第4話:連環の破産、長安の焦燥 その4
11.矜持の暴走:名士たちの勘違い
空前絶後の大宴会は、長安の街に深い汚濁の跡を残して幕を閉じた。
夜が明けても、路地裏には吐き捨てられた酒の腐臭と、喰い散らかされた獣の脂がこびりついている。
董卓が放出した郿塢の資産は、一時の熱狂となって民を酔わせ、将兵を狂わせた。だが、その熱が引いた後に残ったのは、以前よりもさらに深い空虚であった。
司徒・王允の邸宅の奥、密談の場には、その熱狂から最も遠い場所にいた者たちが集っていた。
太尉・黄琬、司空・崔烈、そして老将・皇甫嵩。
漢王朝の重鎮たちの表情は、かつてないほどに沈痛であり、同時に燃えさかるような憤怒に満ちていた。
「……あれが、帝国の終焉か」
王允が、絞り出すような声で呟いた。
彼の脳裏には、宴の席で泥酔し、礼節を忘れて騒ぎ立てる涼州兵の姿が焼き付いている。
漢の四百年を支えてきた法理は、李儒が放った「富」という名の劇薬によって、見るも無認に踏みにじられたのである。
「李儒は『経済を回す』などと不浄な理屈を並べておるが、あれは単なる略奪の変奏に過ぎぬ。郿塢の財をばら撒き、一時の享楽で目を逸らさせ、その裏で真の価値を殺しているのだ。あの男の指先で弾かれる算盤の音を聞くたび、わが国の骨組みが軋む音が聞こえる」
彼らの正義において、国家とは「徳」と「礼」という名の規範で運用されるべきものであった。李儒が持ち込んだ数字による統治は、彼らにとっては理解不能な怪異であり、断じて排除すべき汚染に他ならなかった。
彼らの憤りを加速させているのは、自らの無力感であった。
李儒の策によって、諸侯の勢力圏では凄まじい物価騰貴が起き、敵対する袁術らの陣営は自壊の危機に瀕している。数字の上では、李儒の策は正解であった。
だが、名士たちはその合理こそを憎んだ。
「皇甫嵩殿。兵たちの様子はどうだ。昨夜の宴で、不満は解消されたのか?」
王允の問いに、老将は力なく首を振った。
「逆だ。むしろ疑念が深まっておる。郿塢から運び出される宝の山を目の当たりにし、兵たちは『これほどの財がありながら、なぜ我らの日々の暮らしは向上せぬのか』と囁き合っておる。一時の酒で誤魔化そうとする董卓と、理屈ばかり並べて恩賞を出し惜しむ李儒。将兵の心は、すでに彼らから離れつつある」
王允の瞳に、鋭い光が宿った。
彼ら士大夫の勘違いは、ここに極まっていた。
彼らは、董卓という魔王と、李儒という冷酷な設計者を排除しさえすれば、この歪んだ仕組みは霧散し、再び清らかな五銖銭が流通する善き時代に戻ると信じて疑わなかった。
彼らは気づいていない。漢という国の収支は、すでに滅んでいたのだ。滅びの前に、僅かな光を集め生きながらえるよう設計された、それが長安だ。
設計者を殺せば、その瞬間に盤理全体が崩壊し、修復不能な真の破滅を招くという事実に。
「もはや、言葉を交わす時期は過ぎた。李儒の蛇のような算譜に絡め取られる前に、我らが手でこの汚れきった盤面を清算せねばならぬ」
その時、室内に音もなく一人の乙女が現れた。
養女、貂蝉である。
彼女は騒然とした世を映さぬ、澄み切った水のような表情で、重鎮たちの杯に温かな茶を注いで回る。
王允らは、彼女を美しき愛玩としてしか見ていない。
彼らの古い認識では、女という存在が政治の変数を動かすなど、まずありえない。
李儒が彼女を計算外の端数として切り捨てたのと同様に、彼らもまた、その微笑みの裏に潜む異物に無防備であった。
茶を注ぎ終えた貂蝉が、ふと、何気ない様子で王允に問いかけた。
「……御父様。一つ、わたくしのような身分の者がお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「何だ、貂蝉。申してみよ」
