閑話 楷書は骨の上に成る
あけましておめでとうございます。
正月用の閑話になります。時間軸は本編より少しだけ先に進んだ話になります。
【墨痕の戯れ】
北伐の最前線。
十万の将兵という膨大な血液を循環させるため、兵糧、矢玉、馬草の数字が、私の机上を奔流となって駆け抜けていく。
私の名は向朗。丞相長史として、この巨大な軍の兵站を統括する立場にある。
老骨には堪える激務だが、主君・劉備より託された夢を追い、そして友である丞相諸葛亮を支えるべく、いまだ現役で官吏を続けている。
深夜、ふと筆が止まった。 数字の羅列に目が霞む。乾ききった職務の砂漠で、私は水を求めるように、手元の決済書類の山から一冊の異質な書物を引き抜いた。
『急就章』
先頃、我が軍が魏の太守の屋敷から押収された戦利品の一つだ。
「価値の分からぬ武官に渡るよりは」と、私の元へ回されてきたのだ。 筆者は魏の太傅、鍾繇。敵国の重鎮にして、天下無双の能書家である。
「……ふむ。戦乱の世にあっても、墨の香りは変わらぬな」
私は張り詰めた軍務の空気を肺から追い出し、その書を開いた。 見事な筆致だ。文字の一つ一つが、まるでそよ風に乗り、空を舞う青龍の如く躍動している。私は束の間、敵味方の境を忘れ、その芸術的な「書の流れ」の美しさに酔いしれた。
だが、巻末に至り、私の目は異変を捉えた。 乱れている。 それまでの典雅な筆運びが、急に痙攣を起こしたかのように崩れ、墨が悲鳴を上げるように飛び散っている。 その余白に、震える文字で走り書きがあった。
『……夜毎、美姫来たりて寝所に入る。その肌は死人の如く冷たく、我が精気は枯れゆくばかり。筆を持つ手も震え、文字が形をなさぬ。誰か、この悩みを除く術を知らぬか』
読み終えた私は、呆気にとられ、次いで腹の底から笑いがこみ上げてきた。 魏の筆頭大臣ともあろう者が、夜ごとの夢魔に悩まされ、精魂を吸い取られているとは。 天下を分かつ大戦の最中に、なんと人間臭く、なんと湿っぽい悩みか。
「……ふ、ふふ。面白い。夢魔の女よ」
私は独りごちた。 こちらの陣営では、諸葛丞相も、私も、楊儀も、乾いた骨となって法を執行しているというのに、敵の老人は女の幽霊にうつつを抜かしている。 そのあまりの落差が、私の心に潜む「悪童」を呼び覚ました。
――からかってやろうか。
ふと、そんな衝動が湧いた。
私は筆立てから、軍務で使い慣れた太い剛筆を選び取った。繊細な書の筆ではない。物資を強制徴発する際に使う、無骨な筆だ。 真面目に答える義理はない。どうせ相手は敵国の要人。この書が彼の手元に戻る保証すらないのだ。ならば、蜀の頑固爺として、思い切り野暮で乱暴な「戯言」を投げつけてやればいい。
私はたっぷりと墨を含ませ、鍾繇のひょろひょろとした弱気な文字の隣に、もはや書としての美しさなど知らぬ存ぜぬといった風情で、書き殴った。
『夢の中にて、その女の太股を貴殿の細筆で斬りつけなさい』
我ながら、あまりに品がない。 「心を清めよ」でも「薬を飲め」でもない。夢の中の女を斬れ、などと。まともな官僚の吐く言葉ではない。 だが、筆は止まらなかった。酒も入っていないのに、激務の疲れが逆に精神を高揚させているのかもしれない。
『傷跡を見れば、正体も知れよう。――蜀の向巨達より』
署名までしてやった。 これを読んだ鍾繇は、どうするだろうか。 「蜀の長史は野蛮な狂人か」と激怒するか。「下品な」と眉をひそめるか。それとも、遠い異国の老人が書き込んだ落書きに、苦笑いの一つも漏らすだろうか。
書き終えて筆を置くと、胸の中に溜まっていた澱が消え、妙な爽快感があった。 それは、重厚な鎧を脱ぎ捨て、裸で泥水に飛び込んだような背徳の喜びだった。
「さて……」
私はこの書を、捕虜交換の使者の荷に紛れ込ませることにした。 深い意味などない。ただの気まぐれだ。 この悪ふざけが、まさか後に楊儀を青ざめさせ、あろうことか現実の怪異となって鍾繇を震え上がらせることになろうとは、この時の私は夢にも思っていなかった。
