第15話 都市解体、あるいは黒き盾の覚醒 4/4
6.残る者
向朗の示した「大移動計画」に、その場にいた者たちの誰もが希望の光を見た。
だが、その熱狂の輪から静かに離れ、沈みゆく夕日を見つめる男がいた。
潁川の名門・陳氏の麒麟児、陳羣である。
「……行かないのか、長文」
向朗が声をかけた。陳羣は振り返らず、整った横顔に寂寥とした笑みを浮かべた。
「君の計算は見事だ、巨達。十万の民を救う方策は、これ以外にないだろう」
陳羣は、足元に咲く名もなき野花に視線を落とした。
「だが、それでもこぼれ落ちる者がいる。病に伏せる老人、身重の女、あるいは君の健脚な行軍についていけぬ弱き者たちだ。……彼らはどうなる?」
向朗は言葉に詰まった。計算上、彼らは「損切り」対象だ。
連れて行けば行軍速度が落ち、全員が共倒れになる。
残酷だが、置いていくしかない。それが数字の出した答えだった。
「誰かが残らねばならんのだ」
陳羣は静かに言った。
「北の袁紹へ走るのも名士の道。南へ活路を開くのも名士の道。だが、この荒廃する豫州に残り、見捨てられた者たちに最期の秩序と安らぎを与えるのもまた、名士の責務であろう」
「死にますよ。次は孔伷とかいう無能が来るし、その次は戦場になる」
「承知の上だ。……向朗、君は『動く民』を救え。私は『動けぬ民』と共にここに残り、滅びゆく故郷の最後を看取ろう」
陳羣の瞳に、迷いはなかった。
それは向朗のような「生存確率」の計算ではない。
理屈を超えた、彼なりの高潔な「矜持」だった。
「……貴公のような人がいるから、絶望の世に『秩序』が残るのですね」
向朗は、陳羣に向かって深く、長く拱手した。本心からの敬意だった。
「貴公こそ、真の英傑です。……長文、どうか死なないでください。僕が十万の民を連れて生き延びたその先で、また必ず会いましょう。この乱世をどう生き抜いたか、答え合わせをするために」
「ああ。楽しみにしているよ、巨達」
陳羣は涼やかに笑い、拱手を返した。二人は、互いに異なる道を行くことを認め合った。
一人は十万の民を率いて泥濘の南路へ。一人は廃墟となる街に残り、孤独な鎮魂の座へ。
陳羣の背中は、崩れゆく陽翟において、唯一揺るぎない杭のように見えた。
この数年後、彼が魏の国政の中枢となり、「九品官人法」を定めて乱世に秩序をもたらす未来を、向朗はまだ知らない。
7.決別と出立
ついに、陽翟の四方の城門が、悲鳴のような音を立てて開かれた。
それは、都市が血を流す傷口のようであり、新たな世界への産道のようでもあった。
先頭を行くのは、黒衣の軍師・徐庶率いる五千の精鋭と、赤布を巻いた男たち。彼らは殺気を孕んだ沈黙で、行く手の障害を排除しながら進む。
中央には、青布の運搬部隊と、黄色い布を巻いた女子供たち。その中心には、粗末な馬車に乗った司馬徽がおり、民衆は彼を拝むようにして歩を進める。
そして後衛には、しんがりを務める向朗と、美しき令嬢姿の李譔の姿があった。
十万人の隊列は、まるで巨大な竜のように大地を覆い、南へ、南へと伸びていく。
都市・陽翟は、もぬけの殻となった。残されたのは、解体された建物の残骸と、震える太守だけ。
向朗は、馬上で一度だけ振り返った。
城壁の上には、たった一人で北を見つめる人影があった。
豫州牧・黄琬。
彼は南を行く民衆を見ようとはせず、ただひたすらに、黒煙の上がる洛陽の方角を睨み続けていた。
(……さようなら、黄琬様)
言葉は交わさない。
黄琬は死地である北へ。向朗たちは、未知の荒野である南へ。
向朗は、「はぁ、もう限界。馬の上で寝たい……」と弱音を吐きながら、眉間を強く揉んだ。
その姿はどこまでも頼りない。しかし、彼の懐には、この先の行程、休憩地点、水場の位置までが完璧に計算された竹簡が収められている。
「『出立』はできた。……これより『行軍』だ」
向朗が、眠そうな目で手綱を振るう。
陽翟は死んだ。そして十万の民は、一人の頼りない書生が描いた青写真の上を、奇跡のような秩序で進み始めたのである。




