第19話 賢者の休息(第三部 完)
1.建国の果実と、日常という聖域
荊州、章陵郡。
かつては荒れ果てた辺境の地であったその場所は、わずか数ヶ月で劇的な変貌を遂げつつある。
見渡す限りの荒野は、整然と区画整理された農地へと変わり、黄金色の麦が風に波打っている。
その中心には、堅牢な城壁に囲まれた巨大な都市が、まるで湧き出たかのように鎮座していた。
二十万の民による「建国」の結果である。
いつものように向朗らは一人ひとりに声を掛け、まちづくりを進めている。
街の一角。
建築資材が積まれた一角で、子供の甲高い声が響いた。
「俺は、史上最強の天下の大将軍になるんだ!」
見れば、鼻水を垂らした目つきの悪い小さな男の子が、自分の背丈ほどもある木刀を振り回して叫んでいる。
「あーはいはい。文長ちゃん。わかったから、その薪を黙って運んでくれないか?」
近くで炊き出しの準備をしていた女性が、呆れたように薪の束を差し出した。
「なんだとー?大将軍に薪を運ばせるとは、不敬だぞ!」
「文長ちゃん。仕事をして功績を上げないと将軍にはなれないわよ。まずは仕事、薪を運ぶことから始めましょうね」
「ぐぬぬ……わかったよ!運べばいいんだろ!」
少年は不満げに、しかし力強く薪を担いで走り出した。
周囲の大人たちが、「未来の大将軍、頼んだぞ」と笑って道を空ける。
そんな、何気ない日常に、向朗は思わず笑みがこぼれる。
向朗が頑なに作らせた二十万人分の名簿と、隣の人の名前を覚えるようにという指示は、都市を作るうえでも最大限の効力を発揮していた。
誰もが「文長ちゃん」のように名前で呼び合い、互いの役割を知っている。
だからこそ、隣人と軋轢なく、自らの手で家を建て、井戸を掘り、市場を開き、城壁を作っていくことができたのだ。
彼らは知っていた。
この城壁、まちづくりが、自分たちを守る唯一の盾であることを。
だからこそ、その石積み一つにも妥協はなかった。市場には活気が溢れていた。
「おい、この瓜は瑞々しいぞ!章陵の畑で採れた一番成りだ!」
「南の商人から絹が入ったよ!」
子供たちが笑い声を上げて通りを駆け抜け、店先では湯気を立てる饅頭が売られている。
母親が赤子をあやし、老人たちが日向ぼっこをしている。どこにでもある日常の風景。
だが、その当たり前の光景こそが、向朗たちが命を削り、泥を啜って守り抜いた成果そのものであった。
この都市には、奇妙な均衡が保たれていた。
表向きは荊州刺史・劉表の統治下にあるが、実質的には水鏡党による自治都市である。
劉表の懐刀である蒯越が太守として赴任しているが、彼は都市の運営には口を出さず、ただ静かにこの巨大な力の塊を監視していた。
近い将来、章陵から襄陽へ送られる莫大な税収と兵糧。
そして二十万人分の名簿により整理された技能。
それらは軍も財力も持たずに荊州に赴任した劉表の勢力を飛躍的に拡大させ、荊州を乱世における一種の「聖域」へと押し上げていた。
2.敗者の末路と、残酷な正解
平和な章陵とは対照的に、外の世界では血の雨が降り続いていた。
早馬がもたらした凶報に、章陵の民は言葉を失った。
潁川郡に残った太守・李旻と、新刺史・孔伷。
彼らは反董卓連合軍に参加し、勇んで出陣したものの、董卓配下の猛将・徐栄と激突。
完膚なきまでに叩きのめされ、捕虜となり、煮殺されたという。
かつて彼らが守ろうとした陽翟の街も、戦火に焼かれ、今は見る影もない廃墟と化していた。
「……もしあの時、向朗様の言うことを聞かずに残っていたら」
市場の片隅で、一人の老婆が震える手で胸を押さえていた。
「わしらも皆、殺されていたんじゃな……」
向朗の計算は、残酷なまでに正しかった。
