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司馬兄弟  作者: コルシカ
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13/13

約束

十二


 司馬昭は、蜀の平定成ったあと、論功行賞をおえ、鐘会の一族の処遇を考えた。

 そのとき、鐘会の兄の鐘毓のことばをおもいだした。

 「弟を重用してもらいながら、あえて申し上げます。弟は何事にも策を好み、信念を確立できず、ものごとを保つのが苦手です。

 そういう弟ですので、なにもかもを彼に任せてはなりません」

 謹直で重厚な性格の鐘毓らしい諫言であった。幸か不幸か、鐘毓は昨年冬に病死している。

 司馬昭は、鐘毓のことが嫌いではない。

 「そうか。もしなんじのいうとおりであれば、なんじの一族に刑が及ばないようにするよ」

 そういって笑ったのである。

 それが、現実になってしまった。

 それがゆえに、司馬昭は鐘毓の子の鐘駿には連座を適用しなかった。

 さらに鐘駿と鐘辿の兄弟は鐘会が鐘毓から養子にもらっていたので、特赦をあたえ、官爵ももとのとおりにした。

 (約束は、まもったぞ)

 司馬昭は、心中でそうつぶやいた。

 では鄧艾においては、どうであったか。

 鄧艾の死後三年経過して、議郎の段灼が上奏して鄧艾の無実を訴え、彼の孫に食邑を継がせるように願った。

 これが認められたのは、さらに六年後の泰始三年(二七三)である。時代は魏から禅譲を受けた晋王朝にかわっていた。

 詔において、

 「鄧艾は勲功がありながら、罪を受け、刑に服することになった。

 彼の子孫は今奴隷となっているが、朕はかねがねそれを不憫に思っていた。

 よって孫の鄧郎を郎中に任ずる」

 と鄧艾の汚名は晴らされた。

 この詔を下したのは、司馬昭の子の司馬炎である。いわゆる晋の武帝と呼ばれることになる。

 鄧艾は勝手に呉へ攻め入ろうとしたが、実際に魏を叛いたわけではない。

 しかし司馬昭の立場とすれば、もし鄧艾の呉討伐が大成功して平定してしまえば、その名声は司馬昭を上回ってしまう。

 逆に呉に敗れれば、主力を蜀征伐にさしむけている魏に援軍をおくる余力はない。

 それはそれで、征呉軍を見殺しにしたと司馬昭が批判をうけることになる。

 ゆえに、司馬昭にとっては、鄧艾に成都から動いてもらっては困る状況にあった。

 それに従わなかった鄧艾に罪を着せ、鐘会にしまつさせたということだ。

 晋公から晋王、さらに皇帝にのぼる段階に身をおいていた司馬昭とすれば、みずから罰した鄧艾の一族をすぐ赦しては、鼎の軽重を問われる。

 司馬昭が、じぶんの生きているあいだ鄧艾を赦さなかったのは、そういう理由があった。

 (ともあれ、これで都に還ることができる)

 安心した司馬昭は、翌月の二月に皇帝曹奐を奉じて、洛陽に帰還した。

 そしておこなったのは、郭太后の葬儀である。郭太后は司馬懿の政変から一貫して司馬氏の理解者であったので、その葬儀は厳かにおこなわれた。

 とはいうものの、明帝曹叡の后であった郭太后は鐘会が利用しようとしたように、いまや傀儡となりつつある皇室曹氏の象徴であり、司馬氏への抑止力でもあった。

 (皇太后はよいときにお亡くなりになられた……)

 葬儀に参列しながら、司馬昭はしみじみとそう思った。

 これまで司馬氏に尽くしてくれた郭太后と対立するのは、司馬昭とて心苦しい。

 天意が司馬氏に天下を治めよ、といっていると感じた。

 郭太后という後ろ盾をなくした皇帝の曹奐は、いまや指一本で帝位を禅譲させることができる。

 (しかし……)

