鐘会と鄧艾
十二
成都降伏の報に接した司馬昭は、おどろき、かつよろこんだ。
「このたびの遠征は、征西将軍(鄧艾)の快事である」
とくりかえして褒めた。また皇帝の曹奐に上聞をおこない、鄧艾を褒めてもらうようとりはからった。
「成都を降したのが征西将軍とは、意外でしたな。てっきり……」
謀臣の賈充が、疑義を申し立てた。
「鎮西将軍(鐘会)が、成都を陥落させると。そう思っていたな」
司馬昭は賈充を見やって、ことばを継いでいった。
「はい。あの才知きらびやかな鎮西将軍が、姜維の前に精彩を欠き、農政上がりの征西将軍が奇策をうみだして功をあげるとは。わからぬものです」
「いってやるな。鎮西将軍が姜維を引きつけておいたので、征西将軍の策が活きた。
ふたりの功績であることは、まちがいない」
(あいかわらず、配下には甘いな)
賈充は機嫌の良い司馬昭のことばをきいて、
不安をかんじた。
「しかし鎮西将軍からは、なんの報告もございませんが……いかなるわけでございましょうな」
たしかに快進撃を続けていた鐘会が剣閣の姜維と対峙して戦線が硬直してから、なんの報告も司馬昭のもとにおくられていない。
(あやつめ。よからぬことをかんがえているな)
司馬昭にも、そのくらいのことはわかる。
自尊心のかたまりである鐘会が、成都陥落という遠征の華を格下の鄧艾に奪われて、おもしろくおもっていないことは、容易に想像がつく。
「目前の姜維の武装解除に手間取っているのかもしれないな。もう少し報告を待ってやろう」
司馬昭は、それはそれとして、鄧艾に詔をくだしてやらねばならない。
「鄧艾は威を輝かせ、武をふるって、敵国深くに入り、将を斬り、軍旗をうばい、敵の首領の首をさらした。
帝を僭称していた君主をひれ伏させ、その首に縄をかけた。
長年誅殺をのがれていたものたちを、一朝にして平らげた。
戦いは季節をこえることがなく、戦闘は一日を費やすことがなかった。
蓆を巻き取るように益州を攻め取り、巴と蜀を平定した。
よって鄧艾を大尉に任命し、二万戸を加増する。そのふたりの子らを亭候にとりたて、それぞれ千戸をあたえる」
十二月に、鄧艾に詔がくだされた。
相国の司馬昭、太傅の司馬孚につぐ、司馬一族以外では最高位である。大尉の席は、九月に高柔が死去していたので、あてがわれたものであろう。
これで傲慢になるな、という方がむりである。
仮節をもっている鄧艾は、師簒を益州刺史に任命し、隴西太守の牽弘など属将に益州の諸郡を統治させた。
また諸葛瞻との激戦があった緜竹には、蜀軍の戦屍体をつみあげさせ、京観をつくった。
古代からこの京観が大きいほど、その将の功績をあらわす凱旋門である。
(こ、このわれが大尉……)
満腔のよろこびを自慢したくなった鄧艾は、緜竹の京観をながめつつ、蜀の遺臣たちにいった。
「し、諸君らは、わ、われが蜀に攻め入ったため、こ、こうして安穏としていられるのだ。
ご、呉漢(後漢の光武帝に仕え、蜀を平定した将軍)のような男に攻められていたなら、皆殺しに遭っていたであろう」
また、
「き、姜維は一代の英雄といってよいが、わ、われと出会ったことが運の尽きであった」
とまで放言した。
(かなり気がおおきくなっておられるな)
蜀の遺臣たちは、陰で鄧艾を嘲笑した。
連年の姜維による北伐では、守備をする鄧艾が有利に防戦したが、魏による蜀征伐では、鐘会が剣閣で姜維に釘付けになっていたおかげで、鄧艾は成都を急襲することができたのである。
上機嫌の鄧艾は、孤立した呉に目をむけはじめた。
魏の大軍が益州に駐屯し、さらに元蜀軍の兵を接収することができた今、この勢いで呉を平定してしまおうと画策しはじめたのである。
「ご、呉平定の機会は、い、いまをおいてない。し、相国(司馬昭)に案を書簡にして送ってみよう」
自信満々の鄧艾をみて、鄧忠と師簒は、不安に駆られた。
