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丞相を継ぐ者 諸葛亮の法に抗い、諸葛亮の情を支えた一人の友の物語。  作者: こくせんや
第一章 街亭の戦い

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8話 出陣 百里の隊列は命の糸を紡ぎ 友との誓いは暁の空に響く

本日1話目になります。

【無言の茶龍】


演習場に広がる熱気は、いまや畏敬の念へと変わっていた。

木牛流馬の実演を終えた姚伷と楊顒が下がると、私は再び演壇の中央に進み出た。


背後には、秦嶺山脈の巨大な地図が掲げられている。

私は長い杖を持ち、地図上の要害――魏軍が待ち受けるであろう拠点を指し示した。


「諸君。道具の使い方は見せた。だが、この『方寸』の真の恐ろしさは、運ぶことにあるのではない。……敵の目を欺くことにある」


兵士たちが顔を見合わせる。箱で敵を欺く?

私は彼らの疑問を氷解させるべく、低い声で語りかけた。


「想像せよ。魏の斥候せっこうが、遠く山稜から我が軍を見下ろした時、何を見るか?」


彼らが見るのは、数万の兵と、数千の車だ。

だが、その全てが同じ大きさ、同じ色の箱で埋め尽くされている。

先頭を行く木牛も、最後尾の歩兵も、全く同じ茶色の正方形を背負っているのだ。


「中身は何だ? 兵糧か? 矢か? 薬か? ……あるいは『石』か?」

私はニヤリと笑った。


「敵は迷う。糧道を断とうにも、どの車列が食料を運んでいるのか判別できん。……規格の統一とは、即ち情報の隠蔽いんぺいである」

そして、私は先刻の実演で見せた「空箱」の真の用兵を説いた。


「ある時は、箱にただの土塊つちくれを詰め、わざと敵に奪わせよ。敵は重い箱を歓喜して持ち帰るが、蓋を開ければただのゴミだ。奴らの徒労と落胆は、剣で斬るより深く士気を挫く」