 魏の武帝、すなわち曹操は簒奪の汚名を恥じ、死ぬまで帝位にのぼらなかった。

 「われは、周の文王でよい」

 これが曹操晩年の心境であったのは、司馬昭も知っている。

 禅譲という名の簒奪を、子の曹丕に託した曹操であったが、魏王朝は五代続いた。

 曹叡の時代に、父の司馬懿と秦朗は曹魏の血統に頼らない清新な王朝をめざしたが、曹爽の出現によって、思いがけず司馬氏が王朝を主宰することになった。

 父は亡くなったが、秦朗と父と同い年の徐庶は洛陽に健在である。

 (また、あのおふたりの邸宅に相談にゆけばよい)

 司馬昭はそうおもい、これからのことで騒ぐ心を落ち着けた。

 しかし翌月の三月、司馬昭の周辺はにわかに忙しくなった。

 晋公から晋王へ昇進させる詔が下ったからである。

 「司馬昭の爵位を昇進させ、晋公から晋王とする。十郡を領邑させ、以前の領地と合わせ二十郡とする」

 ついに司馬昭は魏国の中で王位にのぼり、じぶんの王国をもつことになった。

 それは漢王朝の中で魏国という国の王になった曹操と同じ立場になった、とおもってよいだろう。

 「つつしんで、お受けいたします」

 蜀を平定したという功績があったので、司馬昭はその詔を拒まなかった。

 司馬昭の晋王即位とときを同じくして、劉禅が洛陽に到着した。

 秘書令の郤正と殿中督の張通だけをつれた、簡素な一行であった。

 「かつての皇帝とは思われませんな」

 戦わずして洛陽に帰還した賈充が、司馬昭にいった。

 「いや、むりもない。鐘会の起こした謀叛で大混乱となった成都を生きのびられたのだ。聞けば太子もそのとき亡くなられたそうではないか」

 司馬昭は、劉禅がもつ驚異の生存本能に感嘆さえしていた。

 (父親の劉備も逃げ足のはやさは、右に出るものがいなかった。さすがは劉備の子よ)

 三月の下旬にはいって、劉禅は洛陽城内に入り、宮中の群臣と顔合わせをした。

 おどろくべきことに、劉禅の礼式は魏の中央のものと遜色なく、わずかな過ちもおかさなかったのである。

 「益州の田舎者と思っていたが、どうしてどうして……」

 「典雅なふるまいをなさる」

 「教導したのは、となりにいる郤正らしい」

 「蜀にもあのようにすぐれた人物がいるのだな……」

 宮中の群臣は、劉禅と郤正のゆきとどいた礼儀作法に感心した。

 郤正は父を早くに亡くし、貧困の中で育った。学問を好み、古典を網羅した。

 成都でも博識で識られていたが、それを誇示することもなく、淡々と業務をこなして秘書令に昇進した。

 権力からはつねに遠ざかっていたので、宦官の黄皓も郤正を危険人物とはみなさなかったのであろう。

 学問好きの無欲な男が、歴史の檜舞台に登場することになったのである。

 そういえば宦官の黄皓であるが、鄧艾に亡国の原因とみなされて獄につながれていたが、鄧艾の側近に手厚い賄賂をおくったため、出獄し行方知れずになったという。

 皇帝曹奐に謁見した劉禅は、むろん礼儀作法どおりの臣下の礼をとり、周囲を感嘆させた。

 謁見を終えた劉禅はわずかにうしろに従っている郤正を見て、

 「われは、なんじを識るのがおそすぎた」

 と賛辞をのべた。

 同様の思いをもった司馬昭は、郤正を関内候に封じた。

 もちろん劉禅を驃騎将軍のままにしておくわけにはいかないので、安楽公に封じた。

 劉禅は洛陽に瀟洒な自邸を用意され、何不自由なく暮らすことになった。

 ほどなくして、司馬昭は劉禅を招いて宴会を催した。

 洛陽にやってきた劉禅を歓迎するための宴である。特別に蜀の音楽を奏で、成都から遠路都までやってきた劉禅を慰労した。

 「おお、これは……」

 劉禅は微笑んで、音楽と酒を堪能しているようすである。

 それにくらべて、郤正をはじめ劉禅の従者たちは屈辱を感じたのか、うつむいてなにもいわなくなった。

 (おや……)

