けるために開門したのだ。
そして、入城してくる蜀軍の姿に、冀県城の民は我が目を疑った。
足音こそ重厚で大地を揺らすものであったが、そこには一切の「乱れ」がなかった。
兵士たちは一言も発さず、隊列を崩さず、ただ粛々と大通りを行進してくる。
彼らの目は、民家の財産を物色するような卑しい光を宿してはいなかった。ただ真っ直ぐに前を見据え、規律という名の鋼の鎧を精神にまとっていた。
「……おい、見ろ。誰も叫んでいないぞ」
隠れていた商人が、妻に耳打ちする。
「店を壊さない……。火もつけない……」
農夫が、信じられないものを見る目で呟く。
ある小隊が、水甕を持った老婆の前で足を止めた。老婆は「殺される」と思い込み、腰を抜かして座り込んだ。
だが、蜀の兵士は懐から銅銭を取り出し、老婆の前に置いた。
「婆殿、水を一杯いただきたい。これはその代金だ」
丁寧な言葉遣い。そして、対価を払うという当たり前の、しかし戦場ではあり得ない行為。
老婆は呆然としながら水を差し出し、兵士はそれを飲み干すと、礼を言って再び隊列に戻った。
略奪も、暴行も、放火も皆無。
その光景は、魏の支配下での乱暴な徴発に慣れきっていた冀県の民にとって、衝撃以外の何物でもなかった。
これは「賊」ではない。「軍」だ。それも、極めて志の高い、王者の軍だ。
恐怖の色が、少しずつ、困惑と好奇心へと変わっていく空気が、城内に漂い始めた。
【見捨てられた麒麟】
城内の中枢、官舎の広間。
そこには、太守に見捨てられた下級官吏たちが集まっていた。
その先頭に立っていたのは、功曹の梁緒と、中郎の姜維であった。
姜維の端正な顔立ちには、敗者としての屈辱よりも、複雑な感情が渦巻いていた。
主君・馬遵への失望。自分たちを疑い、切り捨てて逃げた卑劣さへの怒り。そして、これから自分たちが、そしてこの街がどうなるのかという、底知れぬ不安。
彼は剣を捨て、後ろ手で縛られる覚悟を決めていた。
「来るぞ……」
梁緒が短く呟く。
広間の扉が開き、蜀の兵士たちが左右に展開した。
その間を通り抜け、一人の人物が入ってくる。
姜維は、身構えた。
敵の総大将。鬼のような形相をした猛将か、あるいは狡猾そうな策士か。
だが、現れた人物を見て、姜維は息を呑んだ。
その人物は、豪奢な鎧兜を身に着けてはいなかった。
手に剣も持っていない。
ただ、白い羽扇を手にし、白絹を身に纏い、静かな瞳で彼らを見つめていた。
「我らは抵抗いたしません」
姜維はその場の空気に押されるように、膝をついた。喉が渇き、声が震える。
「城内の民の安全だけは、何卒……何卒、お慈悲を……」
姜維が額を床に擦り付けようとした、その時である。
温かい手が、姜維の手を取った。
「面を上げられよ、姜伯約」
穏やかで、しかし芯のある声だった。
姜維が顔を上げると、そこには慈父のような眼差しがあった。
「貴殿らが太守に見捨てられ、苦渋の決断をしたことは承知している。……民を守るため、よくぞ踏み止まった」
その言葉には、敗者を嘲る響きは微塵もなかった。
姜維の目頭が熱くなった。魏の陣営では感じたことのない、「人」としての温もりが、その手から伝わってきた。
諸葛亮は、跪く他の官吏たちにも視線を向け、静かに頷いた。
その手には、敗者を裁く剣ではなく、迷える同胞を迎える導きの灯火があった。
【広場の白き賢者】
その日の午後。
冀県城の中央広場には、降伏した官吏と、不安に駆られた数千の民衆が集められていた。
蜀軍の命令により集結した彼らだが、その心はまだ恐怖に支配されている。
「ここで皆殺しにされるんじゃないか」
「男は兵隊に取られ、女は売り飛ばされるんだ」
囁き声がさざ波のように広がる。子供は親の服を握りしめて震え、老人たちは絶望のあまり天を仰いでいる。
空はまだ曇っていたが、雲の切れ間から薄日が差し始めていた。
広場の中央に設けられた演台。
その周囲を、蜀軍の精鋭が微動だにせず警護している。その規律正しさが、逆に民衆の緊張を高めていた。
やがて、太鼓の音が一つ、ドンと響いた。
静寂が広場を支配する。
演台の上に、一人の男が姿を現した。
その瞬間、数千の民衆から、どよめきにも似た感嘆のため息が漏れた。
そこにいたのは、黄金で飾られた鎧をまとう将軍でもなければ、錦の衣を重ねた傲慢な支配者でもなかった。
身長は八尺あろうか。すらりとした長身。
そして何より人々の目を奪ったのは、彼が身にまとっている衣服であった。
飾り気のない、白絹の漢服。
染色も刺繍も施されていない、生成りの白。
それは、富や権力を誇示するものではなく、むしろ清貧と高潔さを象徴する、学者の装束であった。
風にたなびくその白い衣は、泥と血にまみれた戦国の世にあって、あまりにも潔白で、あまりにも異質だった。
「あれが……蜀の丞相か?」
「なんと……まるで仙人のようではないか」
農夫も、商人も、兵士も、その姿に目を奪われた。
一国の宰相であり、全軍を統べる総司令官である男が、これほどまでに質素で、これほどまでに美しい姿をしているとは。
諸葛亮は、羽扇を胸元に寄せ、静かに群衆を見渡した。