「昨夜の大宴会。相国(董卓)様は『全将兵を労う』と仰せでしたが……。なぜ、あのお方は、董白様だけはあのお席にお呼びにならなかったのでしょう?」
そのひと言が、静まり返った室内に爆鳴のように響いた。
「わたくし、不思議に思いましたの。あれほど盛大に富を披露なさる場で、最も愛でるお孫様を郿塢に隠し通されるなんて。まるで……わたくしたちや将軍様たちが並ぶ宴席は、汚れた場所だと仰っているようで。本当の『未来』だけは、あの清らかな城壁の中に、李儒様と共に大切に囲っておいでなのですね」
王允の顔色が、一瞬で土気色に変わった。
貂蝉の言葉は、名士たちが心の奥底に抱いていた特権意識への猛毒であった。
彼ら士大夫にとって、最も耐え難いのは差別されることである。自分たちは涼州の荒武者と同列に扱われ、一方で董卓の血脈と李儒が描く真の秩序(董白)だけは、自分たちのような遺物とは切り離された聖域に隔離されている。
「……そうか。左様か!」
王允が卓を叩き、立ち上がった。李儒という設計者が、あの少女を最終担保として次の時代へ逃げ込むつもりなら、なすべきことは一つ。
その算盤を叩き割り、未来という名の資産を奪還するのだ。
12.武人の正当化
月明かりさえない、漆黒の夜であった。
長安の街は死に絶えたように静まり返り、時折、夜風に乗って大宴会の残骸が放つすえた臭いだけが漂ってくる。
呂布は独り、邸の庭で方天画戟を磨いていた。
研ぎ澄まされた刃が闇を切り裂くたび、彼の胸中には割り切れぬ思いが澱のように溜まっていく。
義父・董卓への忠義。そして、その足元で明日をも知れぬ暮らしに喘ぎ、怨嗟の声を漏らす部下たちの顔。
「……親父殿が、俺たちを疎むはずがない」
呂布は己に言い聞かせるように呟いた。
かつて主君・丁原と共に天下を震撼させた并州の精鋭、そして俺という武の頂点。
古き鎖を断ち切り、董卓という新しい時代に全てを懸け、俺たちはここにいるのではないか。
確かに、実務上の不備は何一つなかった。
事務の天才と謳われる李儒が差配するようになってからというもの、兵糧が尽きたことはなく、勝利は常に約束され、給金は約束の日時に規定の額が支払われている。
数字の上では、不平を漏らす余地などどこにもない。李儒という男が構築した盤理は、あまりにも完璧であった。
だが、その完璧さこそが、呂布の中に底知れぬ疎外感を植え付けていた。
俺たちは、一体何なのだ。
李儒の算盤の上では、并州の勇士も、ただの「損耗率」や「維持費」という名の無機質な行に貶められている。
虎牢関で剣を振るっても、それは勝利の栄光ではなく、単に盤理が正常に稼働しているという報告に過ぎない。
将兵たちの瞳から、かつての猛々しい熱が失われていた。彼らは飢えてはいない。
だが、その魂は虚ろだった。戦場での名誉も、武人としての誇りも、李儒の「効率」という名の霧に飲み込まれ、消えていく。
自分たちは、ただ郿塢という巨大な宝蔵を守るための、鎖に繋がれた番犬に過ぎないのではないか。
そんな怨嗟が、夜霧のように軍中に満ちていた。
そこへ、背後から衣の擦れる音がした。
振り返れば、王允の養女である貂蝉が、夜風を遮る薄い羽織を手に、静かに佇んでいた。
「奉先(呂布)様。このような夜更けまで……。お体が冷えては、将兵の方々が悲しみましょう」
その声には、一切の誘惑めいた響きはなかった。ただ主人の命を受け、夜警の将をねぎらいに来た侍女としての、慎ましやかな気遣い。
呂布もまた、彼女をただの心優しい娘としてしか見ていなかった。
「……何、案ずるな。これしきの冷気、戦場に比べれば。それより、お前も早く休め」
呂布が短く応じて視線を武器に戻した、その時であった。
貂蝉がふと、首を傾げて、ささやかな疑問を口にした。