あの時、彼が示した「陽翟を捨てる。二十万だけを救う」という非情な決断がなければ、今ここに響く子供たちの笑い声は存在しなかったのだ。
民たちは、城壁の南、向朗がいるであろう役所の方角に向かって、深々と頭を下げた。
それは英雄に対する感謝というより、自分たちを生かすために手を汚した賢者への、畏敬の念であった。
北の南陽郡では、袁術が孫堅を取り込み、董卓と泥沼の激戦を繰り広げている。
袁術は同盟者であるはずの劉表に援軍や物資を要求し続けていたが、劉表は「国内の安定」を理由にこれをのらりくらりと無視していた。
両者の対立は静かに、しかし確実に深まっている。だが、章陵と襄陽の周辺だけは、嵐の目のような静寂に包まれていた。
3.無欲への戦慄と、臨沮への隔離
襄陽の政庁。
その一室で、向朗は劉表と蒯越の前に呼び出されていた。
劉表は上機嫌だった。
「向朗よ。そなたの手腕、見事と言うほかない。章陵の発展ぶりは、我が荊州の誇りである」
劉表は身を乗り出し、熱っぽく語った。
「どうだ、私の側近として働かぬか?治中従事の席を用意しよう。そなたの知恵があれば、荊州のみならず、天下にも号令できよう」
それは、書生上がりの若者にとっては、目が眩むような破格の待遇だった。
だが、向朗の反応は違った。
彼の顔色は青ざめ、額からは玉のような脂汗が流れ落ちていた。
「い、い、いえっ!滅相もございません!!」
向朗は、平伏して叫んだ。
「わ、私はただの書生です!人前で話すと胃が痛くなりますし、朝は弱いし、計算以外は何の取り柄もない、つまらない男です!天下なんてとんでもない!か、勘弁してください!」
その必死すぎる拒絶に、劉表は目を丸くした。
だが、傍らに控える蒯越の目は、さらに冷たく細められた。
(……欲がない、だと?)
蒯越は戦慄した。
二十万の民を動かし、都市を造り、宗賊を壊滅させる策を講じた男が、権力を提示されて怯えている。
これが演技ならば、稀代の奸物だ。
だが、もし本心だとしたら?金でも、地位でも、名誉でも釣れない男。
そんな「御しがたい能吏」ほど、権力者にとって恐ろしい存在はない。
もし彼が他勢力――袁術や孫堅――に引き抜かれたら、荊州にとって最大の脅威となるだろう。
(殺すか?……いや、今彼を殺せば、二十万の民が暴動を起こす。得策ではない)
蒯越は、劉表に耳打ちをした。
「……殿。彼の『謙虚さ』を尊重しましょう。しかし、野に放つのも危険です。目の届く範囲で、かつ閑職に就けるのがよろしいかと」
結果、向朗に下された辞令は、襄陽の南、山間にある片田舎「臨沮県」の県丞(県令の補佐役)という地位だった。
それは章陵という巨大な力から彼を引き離す、事実上の左遷であり、隔離措置だった。
「……あ、ありがとうございます!そこなら静かで、本が読めそうです!」
向朗は、心底ほっとした顔で、何度も頭を下げた。
その無欲な笑顔を見て、蒯越は改めて背筋が寒くなるのを感じた。
この男の底は、未だに見えない。
4.賢者の本懐
出立の前夜。
襄陽の酒楼で、ささやかな送別会が開かれた。
集まったのは、向朗、徐庶、石韜、孟建、そして李譔の五人。水鏡塾で共に学んだ旧友たちだ。
「お前なぁ……治中従事を断って、臨沮の県丞だと?出世の道を自ら閉ざすようなもんだぞ」
石韜が呆れたように杯を干した。
彼らもまた皆、劉表からの誘いを受けてはいるが、官吏に就いていない。
章陵の街作りに奔走していたのだ。
「いいんだよ、みんな」
向朗は、酒をちびちびと舐めながら、幸せそうに笑った。