その瞳は、深い湖のように澄んでいながら、底知れぬ知性と意志の光を宿していた。
【王道の宣言】
広場が水を打ったように静まり返る中、諸葛亮の声が響いた。
決して大声ではない。怒鳴り声でもない。
だが、その声は朗々と澄み渡り、広場の隅々にいる老人の耳にまで、はっきりと届いた。
「冀県の民よ、そして官吏たちよ。面を上げられよ」
彼はゆっくりと、一人一人の目を見るように語りかけた。
丁寧で、礼節を重んじる言葉遣い。だが、その響きには、岩をも砕くような強固な意志が込められていた。
「私は、漢の丞相、諸葛亮である」
名乗りの後、彼は羽扇で天を指した。
「昔、曹操は漢の恩を受けながら、その力をもって天子を蔑ろにし、社稷を危うくした。その子、曹丕は帝位を簒奪し、天下を私物とした。その罪は天人共に許さざる大逆であり、魏とは即ち、漢を盗んだ逆賊の偽りの名に過ぎぬ」
その言葉は、単なる敵への罵倒ではなかった。
歴史の正しさを問い、天の理を説く「正議」そのものであった。
民衆は息を呑んだ。これまで魏の支配下で教えられてきたこととは正反対の言葉。だが、諸葛亮の凛とした声には、有無を言わせぬ真実の響きがあった。
「邪は正を犯さず、偽りは真を覆せぬ。我ら漢軍が此度、険しき山を越えここに来たのは、領土を奪うためでも、民を虐げるためでもない。逆賊の穢れを払い、万民をあるべき『正しき漢の治世』へと還すためである」
諸葛亮の視線が、震える老婆や、怯える子供たちの上に優しく注がれた。
「恐れることはない。我らの敵は魏の曹氏一門とその追従者のみ。罪なき民ではない」
そして、彼は懐から一巻の書簡を取り出した。
彼がそれを広げると、背筋がさらに伸び、空気が張り詰めた。妥協を許さぬ、法の執行者としての顔がそこにあった。
「ここに、我が軍の法を宣言する。これは軍律であり、破る者は、たとえ私の親族であろうと容赦なく斬る」
厳格な響きに、民衆が身を縮こまらせる。だが、続く言葉は、彼らの予想を裏切るものだった。
「一、民の財を犯す者は斬る。穀物一粒、布一端たりとも、民から奪うことを禁ずる」
「二、魏の不当な悪政を廃し、漢の仁政に戻す。過酷な徴税、不当な労役は即刻停止する」
「三、過去に魏に仕えた罪は一切問わぬ。才能ある者は、出自を問わず登用する」
広場にどよめきが走った。
略奪の禁止。減税。そして罪の赦免。
それは、力による支配(覇道)の否定であり、法と徳による統治(王道)への回帰であった。
諸葛亮は、書簡を巻き納めると、再び穏やかな表情に戻り、民衆に語りかけた。
「諸君らは今日より、征服された民ではない。誇り高き『漢の民』として、再び天日の下を歩むのだ。……法を守り、正しく生きる者には、私が、そして漢の国が、安寧を約束しよう」
【第六章:魂の雪解け】
その言葉が落ちた瞬間。
広場を包んでいた鉛のように重い空気、氷のような恐怖が、春の日差しを浴びた雪のように、音もなく解けていくのを私は感じた。
「……殺されないのか?」
「奪われないのか? ……許されるのか?」
誰かの呟きが、波紋のように広がっていく。
一人の老婦人が、地面に崩れ落ち、両手で顔を覆った。
嗚咽が漏れた。それは恐怖の涙ではない。
この涼州の地は董卓の暴政、馬超の反乱、異民族の略奪、魏の圧政と、長く長く戦乱の恐怖に晒され、心まで凍りついていた人々が、初めて「人」として扱われたことへの、魂の震えるような安堵の涙であった。
「丞相万歳……! 漢万歳……!」
最初は小さな声だった。だが、それはすぐに広場全体を揺るがす歓呼の声となった。
太守に見捨てられた絶望は、新たな、そして真の指導者を得た希望へと変わった。
その歓声の中、演台の上の諸葛亮は、誇らしげに、しかし決して驕ることなく、静かに民衆を見守っていた。その白絹の衣は、西に傾きかけた陽光を浴びて、神々しいまでに輝いていた。
演台の袖で、姜維もまた、諸葛亮の背中を見つめていた。
その瞳は、魂を奪われたかのように釘付けになっていた。
疑心で部下を捨て、民を見捨てて逃げた馬遵。
大義と信義を掲げ、敵地の民すらも法と情で包み込む諸葛亮。
そのあまりの落差。そのあまりの器の違い。
(これが……王道……。これが、私が求めていた主君……!)
姜維の拳が震えていた。悔しさではない。武者震いとも違う。生涯を捧げるべき道を見つけた、若者の激情であった。
私は、歓喜に沸く民衆と、その中心に立つ白い賢者の姿を見ながら、胸を熱くした。
武力で城壁を崩すことは容易い。だが、人の心の城壁を崩し、その中に入ることはなんと難しいことか。
友、諸葛亮は、剣を一振りもすることなく、ただその「志」と「法」によって、冀県の人々の心を征服したのだ。
この「冀県城の宣言」は、北伐における最初の、そして最大の精神的勝利として、後世まで語り継がれることとなる。
空を覆っていた灰色の雲が切れ、眩い光が冀県城に降り注いでいた。それはまるで、漢の復興を告げる天の祝福のようであった。
すまぬ。姜維。君はこの先も活躍しません。
万能有能丞相ラブな姜維が物語を仕切ると、我らが向朗の出番がなくなるのです。。。