私はニヤニヤと笑いながら、再び味気ない兵糧の帳簿へと視線を戻した。
【向朗と楊儀】
翌日。兵站の数字の壁に囲まれた私の執務室に、刺すような冷気を纏った男が入ってきた。 楊儀である。
彼は私の部下にあたるが、その才気と実務能力は丞相・諸葛亮も高く評価している。
同時に、その性格は研ぎたての剃刀のように鋭利で、他者の感情という柔らかい皮膚を容易に切り裂く。
楊儀は私の机の上に、昨夜の『急就章』を投げ置く。検閲で止められたのだ。
「長史。ご説明願えますか」
その声には、上官に対する敬意よりも、職務上の重大な汚点を咎める検察官のような響きがあった。
「私が捕虜返還の荷に紛れ込ませたものだ。何か問題かな、楊儀」 「問題しかありません」
楊儀は書物を開き、私が書き込んだ箇所を指差した。
「敵国の要人・鍾繇との私的な通信。それ自体が軍律に抵触する恐れがありますが、百歩譲ってそれは良しとしましょう。問題はこの文言です」
楊儀の目が、私を解剖するように見据える。
「『太股を斬れ』。……これは何の暗号です?」 「暗号?」 「とぼけないでください。長史ともあろうお方が、これほど無意味で、かつ品のない言葉を公文書(手紙)に残すはずがない。『太股』とは敵の兵站線のことか、それとも特定の将軍の隠喩か。貴殿は魏の内部に独自の工作を仕掛けているのですか?」
楊儀の早口な糾弾を聞きながら、私は思わず噴き出しそうになった。
やはり、この男は真面目すぎる。すべての事象を「法」と「理屈」という骨格だけで捉え、その隙間にある「遊び」を理解できない。
「楊儀。裏などない。ただの戯言じゃよ」
私は筆を置き、好々爺の顔でひらひらと手を振った。
「文字通りの意味だ。鍾繇が『夢に幽霊が出て困る』と泣き言を書いてきたのでな。『ならば斬ってしまえ』と書き添えたまでよ」
「は……?」
「ほれ、我々のような年寄りは、夜になれば心細くなるものだ。ただの思いつきよ。役人の言葉ではないな、確かに」
私は悪びれもせず、呵呵と笑った。
実際、それはまったくの「戯言」だった。
北伐という国家の命運をかけた戦いの最中、丞相長史という重職にある者が、敵国の高官に「夢の中で女を斬れ」などと書き送る。狂気の沙汰と言われても仕方がない。
だが、だからこそ面白いのではないか。
魏きっての名臣、鍾繇がこれを読んだら、どうなる? 「蜀の向朗は発狂したか」と呆れるか。「無礼千万」と顔を真っ赤にして怒るか。それとも、この老人の悪意あるユーモアを理解し、苦笑いするか。 その反応を想像するだけで、乾ききった軍務の隙間に、一滴の潤いが落ちる気がしたのだ。
楊儀は口を半開きにし、絶句していた。 彼の優秀な頭脳が、そのあまりに非合理で、職務怠慢とも言える回答を処理できず、空回りしている。
「……正気ですか?」
やがて、彼が絞り出した声には、露骨な軽蔑と、生理的な嫌悪が混じっていた。
「十万の将兵の命を預かる貴殿が……ただの暇つぶしで、そのような世迷い言を? 公私の区別もつかぬほど、老いられたのですか」
「かもしれぬな。老いるというのは、骨が脆くなり、言葉が軽くなるということよ」
私がのらりくらりと答えると、楊儀は汚物を見るような目で私を一瞥し、鼻を鳴らした。
「……結構です。追及するのも馬鹿馬鹿しい」
彼は冷たく言い放った。彼の目には、私という存在が、効率的な機械の中に混入した、除去すべき「腐敗した肉」のように映っているのだろう。
「この書、そのまま送りましょう。修正など無用です」
「ほう? 通してくれるか」
「ええ。魏の重臣たちが、蜀の兵站責任者がこれほど『低俗』で『耄碌』していると知れば、我らを侮り、油断するでしょうからな。……貴殿の恥が、国の利益になることもある」
