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第五章 魔王の遺産と幽霊の算譜 「丞相を継ぐ者」三国志向朗伝  作者: こくせんや
第5章 「魔王の遺産と幽霊の算譜」

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第6話:|郿塢《びう》の解答、価値を疑う瞳 その1

1.二百五十里の焦燥(しょうそう)


 初平(しょへい)三年、四月二十六日。


 王允らが董卓の暗殺を実行して、約二日。


 長安の西、二百五十里。

董卓(とうたく)が三十年分の糧食と天下の富を注ぎ込んだ巨大な城――郿塢(びう)の門前に、泥まみれの数騎が猛然と駆け込んできた。


 先頭を走る馬の(たてがみ)は汗で固まり、続く数人の家臣たちも、甲冑の隙間に砂を噛ませた凄惨な姿であった。

 馬が止まるや否や、李儒(りじゅ)は転げ落ちるように地を踏んだ。

一歩、踏み出そうとした足が、鉛のような疲労で折れそうになる。それを支えたのは、背後に控える直属の家臣の手ではなく、李儒自身の内側に燃え盛る、算譜(ロジック)が焼き切れるような危機感(ききかん)であった。


「……着いたか」


 李儒は、ひび割れた唇を歪めた。

 長安を脱出して以来、一睡もせず馬を飛ばし続けた強行軍である。

同行した家臣たちは、長安の庁府で共に帳簿を繰り、李儒の冷徹な差配を支え続けてきた実務の精鋭たちであったが、その彼らでさえ、この地獄のような疾走には限界を迎えていた。


 だが、休んでいる暇など、一銭の価値もない。


 謀反を起こした司徒・王允らが下すであろう「|董卓小銭の通用停止」という名の死刑宣告。

李儒の頭脳には、王允の宣言により、長安という巨大な都市が自重で崩壊していく光景が、鮮明な予測として描き出されていた。


 王允は、銭というものを「天子の徳を体現する、神聖なる器」だと信じ込んでいる。

だからこそ、混ぜ物の多い小銭を不浄として嫌い、それを廃すれば、正しき五銖銭(ごしゅせん)が再び天下を潤すと夢想しているのだ。

 

 だが、実務に生きる李儒にとって、銭とは徳などではない。それは世界という肉体を巡る「血液」そのものであった。

 たとえその血が、鉛や錫を混ぜたよどんだものであろうとも、流れている限り、人は物を売り、食糧を買い、兵士は報酬を得て剣を振るう。

それを「汚れているから」という理由で無理やり止めてしまえば、待っているのは心臓の停止――すなわち、社会の完全なる壊死である。


「名分で腹は膨れぬ。正義で兵は動かぬ……。王允め、自ら獣の首を絞めたことに、気づかぬか」


 李儒は、目の前にそびえ立つ郿塢の重厚な門を見上げた。

 この要塞は、義父・董卓が「万歳」の安泰を願って築き上げた、天下で最も巨大な金蔵(かなぐら)であった。高さと厚さが長安の城壁に匹敵するその壁の内側には、天下の富が文字通り山をなして積まれている。

 

 だが、その富は、ただそこにあるだけでは意味を持たない。

 李儒がこの郿塢に莫大な物資を溜め込んできたのは、単なる貯金ではない。

この「裏付け」があるからこそ、市中で発行した粗悪な小銭に「いつでも物資と交換できる」という信用(クレジット)を付与できていたのだ。

 その裏付けを、王允は力ずくで奪いに来る。

 老将・皇甫嵩(こうほすう)と并州の勇将、呂布率いる数万の軍勢。彼らが軍列を整え、略奪を厳禁するという「正義」の手続きを重んじながら、重い歩兵の列を引き連れてここへ辿り着くまでには、およそ十日の時を要するはずだ。

 李儒が、わずか数人の家臣と共に不眠不休で駆け抜けたのは、この「十日間」という執行猶予(マージン)を確保するためであった。

 この要塞に眠る実物資産(アセット)を、皇甫嵩に接収される前に動かす。長安の、漢という国の破綻を少しでも遅らせるために、全てを正しく清算せねばならない。


(白……董白はどうしている。あの子を連れ、この不良債権(がらくた)と化した城を捨てねばならぬ)

 李儒は家臣たちを従え、開かれた門の中へと足を踏み入れた。

 

 彼が予想していたのは、主君の死に怯え、略奪を恐れて右往左往する衛兵たちの阿鼻叫喚であった。あるいは、絶望して財宝を奪い合おうとする亡者たちの混乱であった。

 

 しかし、門を潜った李儒の目に飛び込んできたのは、信じがたい光景であった。

 郿塢の広大な中庭は、かつてないほどの整然(せいぜん)とした活気に包まれていた。

 そこには、長安や近隣の州から逃れてきた商人たちの車列が列をなしていた。

 武器を手にした兵士ではなく、算盤や木札(きふだ)を手にした商人たちが、衛兵の誘導に従って整然と立ち並んでいる。

 