 司馬昭は、意外に思って劉禅たちをみた。

 愚鈍にみえた劉禅だけが素直に司馬昭の心遣いを受け取って宴を楽しんでいるのに、無欲にみえた郤正は小さな自尊心を傷つけられて不満をみせている。

 「人というものは、わからぬものだな」

 ふとつぶやいた司馬昭に、となりに座る賈充が、

 「そうですとも。しかし安楽公(劉禅)が無能であったからこそ、晋王は蜀を平定することができたのですぞ」

 と我が意を得たようにいった。

 (ここにも、われのこころがわからぬ者がいる)

 司馬昭は曖昧な笑顔を、賈充にむけた。

 そして、

 「人の無情もこうなってしまうものなのだな……諸葛亮が生きていたとしても、安楽公を補佐して蜀を保つことはむずかしかったであろう。

 ましてや、姜維などにはな」

 といった。

 劉禅は天意を受け入れる善良な人であると、司馬昭は感じ入った。

 諸葛亮は、曹操がむかし徐州でおこなった大虐殺を恨みにもち復讐しようとし、その弟子の姜維もその志を受け継いで、なんども魏に兵を出した。

 (よい臣下をもっておられれば、安楽公も今宵のような日を迎えずにすんだ)

 それは劉禅も、承知しているはずである。

 それを承知したうえで、おおらかに司馬昭に身をまかせている態度は、涼やかな態度であると司馬昭は感じている。

 「蜀が、なつかしいとはおもわれませぬか」

 司馬昭が劉禅に問うと、

 「都は楽しいので、蜀をなつかしむことはございません」

 と劉禅は笑顔で答えた。

 それは嘘であろう、と司馬昭は知っている。

 成都がなつかしい、と答えれば劉禅が叛逆の神輿にされることもありうる。

 そう答えることは、蜀の遺臣たちの身をまもることでもある。

 「それは、なによりです」

 司馬昭も表情をゆるめて、劉禅にいった。

 「情もなにも、あったものではないな」

 「安楽公は、なにをかんがえておられるのか、まったくつかめぬ」

 賈充をはじめ、宴に同席した魏の群臣たちは、劉禅をあざわらった。

 その後、劉禅は厠に立った。

 すると司馬昭のとなりに座る賈充が、郤正に目くばせした。郤正もそれに応じ、劉禅の後を追う。

 厠で劉禅においついた郤正は、

 「つぎに晋王に蜀はなつかしいか、と問われたならば、どうか涙をお流しになり、祖先の墓と廟は蜀にあるので、西を向けば悲しく、蜀をおもいださないことはありません、とお答えください。

 晋王は同情して、公を蜀に封じてくれるかもしれません」

 と訴えた。

 「そうなのか」

 劉禅は聞き流したような態度で、用を足して宴会に戻った。

 「さきほどと、おなじ質問をなさいませ」

 賈充が司馬昭の耳に口を寄せて、いった。

 「なぜか」

 「いわば、試験です。安楽公が野心をもっているか、この場で試すのです」

 (野暮なことをする……)

