第一話:|銅《あかがね》の|重力《じゅうりょく》、|紙《かみ》の|産声《うぶごえ》その2
本日2話目となります。
5.算計
深夜。向朗の自宅、質素な書斎。
職務机の上で、算木を弾いては、渋い顔で溜息をついた。
「あー……これは困りましたね。本当に困った」
向朗は独り言ち、算木の並びをじっと見つめた。
彼の手元で弾き出された数字は、残酷なまでの現実を突きつけている。
「先週に比べて、街道から入ってくる麦の流通量が急激に減っている。太守の蒯越様に聞かないと正確には分かりませんが、恐らく二割、いや三割も落ちているでしょう。一方で、市場に流れ込む『小銭』の量は倍以上に増えている。……これでは、来週にはまた物価が跳ね上がってしまう」
向朗にとって、計算がピタリと合う瞬間は、数少ない日常の安らぎだった。
木簡に並ぶ数字が美しく整う。それだけで、少しだけ救われた気がするのだ。
だが、その計算の果てに「この冬、民の竈から煙が途絶える」という残酷な未来が明白に示されるとき。
筆を握る手は、鉛のように重くなる。
民の暮らしの末端を預かる役人にとって、導き出した「正解」が「絶望」であることほど、胸を抉る皮肉な苦痛はなかった。
「このままだと、夜に灯す油代すら惜しまなければならなくなる。……あー、それは困る。せっかく臨沮から持ってきた書物を読み耽るのが、唯一の楽しみだというのに」
彼は、机の端に置かれた『漢書』の竹簡に目を落とした。
向朗の望みは至ってささやかだ。役所の仕事を正確に片付け、家に帰って静かに書物を紐解き、気づいたことを木簡に残す。そんな平凡な日常を愛していた。
しかし、董卓が放った悪銭という不純物が、その平穏をじわじわと、しかし確実に侵食し始めていた。
「……。 うーん。どうしたものですかねぇ」
油皿の灯火が、パチパチと音を立てて爆ぜている。
向朗は、手元の歪な「董卓の小銭」を指先で弄びながら、消え入りそうな灯火を見つめて呟いた。
「あー……。董卓様は、銭の数を増やしさえすれば、天下が豊かになるとでも思っているのですかねぇ」
向朗は算木を数本、机に並べる。
「仮に、この街に麦が一つあり、それを買うための銭も一枚あるとします。この時は、銭一枚で麦一石が手に入る。極めて分かりやすい話です。……ですが、董卓様はこの一つの銭を半分に割って、無理やり二枚に増やしてしまった。懐は二倍に豊かになったと勘違いしてしまいます。ですが、麦が二つ買えると思いきや、銭の数は二枚になっても、肝心の麦は一つのまま」
彼はため息をつき、算木をバラバラに崩した。
「すると、麦一石を買うのに銭が二枚必要になる。銭二枚でないと売ってくれない。これだけならまだしも、人は狼狽します。『今日二倍になったなら、明日は四倍、明後日は八倍になるのでは?』と誰もが疑い始める。そうなれば誰も品を売らなくなり、市場から物が消える。銭が増えても、皆、前より貧しくなっているじゃないですか」
向朗は、崔州平から、お礼にと数枚分けて貰った、滑らかな蔡倫紙を卓の上に置き、筆に墨を浸す。
「……あー、めんどくさいですねぇ。こんな単純な道理すら無視するから、僕が買いたい紙の値段までおかしくなる。いい迷惑ですよ、本当に」
彼は筆を握り、書く。
『銭』と。
「平和を乱す董卓様が悪いのか、悪銭を使う商人が悪いのか……。そんなことは、正直どうでもいいんです。……ただ、僕の読書時間を邪魔し、僕の紙を奪う、この『不合理な物価上昇』は許せないですねえ」
向朗は、『銭』と書かれた紙に向き合い、真剣な眼差しを向ける。
「……どうにかできませんかね? 銭で物を買う。その銭が信じられない世の中になっちゃった。……銭かぁ。そういえば銭って何ですかね? 何で金属で物が買えるんですかね?」
「……董卓様は、ただ銭が欲しくて、こんな姑息なやり方で銭を増やした?……。いや、おそらく、違いますね」
6.弥縫の着手
「銭。金属で物が買えるのは、なぜなのでしょう。重いからですかね?」
