第二話:|小銭《しょうせん》という名の|汚泥《おでい》その2
本日2話目になります。
4.弥縫の紙片
「――あー……。皆さん、そんなに声を張り上げないでくれないかな。……耳の奥で、せっかく並べた数字の桁が、バラバラに散らばってしまう」
向朗は眉をひそめ、耳元を指先で軽く押さえながら呟いた。
「あぁ、もう。どこまで数えたか忘れてしまいましたよ。……一から積み上げ直しだ。めんどくさいなぁ」
彼は手元にある白紙の木簡を睨みつけ、誰に聞かせるでもない不満を漏らす。
絶望の淵に沈んだ広場に、あまりにも場違いな足取りで、一人の男が迷い込んできた。
向朗(巨達)である。
小脇に借り物の『漢書』の竹簡を抱え、まるで夕食の献立でも考えているような悠然とした様子で、彼は激論の渦中へと歩み寄る。
「向朗(巨達)! お前、何をしに……!」
石韜が驚愕の声を上げた。
向朗はそれに答えず、隅の方で怯えていた崔州平の元へ歩み寄った。州平は、都から持ち出した白く整えられた紙の束――『蔡倫紙』を、命の次に大切なものとして守るように抱えていた。
「州平君。あー……その紙、一枚だけ貸してくれないかな?」
向朗は戸惑う崔州平の手から、一尺にも満たない、純白の無地の紙をひょいと受け取った。
そして、彼はその紙を頭上へ掲げ、広場の商人や牙行の連中に向けて、ひらひらと振ってみせた。
「皆さん。銅銭を使おうとするから、不合理な経済になるんだね。計算が合わない。要するに皆さんがしたいのは、麦と絹を交換するための『引き換え券』が欲しいのでしょう? 銭を使わなくても、その券さえあれば取引は成立するはずだ」
向朗の声は決して大きくなかったが、静まり返った広場に、不思議なほど透き通って響いた。
「券なら、何でもいい。例えば……州平君が持っている、この紙でも、できませんかね?」
一瞬の静寂の後、爆発的な罵声が向朗を襲った。
「銭を使わない……どういう意味だ?」
「紙だと……? 向朗(巨達)さん、正気か!」
「あんたが大恩あるお方だから黙って聞いてりゃ、そんなもんで腹が膨れるか!」
牙行の頭目や商人たちの怒号が、汚泥のような熱気となって向朗に浴びせられる。石韜は青い顔で彼らを引き留めようとし、孟建は「計算の前提を根底から覆された」衝撃に、その場に立ち尽くしていた。
だが、向朗はそれらすべての雑音を、帳簿の端に書かれた無意味な汚れのように、平然と聞き流していた。
「……」
向朗はわずかに笑みを浮かべ、紙をひらひらさせるだけで、それ以上は何も語らない。
彼は、なぜ皆がこれほどまでに、あの不便で価値を失った銅の塊に、今も執着し続けているのかが、心底不思議でならなかった。
(あー……。どうして皆さん、あんな不便な銅の塊が、今も価値を持っていると信じて疑わないのだろうね。計算上、銭は、それはもう死んでいるというのに。不思議な人たちだ)
向朗の顔には、理解しがたいものを見るような、わずかな困惑の表情が浮かんでいた。
彼は右手に持った白紙を、再びひらひらと、軽やかに動かしてみせる。
その純白の紙片こそが、現時点で最も「清潔」で「軽量」で、そして「管理しやすい」価値の媒体であることは、彼にとって疑いようのない事実であった。
「ふざけるなッ! 俺たちが一日中、泥にまみれて荷車を引いた報酬が、そんな薄っぺらな端切れだと!? 夢でも見ているのか、役人公! 銭を出せ、本物の銅を出せッ!」
牙行たちの怒号が、物理的な圧力となって広場を震わせた。
日に焼けた太い腕が振り上げられ、商人たちは互いの顔を見合わせ、信じられないものを見る目で、向朗の手元を凝視している。
その喧騒の傍らで、崔州平は、震える手で懐の小銭を握りしめたまま、ただ立ち尽くしていた。
(名門・崔家の財ですら、あの歪な銅片によって消し飛んだというのに……。今度は、ただの『紙』で人を欺くというのか……?)
