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第四章 銅貨と紙片の弥縫録《びほうろく》 三国志向朗伝  作者: こくせんや
第四章 銅貨と紙片の弥縫録《びほうろく》 

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「銅貨と紙片の弥縫録《びほうろく》」序章

さて、連載再開です。

10話約10万字、

1回約5000字で22分割となります。

本日より、毎日6時18時の二回投稿。お付き合いいただければ幸いです。


前章、陽翟の街から集団移転して約2年近く経過しました。


『 後世、史官を務める者がこの時代を振り返る時、筆は以下のように動かされるべきであろう。


 ひとつ。

 霊帝(れいてい)による売官(ばいかん)制度は、単なる腐敗ではない。それは異常な貨幣発行を促し、市場に偽装銭(ぎそうせん)私鋳銭(しちゅうせん)を氾濫させた。銭を持たぬ者は死と同義であり、誰もが実体のない銅片を求めて狂奔する、救いがたい狂騒曲の幕開けであった。


 ひとつ。

 董卓(とうたく)仲穎という怪物の犯した最大の罪は、都の略奪でも殺戮でもない。歴代の霊廟(れいびょう)を暴いて得た銅や、九鼎(きゅうてい)までも溶かして質の悪い『小銭(しょうせん)』を鋳造し、四百年続いた漢王朝の経済を根底から破壊した事実にある。


 黄巾の乱を前後して始まった官位の切り売りは、天下の理を根底から歪めてしまった。地方の小役人から、国の重鎮たる三公(さんこう)に至るまで、金珠を積みさえすれば誰でも地位に就ける、狂った時代。


 官位を得るために、財はかき集められ、投じた元手(もとで)を回収しようと、私利私欲の偽造が繰り返された。


 市場には価値の裏付けのない銅片が溢れかえり、物価は天文学(てんもんがく)的な上昇を招く。

 昨日まで一握りの銭で買えた麦が、今日は百枚、明日は万枚を積まねば手に入らない。

 人々は文字通り銭に振り回され、銭に殺されていったのである。


 しかし、立ち止まって考えねばならない。


 ただ皆、権利欲を満たすためだけに、地位を買い求めたのか。

 董卓は、単に私欲を満たすためだけに経済を壊したのか。

 あるいは天下に割拠する諸侯や豪族たちは、無策のままこの毒素を眺めていたのか。


 否。


 真相は、より切実で、より泥臭い。


 誰もが膨大な銭を求める時代。

 こうした狂奔は、言い換えれば、天下に膨大な「負債(ふさい)」が積み上がっている実態と同義なのだ。


 乱世のただ中にあった人々は、膨れ上がった負債という名の魔物を前に、いかにして立ち直るべきか、その一点のみを必死に考えていた。


 崩壊していく経済の綻びをどうにか縫い合わせようとし、死にゆく世界の裾を必死に取り繕う。

 救済の試みは、決して高潔な理想などではない。

 それは明日を生き延びるための、執念に満ちた「弥縫(びほう)」の連続であった。


 この記録は、誰もが英雄の武勇に目を奪われていた時代、経済という魔物に立ち向かった人々の、知られざる戦いの跡である。


 幕開けに響くのは、勇壮な鬨の声ではない。


 聞こえるのは、薄い銅貨が擦れ合い、変哲もない欠片に一瞬の魔法をかけた、何一つ後世に残らなかった知られざる戦い。


 「銅貨と紙片の弥縫録びほうろく


 今、ここに記す。   』


 書き終えた向朗は、筆を置き、手元の竹簡を眺めて小さく息を吐いた。


 「うーん。やはり難しいですねぇ。偉大な史家、班固(はんこ)さんを真似て『漢書(かんじょ)』風に綴ってみましたが……あの格調高さには遠く及びません」


 これは県丞としての公務ではない。ただの、本を愛する一役人の趣味的な試みに過ぎない。彼は肩をすくめ、遊びで書いたその竹簡を机の端に寄せた。


 「そういえば、漢書は百巻ありますね。推敲中の巻まで含めたら部屋に入るのでしょうか。竹簡に囲まれるのは心地よいですが、少し邪魔でしょうか……。もう少し便利になりませんかね。例えば紙に書き写しては……。いや、紙だと綻びが増えそうです」


 向朗が、今文章を書いた竹簡と、手元に置いていたボロ布()を手に取り、ひらひらと動かす。


 紙。


 数十年前に、宦官の蔡倫が紙漉き技法による紙(蔡侯紙。蔡倫紙)を発明したと言われるが、それ以前にも、麻や葛など、使い古された衣類などから原始的な紙は製造されていた。