「僕は君たちとは違うからね。石韜、孟建、徐庶……君たち三人がその気になって仕官すれば、刺史や郡守くらいの地位には、あっという間に登りつめるだろう。……僕みたいな計算係とは、器が違うよ」
「え?僕は?」
李譔が、不満げに口を尖らせて割り込んだ。
「ねえ向朗、僕の評価はないわけ?」
向朗は少し悩み、やがて悪戯っぽく微笑んだ。
「李譔、君は……そうだな。あの『月旦評』で有名な許子将をも超える、天下の学者になれるよ」
「おっ、言うねえ」
「特に『聖女の月旦評』なんて始めれば、行列ができるんじゃないかな」
「うへぇ!聖女はもうこりごりだよ!」
李譔が露骨に顔をしかめ、一同がどっと沸いた。
向朗は本心からそう言った。
石韜の行政手腕、孟建の博識、徐庶の軍略、そして李譔の才気。
彼らは間違いなく、一国を支える柱になれる人材だ。
それに比べて自分は、ただ本を読んでいたいだけの陰気な男だと思っている。
しかし、言われた四人は顔を見合わせた。
二十万の民を動かし、都市を造り、一国の王と渡り合った男が、何を言っているのか。
「……買いかぶりすぎだ」
徐庶が苦笑し、そして真顔で問いかけた。
「なら、向朗。お前は結局、何になりたいんだ?その頭脳があれば、宰相にだってなれるだろうに」
向朗は、きょとんとして答えた。
「何にって……。僕は、静かに本を読めればそれでいいんだ。新しい本がいつでも買えるくらいの給金があって、誰にも邪魔されない時間があれば、場所はどこでもいい」
向朗は、屈託なく笑った。
かつて古の賢者が野心を問われ、笑って答えなかったという逸話がある。
向朗の場合は、笑って答えた。
だが、その答えは「野望がない」という、権力者にとっては最も理解不能で、不気味な答えだった。
石韜たちはため息をついた。
(劉表様や蒯越が警戒するのも無理はないな。……こいつは、俗世の物差しじゃ測れない)
李譔が、ニヤリと笑って甲羅を振った。
「占ってみたけど、君の未来は『隠遁』と出た。……まさに君らしいや。歴史の表舞台からは消えるけど、一番幸せな人生かもね」
徐庶は、向朗の肩を叩いた。
「まあいい。お前が本を読んでいる間は、俺たちが荊州を守ってやるよ。……安心して引き籠もれ」
「ああ、頼んだよ。」
五人の笑い声が、夜の襄陽に響いた。
5.次代の雛
翌朝。
向朗はわずかな荷物を背負い、徐庶と李譔に見送られて襄陽の街を歩いていた。
街は朝から活気に満ちている。
戦乱の世とは思えない平和な風景だ。
その時、三人の前を、立派な身なりの名士と、その後ろを歩く薄汚れた少年の二人連れが通り過ぎた。
名士は、地元の顔役である龐徳公だ。
後ろを歩く少年は、十歳前後だろうか。
黒い服をだらしなく着崩し、退屈そうに鼻をほじっている。
その顔立ちは不格好だが、目は異様に鋭く、周囲の大人たちを嘲笑うような光を宿していた。
「……ケッ。董卓は脂ぎった肉の塊、袁術は中身のない骨の塊、劉表は飾り物の木偶だね。どいつもこいつも小粒すぎて欠伸が出るよ。……あーあ、つまんない。もっとマシな遊び相手はいないの?」
「これ、士元。めったなことを言うでない。邪気を飛ばすな」
龐徳公がたしなめるが、少年は、ふてぶてしく舌を出した。
徐庶は、その少年の後ろ姿を目で追い、ニヤリと笑った。
「おいおい、俺より柄の悪いガキがいるな。……だが、あの目。」
李譔も、興味深げに眼鏡代わりの水晶を覗き込んだ。
「うわぁ、すごい邪気。あの子、性格ねじ曲がってるねぇ。……将来は稀代のひねくれ軍師かな?」
街の市場の前では人だかりができていた。
中心にいるのは、白衣を纏った背の高い少年と、その弟らしき少年だ。
背の高い少年――十代前半だろうか――は、野菜売りの女将に対し、涼しい顔で何かをまくし立てていた。