 蔵の扉は次々と開け放たれ、中からは金銀の工芸品ではなく、膨大な「穀物の俵」と「絹の束」が運び出されていた。

 李儒の傍らを通り過ぎる商人の荷車には、確かに郿塢の刻印(しるし)が入った物資が山積みにされている。


「……何の、真似だ。これは」


 李儒の背後で、疲弊した家臣の一人が呆然と呟いた。

 

 略奪ではない。そこにあるのは、明らかな「取引」であった。

 董卓が死に、長安が死に、秩序が崩壊したはずのこの要塞で、誰かが李儒の預かり知らぬところで、既に清算(デフォルト)を開始していたのである。


 李儒は、その中央に立つ一人の少女の背中を見つけた。


 まだ幼さの残る小さな体。しかし、その手には李儒がかつて授けたものと同じ、分厚い帳簿(ちょうぼ)が握られていた。

 李儒の瞳に、絶望とは異なる種類の、戦慄に近い光が宿った。

 自らが構築し、守り抜こうとした仕組み(システム)が、自分の不在の間に、より残酷で、より正しい解答によって上書きされようとしていた。


「白(董白)……お前が、やったのか」


 少女が、ゆっくりと振り返った。

 その瞳は、祖父を失った悲しみでも、追手に怯える恐怖でもなく。

 ただ、この世の「価値」というものの正体を、冷めた目で見据えていた。



2.清算の女神


 郿塢(びう)の中庭を埋め尽くす熱気は、敗軍の拠点が放つべき悲壮感とは無縁のものであった。

 蔵の巨大な扉はことごとく開け放たれ、その内側から溢れ出した極上の絹、香木、そして山をなす穀物の俵が、商人たちの荷車へと次々に吸い込まれていく。


「……あり得ぬ。まだ長安の凶報は、届いていないはずだぞ」


 馬を降りたばかりの李儒(りじゅ)は、喘ぎながらその光景を凝視した。


 李儒が命を削って長安を脱出し、この要塞へ辿り着いたのは四月二十六日。

暗殺からわずか二日後である。

王允らによる長安封鎖を考えれば、通常の伝令がこの要塞に届くにはまだ時間がかかる。

ましてや、これほど大規模な資産の放出をわずか二日で準備し、実行に移すことなど、盤理(しきみ)を知る者からすれば不可能に近い所業であった。


「あら、遅かったのね、李儒。お顔の色、とってもひどいわよ?」


 蔵の入り口、山積みの木札(きふだ)を前に筆を走らせていたのは、董卓の孫娘――董白(とうはく)であった。


 彼女は祖父の死を嘆く様子もなく、まるでおままごとでも楽しむかのような手つきで、目の前の実物資産(じつぶつしさん)を処理し続けている。


はく……。お前、なぜ祖父殿の死を知っている。……いや、そもそも長安で何が起きたかを知っているのか」


 李儒の問いに、董白は初めて顔を上げた。その瞳には、可憐な少女の輝きと、それとは正反対の冷めた観察者の色が同居していた。


「死んじゃったの? ……ふうん、やっぱり。そうなるだろうな、って思ってたわ」


「……何だと?」


「先月の大宴会。私、『ちょっと具合が悪いの』って言ってお休みしたでしょ? でもね、あそこには私の代わりの子がいたのよ。……ねえ李儒、あなたは気づかなかったの? おじい様たちが王允さんたちと仲良くお酒を飲んでいる間に、私が自分だけのお小遣い(こづかい)で、どれだけたくさんの『目』を借りていたのかを」


 李儒は息を呑んだ。


名目上の太守という飾り物に甘んじていたはずの彼女は、董卓や李儒の監視すら届かぬ私金を密かに蓄え、運用していた。

幼き乙女の「火遊び」を装いながら、その実、彼女は誰にも悟られぬよう、自分だけの密偵網(ネットワーク)を精緻に組み上げていたのである。


長安を終焉へと導いた、あの大宴会。


 魔王が美酒に酔い、名士たちが暗殺の毒を研いでいたその傍らで、甲斐甲斐しく立ち働いていた侍女たち――。

その中には、董白が長年をかけて選別(ふるい)にかけ、手懐けてきた信頼すべき死士(しし)たちが、音もなく紛れ込んでいた。


「おじい様も、あなたも、算段(さんだん)の上では無比(むひ)だったわ。でも、給仕の娘が拭き取った(さかずき)(こぼ)れに、どれほどの『殺意(データ)』が混じっていたかまでは、読み切れていなかったでしょう?」


彼女の「耳目」は、配膳の合間に交わされる名士たちの密談を、呂布の瞳に宿った微かな不服(ノイズ)を、すべて余さず拾い上げていた。

 李儒という稀代の設計者が盤面(ばんめん)を俯瞰していた裏側で、董白はすでに現場の動静を把握し、郿塢からの脱出と清算に向けた布石を整えていたので出会った。


「あの子たちの報告、とってもおかしかったわ。王允さんの周りの人たち、お酒を飲んでいるのに、隠しきれない殺気が漏れていたんですもの。……だから今日、おじい様が未央宮へ行くって聞いた瞬間、私はこの蔵の鍵を全部開けさせたのよ」