 以前のそれは文字を書き記すための道具というというより、陶器などの梱包材、緩衝材として使用されていたとされる。

 もっぱら公文書は竹簡、木簡で行われていたが、役人が文章の素案に、また個人的な書き物、要するにメモ書きとしても紙は使われていた。


 向朗は少しだけ名残惜しそうに、竹簡に書かれた、自作の序文を見つめた後、表情を切り替え、竹簡を端に寄せる。

 目の前には、現実の、そして退屈な「県丞の仕事」である租税の報告書が山積みになっている。


 「さて。趣味の時間は終わりですね。そろそろ泥臭い(・・・)数字を片付けてしまいましょう」


 事務屋の合理的な瞳が、再び帳簿の海へと沈んでいった。


 臨沮(りんじょ)事務屋(じむや)


 約二年前、豫州(よしゅう)陽翟(ようてき)から荊州(けいしゅう)に移り住み、現在は片田舎の臨沮(りんじょ)県丞(けんじょう)として末端の役人を務めている男がいる。


 人よりも少しだけ早く数字を把握し、書き留めることができる彼は、史書や文学を誰よりも愛し、乏しい給金のほとんどを竹簡(ちくかん)の購入に充てているという。

 後の史書に、彼の伝記はこう記されている。


 「天下の志には興味を示さなかった。志よりも実務で名を成していた」と。


 数十年後、蜀漢の丞相、諸葛亮が五丈原の戦場で倒れた後、行丞相事(丞相代行)という重責に就き、崩壊する蜀漢の柱石となった事実は、歴史の隙間に埋もれ、語り継がれることのなかった人物。


 姓は向、名は朗。字を巨達という。



 

2.臨沮(りんじょ)均衡(きんこう):若き県長の煩悶(はんもん)


初平(しょへい)二年(一九一年)、秋。


(……暇だ。……県長という仕事は、かくも暇なのか)


臨沮(りんじょ)県庁の執務室で、県長・呉宏(ごこう)は所在なげに自らの指先を眺めていた。


彼は二十を過ぎ、加冠(かかん)の儀を終えたばかりの、一族の大叔父蒯越(かいえつ)から目をかけられている優秀な若者であった。


荊州(けいしゅう)の名門・(かい)家に連なる末流の出身で、ここが初めての任地である。向朗と共に、その上役、県長として赴任の際、蒯越(異度)から「向朗(しょうろう)を見張れ。あの男がどこか他家と通じていないか、その一挙手一投足を報告せよ」と密命を帯びていた。


(……見張れと言われてもな。見張るべき不穏な動きなど、欠片もないのだが……)


呉宏は、本来なら自分が数日かけて頭を悩ませるはずだった今季の収支報告を眺めた。隣の席で向朗が、茶を啜りながら「あー、平和な一年でしたから、すぐ終わりましたね」と差し出してきたそれは、計算の(ころ)び一つなく、芸術的なまでに整理されている。

呉宏は自分なりに「若手随一の才覚」を自負していたが、向朗の異質な手際は、その自尊心を音も立てずに粉砕していた。


「……巨達くん。君は、いつの間に東村の(ちん)さんの腰痛が治ったことを知ったのかね」


「ん、今朝、役所に上がる時に立ち話をしただけですよ。相変わらず、あそこの畑の(かぶ)は良い出来ですね」


向朗は事もなげに答える。

呉宏から見れば、向朗の不思議な有能さはその「距離感」にあった。着任して間もなく、彼はすでに臨沮の数千の民全員の姓名と家族、仕事ぶりを把握し、まるで数十年住んでいる旧知の仲のように、他愛もない世間話に興じている。


だが、呉宏もただ遊んでいるわけではない。蒯越(かいえつ)への報告は着実に行っていた。


『巨達、本日も私的な軍閥や諸侯との接触なし。文通の相手は、いずれも豫州(よしゅう)陽翟(ようてき)時代の旧知。頴川(えいせん)の名士たる郭氏や陳氏、あるいは陳留(ちんりゅう)(えい)氏に連なる若者ら数名。いずれも今は無官の身であり、向朗(巨達)に仕官(しかん)を促すような、また巨達が仕官を求める素振りも皆無。内容は「どの書物が手に入りやすいか」「最近の筆の質はどうか」といった、他愛もない手紙のやりとりのみにございます』


呉宏は、自信を持ってそう書き送っていた。名門の出である彼は、相手の家名を聞けばその格式は理解できる。(頴川(えいせん)の郭嘉、陳羣、陳留(ちんりゅう)の衛臻か。かなりの名家ではあるが、今は野に下っている若輩たち。ただの風流な文通相手か、書物好きの寄り合いだろう)と結論づけ、呉宏は今日も「監視役」としての務めを終え、向朗に先を越されて空いた時間に、手持ち無沙汰な溜息を吐いた。


そんな平穏な日々に、襄陽(じょうよう)から一通の早馬が届く。


「巨達くん。……異度(いど)(蒯越)様からだ。章陵(しょうりょう)豫州(よしゅう)からの難民が押し寄せ、物価が騰貴(とうき)して収拾がつかなくなっている。帳簿の回る、信頼できる者が一人欲しいと」