彼は崔州平から貰った紙に、『銭』の文字の横に、ぽつりと『重』と書いた。
「うーん。違うかな? 重さが価値なら、石でも煉瓦でも銭になってしまいますね。……違いますね。銭の価値は『信用』でしかない。皆が信じているから物が買えるのです。金も絹(布帛)でも銭のかわりになりますね。全て、別の物と交換できるという『信用』でしかありません」
紙に、『信用』と書く。
「そうだとしたら、『信用』に重さが必要? ……いえ、重さは、人々に『価値』を分かりやすく伝えるための依代ですね。……董卓の小銭は『信用』が下がり、本来の『価値』を証明するために必要な枚数が増えた。結果として『重さ』が増えすぎたために、物流が止まった。ああ、そうか。銭は『信用』が下がると『重く』なり、『信用』が上がると『軽く』なるんだ」
向朗の思考が、加速する。
「『信用』を『重さ』から切り離せばいい。……重さがなくなれば『価値』が増え続ける?」
向朗は、紙の上に次々と『信用』『価値』『重さ』と書き込んでいく。
「すると、重さが無いもので、物が買える?」
向朗は白い紙を手にする。
「……董卓様は、質の悪い『小銭』を大量に鋳造することで、物を買うのに膨大な枚数を必要とする『重い』世界を作ってしまいました」
向朗は手元の木簡に、『重さ』と並べて『軽さ』と書き記す。
「本来、通貨の価値を支え、経済を『軽』やかに回すには、品位の高い銭を作るべきなのです。なのに彼は、洛陽の墓を暴いてまで銅をかき集め、あえて粗悪な小銭をばら撒いた。……単なる戦費の捻出が狙いなら、従来の五銖銭をそのまま作ればいい。それだって問題はありますが、わざわざ『小銭』にする必要はないはずです」
向朗の筆が止まる。その瞳に、冷徹な数字の裏付けが浮かんだ。
「そうか。董卓様は、洛陽に天下の『富』が眠っていると思い、急いで乗り込んできた。でも、蓋を開けてみればそこにあったのは富ではなく、膨大な『負債』だったんだ」
それは、帝や漢という国が、もはやどうにもできないほど膨れ上がった、天文学的な負の遺産。売官で小銭を稼いだところで、焼け石に水ですらない。
「だから彼は、洛陽に残っていた『価値ある実物』をすべて略奪して持ち去り、代わりにゴミ同然の小銭を乱発した。……自分たちは本物の富を握り、漢の枠組みの外にいる諸侯たちに、小銭という名の『負債』を無理やり押し付けたんだ」
後漢の税制の柱は、個人の頭数に課税される算賦(人頭税)だ。
一人につき年間百二十銭。単純な計算だ。だが、その前提条件が今の天下には存在しない。
「一人百二十銭。千万人いれば十二億銭……。ですが、その人がどこにもいない。いるけど、いないんです」
黄巾の乱を経て、民は略奪を逃れるために戸籍を捨て、流民(難民)となった。あるいは有力豪族の私兵に潜り込み、政府の帳簿から「透明な存在」になった。
戸籍に名前がない者は、この国では存在しないのと同義だ。存在しない者からは、一銭も徴収できない。
「逃げ回る民を探し出し、無理やり百二十銭を毟り取るための役人の人件費。それが、回収できる税額を上回っている。……もはや、税を集めること自体が『赤字』なんですよ」
さらに最悪なのは、政府自らが「財布」を手放したことだ。
戦費不足に喘いだ朝廷は、黄巾討伐の将軍たちに「現地での徴税権」を認めてしまった。
「税は一度中央に集め、そこから配分する。それが組織の理です。なのに、各軍閥に『勝手に集めて勝手に使え』と言ってしまった。これでは、将軍たちは軍閥という名の『独立国家』になる。朝廷の金蔵に、一銭も入ってこなくなるのは当然です」
もはや、後漢政府を黒字にする魔法など、この世のどこにも存在しなかった。
「……董卓様は、質の悪い『小銭』を大量に鋳造することで、経済を意図的に破綻させた。本来なら品位の高い銭を作り、流通を『軽』くすべきなのに、あえて粗悪な銅片をばら撒いて世界を『重』くした」
なぜか?