「おばさん、いいですか。章陵に流入した数十万の民による需要過多は一時的なものです。来月の穀物相場の動きと、北からの道が断たれたことによる野菜の余りを計算すれば、今この蕪は三割安くなければ理屈が通りません。今の値付けは、道理を無視した暴利と言わざるを得ない」
「あ、あのねぇ坊ちゃん……あたしゃ野菜売りたいだけなんだよ……」
女将は涙目だ。
「亮兄ちゃん、やめようよー。理屈で店の人を泣かせないでよー。やっと徐州から引っ越せたのに、また追い出されちゃうよー」
弟が必死に袖を引いている。
少年――は、ため息をついて財布を出した。
「……仕方ありません。今回はあなたの非合理的な値付けに付き合いましょう。ですが、商売のやり方を見直すことを強く勧めます。まずは仕入れ先ですが、……」
その光景を見て、向朗は足を止めた。徐庶が、呆れたように口を開いた。
「……おい、向朗。俺たちは自分たちのことを『変わり者』だと思っていたが」
「……上には上がいるね」
向朗は、苦笑いしながら頭をかく。
「あの子の理屈……僕達より遥かに鋭利で、容赦がない。……『厄介』な子供だな。」
李譔は、顔を引きつらせて言った。
「うへぇ……。あんな理屈の塊みたいな子供、初めて見たよ。僕の口車も全部論破されそうだ。……絶対に関わりたくないね」
三人は顔を見合わせ、苦笑した。
あんな怪物たちが大人になる頃には、この乱世はもっと複雑で、困難なものになっているだろう。
「彼らが世に出る前に、隠居できてよかったよ」向朗が笑って応える。
李譔が興味は尽きないと、二人の子供を目で追い続け、独り言のように呟いた。
(……実は、すぐ出会うかも知れないね?)
6.出立
城門の外。
「じゃあな、向朗。……達者でな」
「うん。みんなも、元気で」
向朗は、背負った荷物の重みを感じながら歩き出した。
荷物の中身は、すべて本だ。
振り返ると、巨大な襄陽の城壁が、朝日に輝いていた。
その中では、龐統や諸葛亮といった次代の才能たちが、まだ蕾のまま眠っている。
彼らが目覚め、歴史の表舞台に躍り出るのは、まだ少し先の話。
その時が来るまで、この荊州の地は、向朗たちが築いた礎の上で、束の間の平和を享受するだろう。
(……さて)
向朗は、前を向いた。
その顔は、英雄のそれではない。
これから読む本のことを考えてワクワクしている、ただの一人の書生の顔だった。
「これからは、『読書』の時間だ」
向朗は軽やかな足取りで、山道へと消えていった。
後の世。魏略に、こう記されるを
徐庶,單家,少好任俠,擊劍。
(徐庶。貧しい家の出で任侠を好む剣の使い手)
中平末,嘗為人報讐,作吏縛之,得脱。
(中平の末[189年]、知り合いの復讐を果たし)
(捕らえられるも、仲間に助けられた)
乃改名,與同郡石廣元避難荊州。
(後、徐庶と名を変え、同郷の石韜と共に、)
([乱を避け]荊州に逃れてきた
魏略 徐庶伝
一人の書生が、乱世の荒波をペテンと計算だけで渡りきった物語。
これにて、閉幕。
若き日の向朗編。完結いたしました。
作品のテーマの一つでもあります「史実と言われる歴史的な出来事には一切改変せず、語られることがなかったような歴史の隅っこのような物語」はいかがだったでしょうか。
向朗という超弩級マニアックな人物像が変わっていただければ、感無量です。
作品の感想、リアクション等していただければ大変励みになります。よろしくお願いします。
向朗主人公の物語はまだまだ続き、孫堅との襄陽攻防戦や、献帝の洛陽逃亡に関与したりと、ネタはまだまだ続きますが、まずはここまで。
書き殴ったようなこの話をもう一度書き直すか、次に進むか悩み中です。