彼の瞳に宿るのは、理不尽な世界への底知れぬ怯え。崩壊していく国家の縮図そのもののような、痛々しいまでの戦慄であった。
「――向朗(巨達)ッ! 正気か!? 冗談にしても筋が悪すぎるぞ!」
石韜が、喉が裂けんばかりの絶叫を上げた。
「説明しろ! 誰が、どこの誰が、労働の対価が紙切れで満足するというのだ?そんな紙切れに米一石の価値を認める!? もっとマシな言い訳を……!」
「そうだ、巨達! これを市場に流せば、章陵はそれこそ文字通りの廃墟になるぞ!」
孟建もまた、額に青筋を浮かべて身を乗り出す。
だが、この熱狂の渦の中心で――。
ただ一人、向朗だけは、どこ吹く風とばかりに平然としていた。
その指先で頼りなくひらつく、蔡倫の純白の紙片。
銅の臭いも、脂汚れもない。
向朗にとっては、これが現時点で最も「清潔」で、何よりも「軽量」で、事務的に「管理しやすい」価値の媒体であることは、数式の解を求めるよりも明白な事実であった。
「……あー、まいったな。そんなに激しく吠えないでください」
向朗は耳を指先で軽く塞ぎ、ただ向朗の口元には、困ったような、それでも、微かな笑みが浮かんでいた。
彼を見つめる者たちは、その怪訝な表情にさらなる苛立ちを募らせる。
周囲が抱く『紙への不信感』など、彼からすれば、ただの『感情』に過ぎない。
「銭は信用が下がると重くなり、上がると軽くなるんですよ。董卓様の、このくだらない鉛の塊は、信用が無いから大量に必要になります。要するに『重い』んですよ。」
向朗は小銭を一枚指で弾き、放り捨てる。
「この小銭に価値がないと皆わかっているから、こうやって投げ捨てても拾う人すらいない。もはや石ころと一緒です。」
喧騒が僅かだが静まっていく。この場にいる多くの者は、2年前、彼の一言二言で不思議と上手くことが運ぶ様子を目の当たりにしてきた。彼がこれから何を言おうとしているのか。
「信用が重たい銅銭を箱に詰めて、汗をかきながら運ぶのは、僕も皆さんも嫌でしょう? 一枚の重さを半分にして、価値を倍に偽る小銭より、いっそ重さを無くした紙を使って、僕たちの『約束』だけを乗せたほうが、よっぽど誠実だと思うんですがね。」
ひらり、と。
向朗が紙をひらつかせるたびに、石韜たちの絶叫が、牙行の罵倒が、虚空へと吸い込まれていく。
一人の男が、自分の「読書の時間」を守るために、天下の常識をゴミ箱へ捨てようとしていた。
広場の狂熱から切り離されたかのように佇むその姿は、混乱する乱世において、あまりにも異質で、あまりにも静謐な、紙の銭の産声であった。
■ 第二話・結
金属への信仰が崩れ去った跡地に、一人の事務屋が「紙」という名の種を蒔いた。
それは、誰もが「正気ではない」と断じた、あまりにも無謀な弥縫策の始まりであった。
銅の重力に縛られた章陵の民たちは、まだ知らない。
この頼りないほどに軽い紙切れが、やがて万巻の経典よりも重い「信用」を宿し、乱世の経済を塗り替えていくことになるのを。
次回予告
向朗が提示した「紙の銭」。
だが、単なる紙に価値を与えるには、あまりにも巨大な「信用」が必要だった。
彼が求めたのは、救国のためでも、民のためでもない。
ただ、静かに書物を読める環境を取り戻すための、冷徹な「事務」であった。
第三話:向朗の偏愛と弥縫策
「紙の銭」
そのまま、紙幣ですね。
史実で確認できるのは唐末期の「飛銭」が最古と言われます。木版印刷『版画』が発明され、大量に同じものを作れるようになって、やっと紙幣の産声を上げます。
集団で使うには、大量に同じ物を作る技術「印刷」が必要になります。
とはいえ、個人間での取引の覚え、約束手形、借用書は、ずっと昔から存在していてもおかしくはありませんよね。
さて、とはいえこの時代、木版印刷(版画)すらない時代です。どうやって「同じ」引換券が作れるのでしょう?無謀な挑戦です。