董卓は洛陽に乗り込んだとき、そこにあるはずの「富」を期待した。だが、彼が手に入れたのは、帝も漢という国もどうにもできない天文学的な『負債』だったのだ。
「だから董卓様は、価値のある実物をすべて略奪し、代わりにゴミ同然の小銭を乱発したんだ。自分たちは本物の富を握り、漢の枠組みの外にいる諸侯たちに、小銭という名の『負債』を無理やり押し付けた……」
向朗は、卓に転がる小銭を指で弾く。
董卓が行ったのは、単なる暴挙ではない。破綻した帳簿そのものを暖炉に放り込み、燃え盛る火(混乱)の中で自分だけが暖を取るという、究極の『焦土経済』だった。おそらく漢として世界を救う事を放棄し、董卓の本拠地涼州だけを救う策。
「……あー、めんどくさい。こんな世界で、僕にどうしろと言うんですか」
彼は榻にドサッと体を預け、暗い天井を見上げた。
数字が示す未来は、どこまでも冷酷だ。
だが、この「負債の押し付け合い」を終わらせるには。
董卓よりも、そして漢王朝よりも「強い信用」を得なければ、小銭に飲まれる地獄の未来。
「『大国を治むるは、小鮮を烹るが若し』何事も余計な事をせず静かに見守れ。とかの老子も言っていますが……放ってはいけませんね。これは」
横になり頭の上で、紙をヒラヒラと動かす。
「……『魚麗の陣を為る。偏を先にし、伍を後にし、伍承けて弥縫す。』 弥縫……ですね。破れた世界を、とりあえず縫い合わせるしかない」
(そんなこと、ただの事務屋の僕に何ができると言うのですか。……せめて、この章陵くらいは救い出したいものですが……)
「そんな強い信用。僕なんかがいくら計算しても手に入れられない。蒯越様や、劉表様だと?……いや、だめですね。漢という政府が信用がないのです。太守様や刺史様ではどうにもできない。下手をすると董卓様に狙われ、荊州ごと終わりますね」
向朗は、手元にある『銭』『信用』『価値』『重さ』などと書かれた、紙切れをひらひらとさせてみる。
「……これは、民に『信用』という名の呪をかける作業ですよ。僕がどれほど算盤を叩いても、計算だけでは手に入らないものだ。……だからこそ、広元(石韜)さんや公威(孟建)くんのような、真っ直ぐで、少し暑苦しいくらいの情熱を持つ人がいい。あの二人なら、この空手形に『血』を通わせることができる」
章陵の夜を支配する静寂の中、暗闇に紙をひらひらとさせる。
それは、天下を分かつ戦場の鬨の声よりも遥かに静かで――しかし、確実に歴史の歯車を狂わせていく、新たな経済の産声であった。
揺らめく灯火を映す向朗の瞳は、底の知れない数式の深淵を覗き込むような、凍てついた冴えを見せている。
――ただ、静かに本を読める平穏が欲しい。
一人の末端役人が抱いたそのあまりにも身勝手でささやかな望みが、今、天下の道理を根底から書き換えようとしていた。
■ 第一話・結
事務屋・向朗の、極めて私的な「戦い」がここに始まりました。
彼が望んだのは、ただの「昨日と同じ静かな夜」。
だが、彼が書き始めたその理屈こそが、やがて江東の虎をも翻弄し、天下の英雄たちが絶句する、最強の「紙の城壁」となることを、まだ誰も知りません。
次回予告
市場の麻痺はついに牙行(運送業者)が仕事を止めてしまう。
窮地に立たされる石韜と、数値の限界を悟る孟建。
そこへのらりくらりと現れた向朗が提示した「取り繕い」とは――。
第二話:小銭という名の汚泥
『紙』。
一般的には西暦100年頃、宦官の蔡倫が『紙』を『発明』したと解説される事もありますが、今では否定され、蔡倫は、紙の製法を『改良』『確立』し、その製法を普及させたとのだと解釈されています。
蔡倫が作成した蔡侯紙(蔡倫紙)以前にも紙はありました。前漢時代の墓からも紙片が発見されていますが、素材や品質はバラバラ。現代で言う紙のイメージではありません。
多くは、麻や亜麻布や絹布を織る際に生じる、残りかすをそのまま固めたもの、または麻紙や荒縄を適当に叩いてバラバラにして、再度固めたもの。
その旧式の紙は非常に貧弱なもので直ぐ綻ぶ。一般的には書き物ではなく、包装紙や緩衝材に使われていたようですが、それでも竹簡よりは軽いため、書道家らの一時的な紙としても使用されていたと言われます。
乱暴な例えとしては、蔡侯紙(蔡倫紙)は、分厚い和紙、それ以前の麻紙は、物凄く粗雑なトイレットペーパー、もしくはボロボロの古着を裁断したものをイメージしていただけたらと思います。
蔡倫紙は、梶の木の樹皮や、漁網やボロ布、荒縄などの安価で粗雑な素材利用し、灰と水で煮込み、叩いてセルロースを取り出し、竹ひごを細かく編んで作った「簀」を張り付けた木枠を浸し、「漉き」作られます。和紙作りとほぼ同じです。
安価な素材で、この灰汁で煮込むという化学的な繊維抽出と、現代の和紙とほぼ同じ「漉き」という製法の確立が、蔡倫紙の功績と言えます。
とはいえ、この物語の頃、後漢末期、西暦3世紀頃は、蔡倫紙はまだまだ高級品。庶民にはそれほど普及していなかったようです。政府や宮廷内、名士達の書き物、軍用の緊急の伝令での使用が主で、地方の末端官僚や庶民では、竹簡木簡、布紙が一般的な時代です。
公文書が正式に竹簡木簡から「紙」に代わるのは、約200年後、五世紀403年、東晋を簒奪した桓玄が、「諸々の簡を用いる者は黄紙をもってこれに代えよ」という禁簡令を待たなければなりません。