「ある時は、空箱を縄で括り、列に繋ぎ、川に浮かべよ。一万個の箱は沈まぬ浮きとなり、瞬く間に大河を渡る橋となる」

「ある時は、敵地で奪った麦を空箱に放り込め。袋を探す手間はいらぬ。敵の食料は即座に我が軍の規格品となり、木牛に乗って疾風の如く後送される」


兵士たちの喉が鳴る音が聞こえた。

この箱は、単なる荷物ではない。


盾であり、橋であり、武器であり、罠であり、そして敵の資源を飲み込む胃袋なのだ。


「戦場における『無(空箱)』は、無限の『有』を生む。……これぞ、虚実の兵法なり」

もはや、迷う者は一人もいなかった。

彼らの背中に装着された『方寸』は、ただの木箱から、勝利を約束する聖なる甲羅へと変わっていた。

私は杖を置き、全軍に向けて宣言した。


「講義は終わりだ。……全軍、方寸を受け取り、背甲を正せ!! 進発のときである!」


銅鑼どらの音が、漢中の空気を震わせた。

ゴォォォン……。

その重い響きに呼応して、南鄭の大門が軋みながら開く。

後の世に第一次北伐と言われる戦い。漢王朝の悲願を背負った歴史的な進軍が、今、開始された。


私は、城門の楼閣に上り、その光景を見下ろしていた。

そこにあるのは、かつて見たことのない軍隊の姿であった。

劉備玄徳が生きていた頃の軍は、もっと人間臭いものであった。個々の武勇が際立ち、旗指物が乱舞し、喊声かんせいと熱気に満ちていた。


だが、今の眼下にあるのは、冷徹なまでの「静寂」と「秩序」だ。

数万の歩兵。数千の木牛流馬。


その全てが、二尺の箱で構成されている。

荷が触れ合う雑音はない。聞こえるのは、規格統一された足音と、車輪の回る低い地響きのみ。 


それは有機的な人の集団というより、茶色のうろこを持つ巨大な龍が、地平線を侵食していくかのようであった。


「……友よ」

私は、隣に音もなく現れた友に声をかけた。


「ついに、ここまで来ましたな」


丞相諸葛亮は、羽扇を胸元で止め、深く頷いた。その瞳には、かつてない安らぎと、底知れぬ凄みが宿っていた。


「ええ。壮観です、向兄。……これまでのどの軍勢よりも、静かで、そして恐ろしい」


「静かでしょう。全てが『規格』という枠の中に収まっているからです」


私は杖で、うねりながら山道へと吸い込まれていく茶色の波を指した。


あの一箱一箱の中に私が計算し尽くした「ことわり」が詰まっている。


「あの木箱の正体が何であるか、敵には分かりますまい。傍目にはただの木箱でしかない。

だが、椅子になり、壁になり、時には敵を嘲笑う石塊となる。……地味なものです。関羽や張飛が一騎当千の矛を振るった時代に比べれば、あまりに退屈な眺めでしょう」


「いいえ」


諸葛亮は私の方を向き、珍しく穏やかな、しかし力強い笑みを浮かべた。


「地味? とんでもない。私には見えますよ。あの箱の一つ一つが、時間という代償だいしょうを削り取り、魏の喉元に突きつけられた見えざる刃であることが」

諸葛亮は、遥か彼方、雲に覆われた北の秦嶺山脈を見据えた。


「蜀の道は険しく、天は我らに味方しませんでした。いかに精強な兵がいようと、食料が届かねば戦えぬ。それが我らの宿命でした」


彼は羽扇で、山脈の稜線をなぞった。

「しかし、貴方が作ったこの『四角い理』が、絶壁を平地に変え、細い桟道を大河に変えました。……無謀と言われた北伐の補給線いのちづなは、今、鋼鉄よりも強固に繋がったのです」


私は鼻の奥がツンとするのを感じた。


兵站とは、感謝されぬ仕事だ。届いて当たり前、遅れれば万死に値する。

だが、この稀代の天才だけは、私の作った「茶色の箱」の意味を、その価値を、誰よりも理解してくれている。

私の戦いは、ここで半ば完遂した。

機構システムは完成した。あとは、この巨大な心臓が、計画通りに血を送り続けるのを見守るだけだ。

私は、隣に立つ友に向き直り、深く、長く一礼した。


「行ってらっしゃいませ、丞相。……後は、この老骨にお任せを。貴方が進む道に、一粒の米の遅れも出させはしません」


諸葛亮は、私に拱手こうしゅを返した。

万感の思いを込めた、短い言葉が返ってきた。


「頼みにしています」


諸葛亮は翻り、自らの四輪車へと乗り込んだ。

白い羽扇が指揮棒のように振られると、茶色の龍の先頭が、速度を上げた。

私はその背中を見送った。


やがて、後世の歴史家たちは書くだろう。諸葛亮が神算鬼謀を以て魏を翻弄した、と。あるいは、「木牛流馬」という奇妙な名の機巧があった、と。


だが、その本質である「二尺の木箱」と「統一規格」という革命については、あまりに地味で、あまりに当たり前すぎる技術として、忘れ去られるかもしれない。

誰も、煉瓦の大きさが揃っていることに驚かないように。


だが、それでいい。


名声など要らぬ。

今、この瞬間、世界で最も進んだ、最も美しい軍隊がここにあるのだから。


風が吹いた。

南から北へ。

銅鑼の音が響き渡り、茶色の幾何学が、秦嶺の険を塗り替えるべく、静かに、しかし力強くうねり始めた。


「最後尾の輜重隊が城門を出るまで、四日」


計算通りの数字を呟いた。漢中の街道は狭く、兵士が二列で進むのが限界である。最前線が魏の領土に踏み込む頃、最後尾の部隊は、まだ百里(約40km)の遠方となる。


この遅々とした行軍こそが、緻密に計算された規律であった。


私は、薄氷を踏むがごとき緻密な兵站計画が、間違いなく動き出したことに安堵を覚えた。この遅さの中に、この軍の命綱が隠されている。


「それでよい」


長き一月が始まった。

さて、大変な北伐の進軍が始まります。

実は夷陵の戦いの敗戦から、南中進出、そしてこのシーンでエンディングという構想もありました。

エンディングぽい雰囲気なのはその名残だったりします。


補給が乏しい中での行軍。

現代での大災害時でも同様な困難が発生します。コンビニどころか、水道も下水も電気も全て止まっている中での避難・救援・ボランティア活動等、どうやって規律を保てばいいのか。規律ない状態で行うとどうなるか、私の拙い経験が、兵站線のモデルとなっています。


三国志に、向朗に、興味が湧いた方、ブックマーク・コメントなどしていただけるととても励みになります。

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