強烈な皮肉を残し、楊儀は書物を持って退出していった。 私はその背中を見送りながら、愉快な気分で茶を啜った。
耄碌、か。 結構なことだ。
楊儀には見えぬのだ。骨組みだけでは家が建たぬように、張り詰めた法と規律だけでは、人の世の怪異には対抗できぬことが。
私が放った「戯言」という小石が、遠く洛陽の池にどんな波紋を広げるか。それは、冗談のわからぬ楊儀には計算できぬ領域の話だ。
私はニヤリと笑い、再び兵糧の帳簿に視線を戻した。
【楷書は骨の上に成る】
それから一月が経った。涼州における魏との戦線は拡大していた。
そして魏の商人ルートを通じて、私の元に一つの桐箱が届いた。
「おや鐘繇からの返書とは。私の荒療治にどう答えたかな」
当然、手元に届いたということは、あの堅物楊儀の検閲も通っていることになる。
「はてさて」
兵站の苦労を束の間忘れ、私は箱を開けた。
瞬間、鼻を突いたのは墨の香りではなく、鉄錆と湿った土の匂いだった。
箱の底には、丁寧に畳まれた書状と、血で黒ずみ、乾ききった一塊の綿が入っていた。
「……!」
私は息を呑んだ。 書状には、鍾繇の署名とともに、事の顛末が記されていた。
『――貴台の策に従い、夢魔の太股を筆で断ち斬った。手応えは生肉のそれであった。翌朝、筆からポツポツと続く血痕を辿れば古墓に行き着き、棺の中の女の屍の太股に刀傷を見つけた。この綿は、その血を拭ったものである』
冗談ではない。綿から漂う死臭は本物だ。
私の「斬れ」という言葉は、千里を越えて物理的な刃となり、夢と現の皮膜を切り裂いたのだ。 背筋に冷たいものが走った。
だが、私が最も戦慄したのは、その怪異譚ではない。 鍾繇が送ってきた、その「文字」そのものであった。
以前の、感情に任せて乱れ飛んでいた筆致は、完全に消滅していた。 そこに並んでいたのは、以前の風の流れ、音の調べのような繊細な動きの書から変わり、極限まで整えられ、微塵の隙もなく構築された、全く新しい書体だった。
一画一画が、石を切り出したかのように正確な正方形の中に収まっている。 「止め」「跳ね」「払い」。すべての運筆が、法家が定めた律令のように厳格なルールに則り、絶対的な秩序となって紙面を支配している。
私は悟った。 鍾繇は、恐怖したのだ。心の隙、筆の乱れが魔を招いたのだと。 だからこそ、彼は二度と怪異が入り込む隙間を与えぬよう、筆先で結界を張り、文字という牢獄を築き上げたのだ。
「鐘繇……貴公は、霊を封じるために、この文字を作ったのか」
実益を重んじる楊儀にはわかるまい。楊儀にとって「文字」は情報を伝える「数値」でしかない。しかし、この新しい文字がつくりなす格式、感情を抑えた均整な規範。見事、と言うしかない。
私は静かに箱を閉じた。 遠くで、軍の出立を告げる鐘が鳴った。街亭へ向かう馬謖の軍勢だろうか。 一抹の不安がよぎる。理屈と才気に溺れ、実戦の「泥」を知らぬ馬謖の危うさと、このあまりに完成されすぎた文字の冷たさが、ふと重なって見えたからだ。
骨だけでは、脆い。 私はその予感が外れることを祈りながら、再び兵站の数字の海へと戻っていった。
後世、この書体は「楷書」、と呼ばれ、公文書の規範となった。
だが、その完璧な骨格の礎には、血生臭い怪異と、二人の老人の戯れが埋められている。
鐘繇。
時の皇帝曹丕から、一代の偉人、後世でこれを継ぐことは難しいだろうと言われた、三臣。鍾繇・華歆・王朗の一人。
書家としても有名であり、鍾繇体と呼ばれる、隷書と楷書の中間のような書体が、のちの現代まで続く代表的なフォント「楷書」の原型となります。そんな魏を代表するような重臣鐘繇でしたが、夢で美女と懇ろな仲になって朝議を数ヶ月休んだという逸話が捜神記に伝わります。そんな逸話をベースに閑話としてみました。
なお演義では、馬岱に一騎打ちで一合で敗れて長安から逃散したようなぼんくら扱い。。。




