第17話 黒き盾の防壁、白き旗の女神 3/5
3.覚悟
だが、戦場という魔物は、素人の浅知恵だけで御せるほど甘くはなかった。
二万の賊による暴力の圧力は、徐々に、しかし確実に防壁を軋ませ始めていた。
木材が悲鳴を上げ、鎖が引きちぎれそうな金属音を奏でる。それは防衛線崩壊へのカウントダウンだった。
「右翼第三区画、突破されそうです!荷車が破壊されました!」
伝令の悲鳴が、轟音を裂いて響いた。
見れば、一部の屈強な賊たちが、切り倒したばかりの太い丸太を抱え、人間のふりをした破城槌となって荷車に突っ込んでいた。
バキリッ!という乾いた破壊音と共に、連結していた鎖が弾け飛ぶ。
こじ開けられた穴から、数十人の賊が雪崩れ込んでくる。
彼らの目は血走り、口からは涎を垂らし、手には肉を裂くための刃物が握られている。
それは人間ではなく、餓鬼の群れそのものだった。
「うわあああ!逃げろ!もう駄目だ!」
「殺される!食われるぞ!」
その区画を守っていた民兵たちが、恐怖のあまり武器を捨てて背を向けた。
恐怖は伝染病だ。
一人が逃げれば、十人が逃げる。
十人が逃げれば、千人が崩れる。
今まで「作業」という暗示で保たれていた理性の糸が、ぷつりと切れたのだ。防衛線が決壊する。その悪夢が現実になりかけた、その時。
ヒュンッ!一陣の風と共に、死の匂いを纏った黒い影が舞い降りた。
逃げようとした民兵の首が、何も感じていないような表情のまま、一瞬で胴体から離れた。
鮮血が噴水のように噴き上がり、逃亡しようとしていた他の者たちの顔に、生温かい死の洗礼を浴びせる。
そこに立っていたのは、返り血で全身を赤黒く染め上げ、もはや黒衣か赤衣かも判別つかなくなった、徐庶だった。
「……どこへ行く?」
徐庶の声は、怒号飛び交う戦場の喧騒の中でも、氷のように冷たく、そして鋭く響いた。
その双眸は、侵入してきた賊ではなく、逃げようとした味方を射抜いていた。
そこには慈悲も、躊躇いもない。あるのは規律という名の鋼鉄の意志だけだ。
「後ろに道はない。お前たちが逃げれば、この後ろにいる向朗たちが、お前たちの老いた親が、幼い子供が、皆殺しにされる。……敵に背を向けて死ぬか、ここで踏みとどまるか。選べ」
民兵たちは震え上がった。
足が凍りついたように動かない。
目の前から迫る飢えた獣たちよりも、この同胞を斬り捨てて平然としている黒衣の指揮官の方が、遥かに恐ろしい存在に見えたからだ。
「も、戻ります!戦います!」
「なら槍を拾え。……あの穴を死体で塞ぐぞ」
徐庶は民兵たちに背を向け、侵入してきた賊の群れに単身で突っ込んだ。
それは戦いではなかった。
一方的な解体作業だった。
彼の剣技は、舞いのように美しく、そして残酷だった。
一閃で腕が飛び、二閃で首が飛ぶ。噴き出す血飛沫の中を、黒い影が揺らめくたびに、賊が物言わぬ肉塊へと変わっていく。
正規の兵法も武術も知らない賊たちにとって、徐庶という存在は、理解不能な「死」そのものだった。
「ば、化け物だ……!」
「こいつ、人間じゃねえ!」
勢いに乗っていた賊たちが、その異様な殺気に気圧されて足を止めた。
その隙に、民兵たちが戻ってきた。
彼らは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、再び竹槍を構え、開いた穴を塞ぐように密集した。
「押せぇぇ!あの人が背中を守ってくれてるんだ!」
「死ぬ気で守れ!逃げたら殺されるぞ!」
徐庶という絶対的な「暴力」と「規律」が、崩壊しかけた戦線をギリギリで繋ぎ止めていた。
彼は戦場を縦横無尽に駆け回り、危ない箇所があれば自ら剣を振るい、綻びを力ずくで縫い合わせた。
その姿は、味方からは頼れる「守護神」に見え、敵からは地獄から這い出てきた「修羅」に見えた。