「それに……」

彼女は李儒を見上げる。


「李儒。あなた、王允達を止めることを、しなかったよね?」


 董白は、目の前に控える老商人に木札をひらひらと手渡した。


「おじい様が本当に死んだかどうかなんて、私にはどうでもよかったわ。ただ、『この仕組みはもう壊れちゃう』っていう予測(よみ)があれば十分。李儒、あなたがいつも言っていたじゃない? 『崩壊の予感がしたなら、一刻も早く損切り(きりすて)をしなさい』って」


 董白が行っているのは、単なる財産の処分ではない。公式な凶報が届く前に――つまり、郿塢が「賊の拠点」として封鎖される前に、すべての重い財宝を「逃げるための手段」へと変えてしまう。それはあまりにも鮮やかな破綻処理(せいさん)であった。


「……だから、商人たちに物資を配っているのか。それも、無償(ただ)で」


「ただであげるわけじゃないわ。……そうね、二つ、お願いがあるの。一つは、この品物を十日以内に州の外まで運んでしまうこと。州外なら西の涼州でも、南の荊州でも、どこだっていい。もう一つは、私たちが逃げるときに、邪魔立てしないこと。私たちがどこに行こうと悟られないように……これが、あなたが払うべきお代なのよ」


 商人たちは、董白達を庇い立てしたり、隠したりしなくてよい。

 膨大な数の商隊が、多方面に大量の富を持ち出すだけで、十分隠蔽(カモフラージュ)出来ると判断していた。

 董白は鈴を転がすような声で言い放ち、次なる商人へと視線を移した。


「黄金や絹を抱えて逃げるなんて、あんまり賢くないわ。重たいし、目立つし、それにすぐには使えないでしょ? だったら、今のうちに商人さんに大きな『貸し』を作って、彼らの馬車を私の逃走路に変えちゃうほうが、ずっと価値があると思わない? どうせ十日もすれば、この蔵はお役人さんの手で空っぽにされちゃうんだもの。略奪されるくらいなら、私の命を運ぶ運賃として配ったほうが、ずっと帳尻が合うわ」


その中でも荊州方面に向かった、信頼のおける商隊に、董白らが後から追いついた場合、最低限の富を分けてもらう約定を結んでいた。


 李儒は、目の前の少女に恐怖に近い敬意を覚えた。

 彼女は悲しみに浸ることも、未来を予知するでもない。

ただ、現場の違和感を拾い上げ、最悪の事態を想定し、王允という「正義の味方」が手続きに手間取っているわずかな隙間(すきま)を突いて、資産を整理しているのだ。


「……王允たちは、これからここへ来る。数万の軍勢を引き連れてな。彼らがこの『空っぽの箱』に辿り着いたとき、手に入るのは、ただの石と木の残骸だけだ」


「ええ、そうなるようにしてるわ。……李儒、そんなに驚かないで。私はあなたの背中を見て、数字の扱い方を覚えたんだもの。褒めてくれるなら、荊州に着いてからにしてね」


 董白は筆を置き、傍らに控える役人に次の蔵を開けるよう命じた。


「私たちは、うんと身軽にならないといけないの。おじい様が貯めてきた三十年分の備蓄なんて、もう死んじゃった勘定(かんじょう)なんだから。これを市場に放り投げて、その隙に私たちは南へ逃げましょう。……李儒、あなたという大事な知恵袋を無事に運び出すのが、私の最後の仕事なんだから」


 稀代の設計者は、年若き運用者の下知(げち)に、ただ短く頷くしかなかった。


 李儒は、かつての完璧な計算を凌駕した、あの無機質な報告書の感触を思い返していた。

 名前も知らぬ、ただの章陵(しょうりょう)の小役人が記した、麦一石(むぎいっこく)という五文字。

 

 黄金という「重い石」が価値を失う地獄の中で、章陵札(しょうりょうさつ)という、重さのない一葉の(ふみ)に確かな資産の価値を宿らせてみせた、あの|名もなき|方程式の(あるじ)

 その者なら、きっと、この狂った世界の「次の正解」を知っている。

 

 二人の管理者は、空っぽになった要塞を捨て、静かに、しかし確実な足取りで南への歩みを開始した。

 それは魔王の一族としての逃亡ではなく、真実の価値(かち)を測る「物差し」を探し求める、未知なる旅の始まりであった。

一回目の大宴会で、破産までの道筋が見えてしまった李儒。

なので、王允らが大宴会後の夜中に謀反の会合をしている際、李儒は逃亡の準備を始めています。


このあたりを初期稿では、深堀りしていましたが、長くテンポが悪くなったのであえなく削除。


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