 司馬昭は辟易としたが、たしかに魏の群臣たちに劉禅の心情を理解させるにはよい機会かもしれない、と思い返した。

 劉禅が厠から宴席に戻った。

 司馬昭は、劉禅に目くばせする。それにきづいた劉禅は、はっとした。

 「ふたたび問うが、安楽公。蜀はなつかしくありませんか」

 劉禅は、おもむろに目をさげ、涙が出ないのでうつむいていった。

 「祖先の墓は蜀にあり……西を向けば悲しくなり、蜀を思い出さない日はありません」

 司馬昭は小さくうなずき、劉禅もそれに応じた。

 すると賈充が大声で、

 「おやおや、それは郤正がいったこととそっくりですなあ」

 と劉禅を揶揄した。劉禅は頭を掻いて、

 「よくご存じですね。厠で教えられました。

 むろん本心ではありません」

 劉禅はいっこうに気にしていないようすで、宴に同席している群臣もおもわず笑った。

 司馬昭は大きくうなずき、

 「安楽公はこういうお人なのだ。たわむれはここまでぞ。よいな」

 と賈充をたしなめた。

 劉禅は、感傷などとうに成都に棄ててきている。

 この一連のやりとりが、蜀の遺臣や劉禅自身を救った。そうさせてやりたい、という司馬昭のはからいもあったであろう。

 弱小国である蜀の帝位から降りた重圧からの解放があったにせよ、劉禅が蜀を思い出さないということはない。

 しかし魏との戦乱が止んだ今、過去にもどってはいけないと劉禅は道化を演じているのである。

 その湿り気のない心意気に、司馬昭は感心したのである。

 宴が終わり、司馬昭は劉禅の席までいき、

 「今日の宴は、安楽公のお人柄をよく理解することができました。配下に不調法があったと思いますが、どうか許されよ」

 と頭を下げた。劉禅はにこやかに、

 「私は、晋王のお心遣いがとても嬉しかった。これからも蜀の遺臣をよろしくお願いします」

 といった。

 「蜀の遺臣といえば……永安の羅憲が呉に攻められていることをご存じですか」

 「むろん……羅憲は忠臣です。どうか晋王にはすみやかに救援をお出しになり、彼をたすけていただきたい」

 劉禅は、蜀の南方の事情もよく把握していた。司馬昭はうなずいて、

 「おまかせください。羅憲のようなすぐれた人材を見殺しにするものですか。

 かならず援軍をおくります」

 と約束した。

 (蜀の遺臣たちはみごとだな)

