12話 長史の戦 削られた岩肌に老臣の知恵が宿り 独な帳簿は静かに明日を紡ぐ
本日1話目になります。
【三尺の命】
進軍開始から二十日。
秦嶺山脈の半ばにて、私は奇妙な感覚に囚われていた。
馬上で揺られながら、己の肉体が消え失せ、精神だけが巨大な「算盤」と同化したような感覚である。
眼下を這うのは、数千の木牛と流馬。それらが背負う数十万の『方寸』という名の規格品。
カコッ、カコッ、という車軸の音だけが、永遠に続く律動のように山峡に響いている。輜重が滞りなく流れること。それが私の義であり、この戦場における全てだった。
だが、この長蛇の行軍において、最大の懸念は「情報の遅延」である。
桟道を行く十万の兵馬は、巨大な龍のように一本の道を埋め尽くす。木牛の車幅は、桟道の幅ぎりぎりに設計されている。ゆえに、一度列が詰まれば、最後尾から最前線への伝令は、茶色の木箱の壁に阻まれて一歩も進めなくなる。
四十里の長さに伸びきった龍の尾が攻撃されても、頭がそれを知るのは半日後――そのような情報の断絶こそが、兵站の致命傷となり得るのだ。
「――向長史。伝令騎兵、後方より接近!」
部下の報告に、私は無言で頷いた。
木牛を引く兵たちが、慣れた様子で車体を岩壁側へと寄せる。
ギリギリだ。車輪が崖縁を擦る音がする。だが、その内側、岩壁と木牛の間に、人が一人通れるだけの空間が生まれた。
ヒヒィン!
馬のいななきと共に、伝令が風のようにその隙間を駆け抜けていく。
木牛の側面と、伝令の馬体が、わずか数寸の距離ですれ違う。だが、決して接触はしない。
「……計算通りだ」
私は、出征に先立つ数ヶ月前、民営の桟道の補修工事に紛れ、ある「細工」を施していた。
桟道の中でも、もっとも狭隘な岩場の難所において、岩盤を規定より三尺(約七十センチ)ほど深く削り取らせておいたのだ。
帳簿上は「崩落防止のための地盤補強」として処理したが、真の目的は違う。
『方寸』を積んだ木牛の横幅は六尺(約1.5m)。削り取った岩盤の深さは三尺。
この余白こそが、大軍の隊列の横を、単騎の早馬や、緊急輸送の『流馬(猫車)』だけがすり抜けられる、情報の動脈となるのだ。
「早馬を止めるな! 決して隊列の流れに埋もれさせるな!」
私の檄が飛ぶ。
他の将が見れば、無駄な土木工事、あるいは予算の浪費に見えたであろう、その三尺の空間。
だが、そこを伝令が疾走するたびに、私は自分の指先が、はるか前線の諸葛亮や趙雲の命運と直結している手応えを感じていた。
岩を削ったのではない。私は、時間を削り出したのだ。
【帳簿の迷宮】
そして、兵站の要である兵糧の管理。
ここでも『方寸』の特性が、冷徹なまでに発揮されていた。
「魏の斥候に見つかるでない。……いや、味方にさえ悟られるな」
秦嶺山脈の深奥。私は、地図にも載らぬ獣道の先に、複数の「隠匿集積所」を構築していた。
新たに建造したのではない。過去の戦や炭焼きで放棄された廃坑や洞窟を再利用した、粗末な倉庫だ。
だが、その入り口は完璧に偽装されている。
蔦や岩で隠しているだけではない。入り口そのものを、泥を詰めた『方寸』――すなわち木箱を煉瓦のように積み上げて塞ぎ、その上から土を塗って自然の崖に見せかけているのだ。
気密性の高い『方寸』ならば、湿った洞窟内でも兵糧は腐らない。
これこそが、万が一の補給断絶に備えた、全軍の飢餓を防ぐ最後の保険であった。
その管理は、孤独を極めた。
正規の兵糧庫の数字と、この隠し倉庫の数字。二つの帳簿を頭の中で統合し、矛盾なく輸送を指示せねばならない。
その時である。
「長史殿! 問題発生です!」
部下が天幕に転がり込んできた。
その顔色は蒼白だ。
「前衛の馬岱将軍の部隊が、規定量を超えて『脯(ほ・干し肉)』を持ち出そうとしています! 『士気を上げるために振る舞い酒と肉が必要だ』と!」
向朗の表情が、能面のように凍りついた。
馬岱、己の才を過信し、地味な規律を軽んじる傾向がある。
「ならん。没収せよ」
「しかし、馬将軍は『たかが肉ではないか。箱の隙間に詰めれば入る』と……」
「馬鹿者ッ!!」
私は卓を叩き、激昂した。
たかが肉だと?
私は杖を掴み、立ち上がった。
「『方寸』の規格は、中身の容積だけではない。重量だ! 干し肉といえど、規定量を超えて詰めれば、木牛の総重量は70鈞(400kg)を超える。規定量を超えれば車軸にかかる負荷が限界を超え、峠越えで『木牛の舌』が破損するのだぞ!」
車軸が折れれば、その木牛は動かなくなる。一本の道で車が止まれば、後続の数千台がすべて停止する。
たかが肉一切れの重みが、十万の軍を止める楔となるのだ。その「理」が、あの若造には分かっていない。
「士気で腹は膨れん。車軸が折れれば、兵は飢えて死ぬのだ。……ここで特例を認めれば、三日後には他の隊も真似をし、一斉に過積載が始まる」
私は震える部下を見下ろし、氷のような声で告げた。
「軍律を説いても分からぬなら、私の名で斬ると伝えろ。……『方寸』の蓋を閉じるのは、丞相でも将軍でもない。この向朗のみである、とな」
部下が逃げるように去った後、私は椅子に深く沈み込んだ。胃の腑が焼けるような痛みを感じていた。
多くの将軍は、目の前の物資が湧いて出るものだと錯覚している。彼らは「勝利」という甘美な果実しか見ていない。
だが、その果実を実らせるための根に、どれだけの毒と栄養が流れているかを知るのは、泥にまみれ、数字と格闘する兵站担当だけだ。
誰も称賛などしない。
馬岱には恨まれるだろう。兵たちからは「ケチな古狸」と陰口を叩かれるだろう。
だが、私がここで数字を一厘でも見誤れば、友が描く漢室再興の夢は、単なる餓死者の山となって終わる。
私は歯を食いしばり、揺らめく灯火の下で、再び筆を執った。
帳簿の余白に記された数字。
それは単なる墨の跡ではない。明日を生きる兵士たちの鼓動そのものだ。
私の情熱も、恐怖も、そして老臣としての矜持も。
すべてはこの冷徹な「規格」という箱の中に、静かに押し込められていた。
平野部であれば数十km進めば都市や邑があり、飲水の確保や、また、燃料の薪や牛馬の餌・干草も運ばなくても現地調達出来ることもあります。少人数であれば「駅」や「伝」といった施設で休息したり、馬を交換したりも出来ます。また、どこに飲水があるのかなどを記載した行軍用の地図も存在していました。
しかし蜀の桟道では、そのような現地補給は限られており、桟道内に点在する砦は小さく、10万人収容出来ません。
遠い遠い行軍。




