第15話 都市解体、あるいは黒き盾の覚醒 1/4
1.都市の解体と、降臨する「聖女」
陽翟という都市が、物理的に解体されていた。
それは比喩ではない。
十万の民は、向朗の作成した工程表に従い、自分の住んでいた家を、店を、そして思い出の詰まった街を、生き残るための「部品」へと変えていたのだ。
あちこちで木材が裂ける音、金属が打ち鳴らされる音、そして怒号と悲鳴が入り混じった轟音が響き渡っている。
その狂騒の中心、太守府の前庭で、向朗は竹簡の山に埋もれながら、悲鳴を上げていた。
「ああっ、違います!西通りの張さん!そこの荷車、積みすぎです!重心が左に偏ってるから、あと三里歩いたところで車輪が折れますよ!奥さんと娘さんの荷物を二つ減らしてください、お願いします!」
向朗の姿は、英雄的な指揮官とは程遠かった。
髪は埃まみれでボサボサ、目の下には濃い隈を作り、墨で汚れた服を着たその姿は、どう見ても過酷な職場に酷使される、頼りない一介の書生にしか見えない。
彼は右へ左へと走り回り、頭を下げ、時には拝み倒しながら指示を出していた。
「すいません、大工の王さん!その柱、あと半歩だけ右にずらしてもらえませんか?……ええ、そうです。ご協力感謝します!」
最初は、民衆も半信半疑だった。
「なんだあの貧相な若造は?」
「あんなやつの言うことなんて聞いてられるか」
と、侮る視線もあった。
だが、事態はすぐに変わった。
向朗が「王さん」に頼んで柱を半歩ずらした直後、そこへ巨大な木材を運ぶ一団が通りかかった。
もし柱が元の位置にあれば、間違いなく衝突事故が起き、大渋滞が発生していただろう。
だが、向朗の指示のおかげで、彼らは紙一重ですれ違うことができたのだ。
「……おい、見たか?今の」
「ああ。あいつ、なんでわかるんだ?」
彼のそんな不思議な指示が、街の至る所で頻発した。
水場では、いつもなら割り込みと怒号が飛び交うのに、向朗が配置した「青い布」の誘導係に従うと、不思議と列がスムーズに流れ、全員に行き渡るだけの水が確保された。
野営の準備でも、杭が足りないと騒いでいた班の元へ、向朗が手配した廃材回収班が、ちょうどいい長さの木材を持って現れた。
「なぜか、あの書生の言う通りに動くと、揉め事が起きないんだ」
「ああ。欲しい時に、欲しい物がそこにある。妖術みたいだ」
民衆の間に、奇妙なざわめきが広がっていった。
向朗自身は、
「もう無理です、計算が追いつきません、帰りたい。眠りたい……」
とブツブツ言いながら、泣きそうな顔で筆を走らせている。
威厳など欠片もない。
だが、その頼りない背中から繰り出される指示は、神懸かり的な精度(段取り)で、十万人の無秩序な動きを、一つの巨大な奔流へと束ね上げていく。
彼らは知らず知らずのうちに、この「異能の書生」の手のひらの上で踊らされていたのだ。
「あら、向朗さん。相変わらず必死ですねぇ」
不意に、鈴を転がすような可憐な声が掛かった。
向朗が振り返ると、そこには息を呑むような美少女が立っていた。
豪奢な絹の衣をまとい、透き通るような白い肌、長い睫毛に縁取られた大きな瞳。
どこかの名家のご令嬢が、なぜこんな泥まみれの現場に?と誰もが目を疑うほどの「絶世の美女」である。
「……だ、誰ですか?避難誘導ならあちらの……」
向朗が戸惑うと、美少女は扇子で口元を隠し、ニヤリと口角を上げた。
その瞬間、可憐な瞳に、マニアックな光が宿る。
「僕ですよ、僕。李譔です。忘れたんですか、学友の顔を」
「……は?り、李譔!?」
向朗は絶句し、まじまじと目の前の少女(?)を見た。
言われてみれば、小柄で痩せた体格は李譔そのものだが、この変装の完成度はどうだ。
化粧、仕草、声色に至るまで、完璧に「深窓の令嬢」を作り上げている。
「な、何やってるんだ、その恰好は」
「何って、変装ですよ。これが僕のカラクリです」
李譔は、得意げに扇子を回し、手品のように懐からメモを取り出した。
「男の姿で『司馬徽先生はすごいぞ』って説いて回っても、効果が薄いでしょ?でもね、『天啓を受けた巫女』のような美少女が、涙ながらに奇跡を語れば、民衆はイチコロなんですよ。これを『演出による心理誘導』と言います」
「……うわぁ」
向朗はドン引きしたが、李譔は気にせず続けた。
「効果てきめんですよ。僕の後援会 ……いえ、信者たちが、先生を『水を清める仙人』か『後光が差す生き仏』として拡散してくれています。恐怖で動けなかった老人たちも、僕が手を握って『先生についていけば救われます』と囁くだけで、涙を流して作業を始めるんですから。チョロいもんです」
「……あ、ありがとう。助かるよ。君のその、方向性の歪んだ才能に感謝する」
向朗は引きつった笑みを浮かべた。こいつもまた、潁川が生んだ変人の一人だった。
向朗は礼もそこそこに、また通りかかった男へ大声を張り上げた。
「陳さん!草鞋売の陳家の三男坊!そっちは通行止めです!足の悪いお婆さんを背負ってるなら、右の裏道を回ってください。平坦ですよ!」
その様子を見ていた李譔が、ふと扇子を止めた。
美しい眉が訝しげに寄せられる。
「……ねぇ、向朗」
「えっ、何?」
「もしかして、同行する全ての人の名前を覚えているの?」
向朗は、竹簡に筆を走らせながら、事もなげに答えた。
「ああ。全員分の名前、元の仕事、家族構成、病歴などの必要な情報は、皆に名簿を作ってもらったでしょう?……名簿通りに全て動かさないと、適切な配置ができないからね」
「……全て?」李譔の声が、素に戻った。「十万人だぞ?」
「ああ、全て」
向朗は、さも当然の書記の仕事であるかのように即答し、また次の指示を飛ばし始めた。
李譔は扇子で口元を隠しながら、ゾクリとしたものを感じて後ずさった。
(……こいつ、ヤバい。頭の構造が人間じゃない)
最初は、民衆も向朗を侮っていた。
だが、その横では絶世の美少女(李譔)が、「まぁ!あの方は水鏡先生の一番弟子、未来を見通す『千里眼』の持ち主ですわ!」と、さくらとして完璧な演技で民衆を煽る。
民衆は次第に、この奇妙なコンビ――頼りないが予知能力のような指示を出す書生と、それに付き従う聖女のような美少女――の指示に、盲目的に従うようになっていった。