 司馬昭は、内心感嘆を禁じえない。

 蜀のすみずみまで、劉禅の武器を棄てよといった命令を守り、魏の治安に協力したのである。

 劉禅はこの年から七年生きた。

 時代は晋になっており、泰始七年(二七一)に享年六十五歳で亡くなった。

 さて、永安の羅憲だけは蜀の遺臣でも事情がちがった。呉の国境近くの永安を二千の兵で守っていたところに、呉が救援と称して国境を侵略してきたのである。

 「照烈帝(劉備)が呉をきらっておられたわけが、よくわかる。

 倒壊した家に盗みに入るのが、呉という国の本性よ」

 劉禅の命に背くことになるかもしれないが、永安城を守り抜くことが、じぶんの最後の使命になると覚悟を決めた。

 永安は劉備が呉に敗れたあと、亡くなるまで居住していた城なのである。

 蜀が魏に併呑されたので、兵をとめた皇帝の孫休であったが、そのいいつけをまもらなかったのが撫軍将軍の歩協であった。

 魏に蜀を奪われてしまったのならば、成都を救援するという軍事行動にかこつけて、同盟国の呉が蜀の東部を奪取しても倫理的になんら問題はない、という言い分である。

 羅憲は目をいからせて、

 「わが漢(蜀)と呉は同盟国で、唇歯の間柄であった。それなのに、わが国の滅亡をあわれまず、盟約に背く。

 呉のふるまいは、天もみているぞ。長く国を保つことはできまい。われは、死んでも呉の捕虜になぞなってたまるものか」

 といった。武器をとり、鎧を着てふたたび永安城に立て籠もった。

 歩協も、意地である。軍で城を包囲し、攻撃をしかけてきた。羅憲は城壁にのぼってみずから指揮を行い、呉兵に矢の雨をふらせた。

 しかし多勢に無勢なのは否めない。

 そこで羅憲は参軍の楊宗を呼んで、

 「急遽城を出て、北の長安まで走れ。

 安東将軍(陳騫)に現状を告げ、援軍を要請してほしい。

 長安に安東将軍がおられなければ、洛陽まで行って晋王に直訴するしかない……いずれにせよ、安東将軍こそがわが軍を救出してくださる方だ」

 と言い含めた。

 楊宗は無事、歩協の包囲を突破して長安に向かった。ちなみに陳騫は司徒だった陳矯の次男で、王基とともに諸葛誕の叛乱時には寿春を包囲した名将である。

 司馬昭の絶大な信頼を得ていることは、まちがいない。羅憲の救援の求め方も秀逸であったということだ。

 「どうだ、これで魏からの援軍が来ることはまちがいない。おそくとも三ヶ月後には大軍が到着する。

 それまでわれらは城内で居すくまっていてよいものか。漢(蜀)の兵最後の意地をみせて、折を見て打って出るぞ」

 羅憲は城兵を鼓舞し、兵たちの士気はおおいに上がった。

 「呉兵は、われらを軽侮している。そこでだ、今日呉兵が城攻めを終えて陣に引き返すところを、背後から急襲する」

 歩協の軍は、士気旺盛な永安城をせめあぐねていたので、その日も攻城を終えるとずさんな撤退をしていった。

 「それ、今から敵の背後を襲うぞ」

 羅憲は、歩協の気の緩みをみのがさなかった。

 まさか城から兵が打って出ると思ってもいなかった歩協の軍は、またたくまに戦意の高い羅憲の兵にうちやぶられた。

 鋭鋒するどい槍と化した羅憲の兵は、撤退する呉兵を多数殺害しただけでなく、前進を続け、なんとその陣までをも破壊した。

 日没後には、呉兵が恐慌をおこし、五十里も退いた。歩協も潰走する自軍を止めることができず、慚愧にまみれた。

 このままではいたずらに時間を消費し、魏の援軍がくることをおそれた歩協は、呉帝の孫休に救援軍をもとめた。

 孫休は独裁者の孫綝を粛正した履歴からもわかるように、勇気がある名君である。

 歩協の積極性をよしとし、鎮軍将軍の陸抗をすぐさま救援にむかわせた。

 陸遜の子である陸抗は、戦にかけてはもはや呉随一の将軍である。孫休の信頼も厚かった。

 陸抗は建平郡を守備していたので、永安から遠いところにいたわけではない。

 満を持して三万の兵を率い、征西将軍の留平、建平太守の盛曼、さらに歩協とともに、ふたたび永安城を包囲した。

 「こんどは陸抗がでてきたか……」

 三万の大軍と名将である陸抗の旗印を城外に視認した羅憲は、青ざめた。

 いちど歩協が撤退してから、城壁の修繕や武器の補充、兵糧の備蓄をあらためておこなっておいたものの、このような大軍に包囲されれば、何日攻城に耐えうるか。

 「参軍(楊宗)はほんとうに長安に着いたのだろうか……そうであれば安東将軍(陳騫)に危急を伝えてくれているはずなのに」

 二月が過ぎ、三月になっても魏の援軍は来なかった。

 (辺境の小城ひとつ、晋王からすればどうでもよいということか)