呉宏は少しだけ、誇らしげに背を伸ばした。


「君を章陵(しょうりょう)へ派遣するよう、命が下った。……明日からは、私がこの臨沮の事務を引き受ける故、章陵に直ちに向かってほしい」


呉宏の胸中には、二つの相反する感情が渦巻いていた。一つは、あまりの仕事の無さ、退屈という名の苦行からようやく解放されるという「期待」だ。


(ようやく、私の本当の力を見せる時が来たのだ。思えば、着任してからの二年間……私はただ、この男の背中を眺め、その仕事振りを盗み見るだけの長い研修期間を過ごしてきたようなものだ。私にも、同じように――いや、それ以上に回せるはずだ)


だが、もう一つの感情は、深い「諦念」に似た不安であった。向朗が一人で、しかも欠伸を噛み殺しながら片付けていた膨大な業務。それを、これからは自分一人で捌き切らねばならない。


「……章陵、ですか。せっかく、次に読む本を並べたばかりなのですが」


向朗は、心底「めんどくさい」と言いたげな溜息を一つ吐いた。


「分かりました。……呉県長の采配とあれば、断るわけにもいきませんし。仕事が片付き次第、すぐに戻らせていただきますね」


「ははは。……まあ、そう急がずともよい。蒯越(異度)様のお手伝いだ、しっかり務めてくることだ」


呉宏は満足げに頷き、旅立つ部下を見送ろうとした。すると向朗は、荷造りの手を止め、明日の献立でも相談するかのような軽い調子で付け加えた。


「あ、呉県長。董卓(とうたく)の小銭は、これまで通り、街の外に作られた取引所と仮の市場だけで扱い、街の中に入れてはなりませんよ。あれが混ざると、帳簿の桁が二つは増えて、書き直すのが本当にめんどくさいですから」


「……え、ああ。分かっている。徹底させておくよ」


経済の仕組み。呉宏にとって本質はよく分からない。銭、税とは、民をまとめ、帳簿(戸籍)を管理し、人一人に対して百二十銭を徴税するという認識でしかない。


しかし、荊州(けいしゅう)全土が物価の乱高下に悲鳴を上げる中、この臨沮だけが奇跡のような静寂を保っている理由は、向朗が定めたこの単純な規則にあることだけは、肌身で理解していた。


秋の冷たい風が、執務室の窓を叩く。


向朗が、愛用の算盤を丁寧に布で拭い、懐へと収める。

この二年間、向朗は|山間の僻地(へきち)でただの「本好きの事務屋」として、桃源郷(とうげんきょう)のような安寧の中で充実した日々を過ごしていた。

天下の英雄たちが血を流し、覇権を争う喧騒など、自分には無縁のことだと――そう計算していたはずだった。


だが、時代という名の巨大な帳簿は、この男を端役(はやく)のままでは終わらせない。


彼がただ静かに本を読む場所を守るために積み上げてきた「適正な数字」が、期せずして乱世という名の濁流を堰き止める(つつみ)となろうとしていた。

片田舎に引きこもっていたはずの事務屋が、再び戦乱の荒野へと足を踏み出す。


その袖に隠された一振りの算盤こそが、名将の剣よりも鋭く、軍師の秘策よりも冷徹に、天下の因果を書き換えていくことになる。


「あー……。本当、めんどくさいことにならなきゃいいんですけどね」


誰に聞かせるでもない独白と共に、向朗は静かに席を立った。


「丞相を継ぐ者 向朗伝」 次章

「銅貨と紙片の弥縫録びほうろく


開演です。


開演です。

「兵站」の次のテーマは、もっと根源的な「銭」のお話です。

後漢末期、現代的に言えば未曾有のハイパーインフレーションが起きていたと言われます。

一つの理由が売官制度。田舎の太守であれば数百万銭、最高位の三公と言えど、数億銭で買う事が出来る時代。また、犯した罪も銭加減一つで軽減される(今で言う罰金刑みたいなものなのですが、多く納めると罪は軽減したり、無かったことにもできたそうです)


もう一つが、董卓が始めた小銭。数分の一の重さの出来の悪い悪銭が、市場を混乱させ、物価騰貴を招いたと言われます。


とはいえ、ただ名誉が欲しくて巨額の銭を渡し官職に就いたのでしょうか?ただ銭が欲しくて董卓は銭を大量に作ったのでしょうか?


そんな後漢末期の銭の混乱を向朗達の視点で描いた物語となります。

お楽しみいただければ幸いです。


あ、プロローグの物語。

2つ思いつき、どちらか選ぼうと思いましたが、面白いのでそのまま2つ採用しています。

なお、この物語、多くの人物は史実通りの役職経歴を踏まえて作品づくりをしていますが、今回登場した呉宏さんは、架空の人物です。「普通に優秀」な人物と向朗の、少しだけ人より計算が速いイメージが表現できるかなあと思い創作しています。

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