「……不思議なこともありますのね。昨夜のようなおめでたいお席に、董白様のお姿が見えませんでした。体調でも崩されたのでしょうか。心配ですわ」
呂布の手が、ぴたりと止まった。
「……何だと?」
貂蝉はそれ以上語らず、ただ深々とお辞儀をして座を退いていった。闇に溶けていく彼女の背中を、呂布は凝視する。
その瞬間、呂布の脳裏で、バラバラだった不満の断片が、一つの形に結びついた。
――董卓が、最も愛でる孫娘。
――李儒が、片時も離さず知恵を授けている少女。
昨夜、自分たちが不浄な酒に酔い、泥を啜るように騒いでいたその裏で。
本当の未来と富は、俺たちの手の届かぬ郿塢の奥底に「選別」されていたのではないか。
「……隔離、されているのか」
呂布の口から、乾いた声が漏れた。
李儒という男は、銭の力で長安を外の世界から切り離した。ならば、この長安と郿塢の間にも、奴は俺たちには見えない「高い壁」を築いているのではないか。
親父殿が富を溜め込んでいるのではない。
李儒という「蛇」が、郿塢の奥底に巨万の財を差し押さえし、親父殿の目さえも塞いで、俺たちを「壁の外」に置き去りにしているのだ。
疑念が疑念を呼び、呂布の思考は暗い深みへと嵌まっていく。
李儒の叩く算盤の音。あれは天下を救うための音ではない。
俺たちの功績を数字に置き換え、名誉を剥ぎ取り、あの巨大な貯蔵庫へ隠し込むための音だったのだ。
奴は、親父殿にこう吹き込んでいるに違いない。「兵には餌さえ与えれば十分です。名誉などは必要ありません。私が郿塢で全てを管理しましょう」と。
そうして親父殿の目を塞ぎ、呂布の忠義さえも、台帳の塵のように扱っている。
「名誉すら……奴の計算の内か」
呂布の握る画戟の柄が、軋んだ音を立てた。
俺たちが血を流して得た土地も、民も、すべては李儒の紙の上で「効率」という名の言葉に変換され、消えていく。
部下の心は死に、名誉は郿塢の奥底に埋もれていく。
その鍵を握っているのは、董氏の血を引く者でも、武功を立てた者でもない。
ただ算盤を叩くだけの、あの冷徹な蛇だ。
(親父殿は、奴に騙されているのだ。奴が郿塢を私物化し、俺たちから正当な報酬――我らの名誉を奪い去っているのだ)
呂布の中で、被害妄想は揺るぎない確信へと変わった。
これから行うことは裏切りではない。
不当な管理者によって差し押さえられた己の、そして部下たちの財と名誉を、武力によって取り戻すための――強制執行である。
親父殿を、あの蛇の毒から救い出さねばならぬ。奴を排除し、郿塢の門を叩き壊せば、すべては本来の形に戻るはずだ。
しかし李儒を庇い立てするようであれば、親父殿も……。
呂布が沸き立つ殺意のままに一歩を踏み出した時。
闇の中から数影が音もなく現れた。
司徒・王允、そして太尉・黄琬ら、古き正義を掲げる名士たちであった。
「……司徒殿か。このような夜更けに」
呂布の問いかけに、王允は沈痛な面持ちで頷いた。
その時、先ほどまでそこにいた貂蝉の姿は、影も形もなかった。
王允は正義が勝ったと信じ、呂布は権利を行使すると確信している。
だが、彼らは気づいていない。
李儒の弾く算盤の音が、死へと向かう帝国の秒読みのように、静寂の中で冴え渡っていることに。
そして。
この巨大な歴史の歯車の隙間に、たった一粒の、あまりにも静かな蝶が紛れ込み、すべてを根底から汚染する鱗粉を撒き散らしたことろ、最後まで誰も気づくことはなかった。
誰も気に留めていない一匹の蝶により、皆が皆、理解できない物事に勘違い、曲解と妄言により破綻していく。
なお、三国志演義では貂蝉の年齢設定は満15歳なのだとか。15歳っぽい作品ってあまりありませんよね。
三国無双も20代に見えるデザインですね( ´∀` )