 羅憲は連日の呉との攻防で疲弊し果てていた。五月になっても援兵は来ない。

 二千の兵で三万の兵を打ち破るには、無理がありすぎる。

 じつは司馬昭は、劉禅と羅憲のことを話していたにもかかわらず、晋王になって自身の王朝の創建に多忙を極めていたのである。

 五月の下旬に父の司馬懿を「晋の宣王」に、兄の司馬師を「晋の景王」とするなど、軍事にかまける時間がなかった。

 六月に入ってから、陳騫が楊宗を連れて、司馬昭に面会にきた。

 「羅憲は未だ、たった二千の兵で呉の攻撃をしのいでいます。

 この忠臣と永安城を失えば、晋王は天下の信頼をともに失うことになりますぞ」

 陳騫の真剣な直訴に、司馬昭は青ざめた。

 「安楽公(劉禅)との約束を忘れるところであった。援軍はまだ間に合うかな」

 楊宗は、

 「援軍に遅すぎることがありましょうや。

 ぜひ荊州の兵を、永安にむけて出兵させてください」

 とすがるようにいった。

 「いますぐに手配しよう」

 司馬昭は、いちど決めた約束はかならずまもる質である。

 荊州のみならず、となりの豫州にも永安支援の兵を出す命令を下した。

 いまの荊州刺史は胡烈である。

 「蜀ではわれも命を落しかけた。羅憲は見上げた人物よ。かならず助けてやりたい」

 人の縁がつながった。

 胡烈は先頭になって、兵を急行させた。

 このとき胡烈が向かったのは永安ではなく、呉の退路にあたる西陵であった。

 永安城はかろうじて落城をまぬがれてはいたが、城兵の半数が病気に罹患していた。

 属官が、羅憲に提案した。

 「まだ病に罹っていない者は、城から脱出すべきです。包囲の穴をさぐってまいりましょうか」

 城兵が全滅するよりは、逃亡できる者だけでも生き残る方がいいと考えたからである。

 「いや、それにはうなずけぬ」

 羅漢は、やつれた顔に爛々と光らせた目を属官にむけた。

 「そもそも人の主たる者、百姓に仰がれる者でなければならぬ。

 危急の際、かれらを見棄てるとは君子とはいえぬ。われはここで死ぬぞ」

 魂が何者かに揺り動かされたようなことばに、属官や城兵は粛然とした。

 その意気を天が嘉したのか、数日後に呉軍が撤退をはじめたのである。

 「これは……まさか、晋王の援軍か」

 思わず、羅漢は叫んだ。

 永安を奪取しようとして西陵を失ったのであれば、呉の損失だけでなく呉軍が撤退できなくなってしまう。

 兵を西陵にむけただけであの陸抗を撤退させた胡烈の策は、まさに的を射たものであった。

 胡烈は豊富な物資とともに永安城に入城して、羅漢とかたい握手をかわした。

 「羅将軍、遅くなって申し訳ない。

 永安城は、永安だけでなく益州を救ったにひとしい働きでありましたぞ」

 胡烈の激賞に、羅漢は涙をながした。

 そして病牀にある兵一人一人の手を握り、佐将と抱き合って健闘をたたえた。

 益州にいる蜀の遺臣たちは、辺境の永安城を救った司馬昭に感謝の念を抱いた。

 ちいさな国境の一城が、魏と蜀の絆をいっそう強くしたのである。

 「そうか、羅憲はみごと永安をまもりきったか」

 安堵の表情をたたえた司馬昭は、羅憲を淩江将軍に任命し、万年亭候に封じた。

 七月には呉の皇帝である孫休が三十歳という若さで薨じ、後継はもとの太子だった孫和の子の孫皓である。

 「呉は孫休の子を幼帝としなかったようだな」

 司馬昭がいうと、賈充が呉の事情を説明した。

 「呉はわが国が蜀を平定したことによって、北だけでなく、西からの脅威にもさらされることになったのです。

 幼帝でこの危急のときをしのげない、と考えたのでしょう」

 「大事をとった、ということかな……その孫皓がどのような人かわれは知らぬが」

 孫皓は、三国時代でもっとも極悪な皇帝となった。

 その生活は奢侈を極め、それを諫める配下を数十人殺害した。

 かれはこれから十六年後に晋に攻められ、降伏し天下統一が成ることになる。

 呉の滅亡から三年後の晋の太康四年(二八三)に、四十二歳で薨じた。

 その魏にも滅亡の時が近づいていた。

 「晋王が帝から禅譲を受けるのは、いつであろうかな」

 「時代は晋よ。魏は名のみ残した傀儡に過ぎぬ。その証拠に、だれも今の帝を尊崇せず、晋王に心をよせているではないか」

 そのような声が、朝臣の間でもささやかれている。

 司馬昭は十月に王太子として、長子の司馬炎を立てた。

 後世いわれるところの、晋の武帝である。

 司馬昭はまだ五十四歳の働き盛りであり、後継者に後事を託すには早すぎるとだれもが感じたが、みずからの身体の異変を知っているのは司馬昭だけであった。

 徐々に食欲を失って、床につく日々が多くなった司馬昭は、魏の相国を司馬炎に譲った。

 秦朗の邸に司馬昭からの使者が訪れたのは、それからまもなくのことであった。

 「晋王の病はそれほどお悪いのですか」

 秦朗ももはや六十七歳である。その客になっている徐庶も司馬懿と同年の生まれなので、八十五歳になっている。

 「……いつもならば晋王は秦朗どののご邸宅にお伺いいたしますが、こたびは王宮に足をお運びいただくよう仰せつかっております」

 「……」

 使者の返答が、すべてを物語っていた。

 司馬昭は、もはや立ち上がることができない。よって、秦朗と徐庶に話ができるうちに話がしたい、といっているのである。

 「徐庶どのとお伺いいたしましょう」

 秦朗は、徐庶とともに晋王宮への馬車に乗り込んだ。

 「魏の中に、晋という王国ができたのですな……」

 徐庶が馬車から王宮を見上げて、感慨深げにつぶやいた。

 「これが、乱世を統一する新しい国です。明帝(曹叡)も、さぞ泉下で安堵されていることでしょう」

 曹叡と秦朗、そして司馬懿がめざした血縁に拠らない清新な王朝。

 それを司馬懿の息子である司馬師と司馬昭の兄弟が、なしえたのである。

 やがて王宮内にある病室に通された秦朗と徐庶は、痩せ衰えた司馬昭と対面した。

 「よくぞ……お越しになられた」

 司馬昭は、半身を侍女に介助されて起こした。

 「晋王にお目にかかれて、光栄です」

 秦朗と徐庶は、司馬昭に拝礼した。

 「はは……堅苦しい挨拶はやめましょう。

 父が亡くなって十三年にしかならぬというのに、父と兄のもとへゆかねばならぬとは」

 あえぎつつそういって、司馬昭は目で侍女たちを下がらせた。

 「よくぞ、なされた。

 武帝(曹操)も明帝(曹叡)もなされなかった大事を、晋王は遂げられたのです。

 中華で晋王の威徳をおそれぬ者はおりません。

 やがて魏は晋にとってかわられ、中華一統の仕上げは王太子(司馬炎)がなされることでしょう」

 秦朗は、司馬昭の痩せた手をにぎっていった。徐庶も目を赤くしてその光景を見守っている。

 「父が亡くなる前、しきりに王淩が夢にでてきたそうです。兄のときは毌丘倹が……ですがふしぎなものですね、私が死ぬ時にはだれも夢にはでてこない」

 司馬昭は、かわいた笑いをみせた。

 「それは晋王がみずからの欲でうごいたことがないからです。

 司馬氏の棟梁になられたときも、景王(司馬師)がおもいがけず早世されたことを受けてのことでしたし、諸葛誕の叛乱も晋王がけしかけられたわけではなく、過酷な攻めも一切おこなわず、城を包囲するだけで、首謀者以外だれも罰せず、よけいな血をながさなかった。

 高貴郷候(曹髦)もかれが暴発したためであり、蜀の平定も老朽した樹木をゆすっただけのようなもの。

 天が晋王のありようを褒め、死者の霊魂をよせつけないのでありましょう」

 秦朗は訥々と、司馬昭にはなしかけるようにいった。

 「ふしぎな御仁よな、晋王は。血なまぐさい策をもちいず、難事を悠々とかたづけていかれた」

 徐庶も、目をほそめていった。

 「それが……王道、というものでしょうか」

 司馬昭のはにかんだようなことばに、秦朗と徐庶は知らず目に涙をためた。

 「かつて、私は諸葛亮が侵略したときの防備に宣王(司馬懿)と従軍しましたとき、おなじく従軍されていた晋王はこうおおせになりました。

 『人の命を救う策であれば、できるかぎりそれを尽くしたい』と。

 それは明帝(曹叡)のおこころを明瞭にあらわしたものでございました」

 秦朗は、うつらうつら朦朧とした意識の司馬昭の手をにぎり、話かけた。

 「明帝と……父、兄との約束は果たせましたかな」

 秦朗と徐庶のことばを聞くことなく、司馬昭は昏睡した。

 魏から晋への禅譲、そして呉の併呑は遠からず果たされるはずである。

 司馬昭は、この年咸煕二年(二六五)の八月に亡くなった。享年五十五歳である。

 諡して晋の文王とされた。

 司馬炎が、相国と晋王を継いだ。

 司馬炎が魏の皇帝である曹奐から禅譲を受け、晋国の帝位に就いたのは、同年十二月のことになる。

 荘厳な司馬昭の葬儀に、秦朗と徐庶は出席した。もうだれも徐庶の顔を知っているものはいなくなっていたからだ。

 「明帝の思いは文王(司馬昭)に継承され、みごとに実をむすびましたな」

 「まことに……」

 秦朗と徐庶は、晴れやかな心で馬車に乗り、司馬昭の葬儀を後にしたのだった。


                  終


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