「まだ蜀を平定したばかりで、治安も整っておらず、占領政策に力を入れられてはいかがですか」
鄧忠は、父の鄧艾に諫言をおこなった。しかし鄧艾は、それを無視した。
洛陽の司馬昭は、傲慢さが見え隠れする文面をいぶかったものの、それを賈充に閲覧させ、意見をもとめた。
「いかがすべきか。大尉(鄧艾)は少々専断が過ぎるようにかんじられるが……」
「そのとおりです。行政の処置はともかく、つぎの策戦まで大尉がきめるというのは、君臣の規範をこえています」
「監軍(衛瓘)に頭を冷やさせるか」
司馬昭は書簡をもって、衛瓘に鄧艾を諫めさせることばをつたえた。
「相国のおことばをお伝えいたします。呉への侵攻を含めた大尉のご計画は、のちの指示を待つように。軽挙はおつつしみください。以上です」
衛瓘は冷静沈毅な人柄で、司馬昭のことばを噛んで含めるように丁寧に鄧艾に説明した。
たちまち鄧艾は、不機嫌になった。
衛瓘は四十四歳で、六十七歳の鄧艾からすれば子どものような年齢であることも、かれをいらだたせた。
「せ、戦場にあっては主君の命をきかざるときもあることを、し、相国はご存じではない。わ、われが軽挙妄動などしようものか」
憤慨した鄧艾はふたたび、司馬昭に書簡をおくった。
「いま、蜀の官民はこぞって魏に帰服し、南海の果てまで平定され、東は呉と接するようになりました。
こうなったからには、一刻もはやく呉を鎮定すべきです。
国家のご命令をまっておりますと、使者の往復する時間がかかり、いたずらに月日が経過してしまいます。
『春秋』によれば、大夫が国境を越えたあと、社稷を安んじて国家に利益をあたえる場合には、逐一君主の指示を仰がず、専断を行ってよいこととされています。
呉はまだ、わが国にしたがっておりません。常道にこだわって時機を逸することのみを憂います。どうか、呉を攻めるご許可をいただきたい」
鄧艾はうろうろと室内をあるきまわり、爪を噛んでうなるようにいった。
「ぼ、凡人は平凡を好む……て、天下平定の時機はいまであるのに、なにを躊躇する必要があるのか」
あからさまな司馬昭への反発である。
功さえたててしまえば、なにをしてもよいという傲慢さが顔ににじみ出ている。
「なあ、父上はあのことを気になされているのではないか」
鄧忠が、かたわらの師簒にはなしかけた。
「ああ、あの占いの……。しかし、まさか占いごときで我を失われるような大尉でもございますまい」
師簒は苦笑して、こたえた。
しかし、鄧艾の心中には出師の前に占ってもらった不気味な占いが、黒くうごめいていたのである。
鄧艾は、蜀征伐の前に夢をみた。
山上に座り、近くに流れる水をながめているだけの夢である。
奇妙な夢ではないのだが、験を担ぐ癖のある鄧艾は、殄虜護軍の爰邵にその意味を問うてみた。
占いにくわしい爰邵は、すぐこの夢に不吉なものをかんじた。即答を避け、後日占った結果を鄧艾に報告した。
「易をたててしらべてみました。まず山上に流水があることを蹇といいます。蹇は占いにおきましては、西南に利あり、東北に不利ありという言葉です。
易にくわしかった孔子は、西南に行けば功をたてられる、しかし東北に行けば道が窮まってしまう、といいました。
このことを征西将軍(鄧艾)にあてはめてみますと、かならず西南に位置する蜀には勝つでしょうが、成都から東北に位置する洛陽には帰還できない、ということです」
鄧艾は蒼白になって、憮然とした。
(え、易にくわしいものとは、こ、ここまでいうものか……)
爰邵の預言どおり、蜀を降伏させるという大功をたてた鄧艾は、生きて洛陽に還ることができなくなる。
(さ、さて、どうする……)
東北に生きて還ることができないのであれば、呉を攻めて東か南にゆくしかない。
鄧艾は、司馬昭から呉征伐を再度反対されたときは、独断で呉を攻める決意をした。
占領地である新領土の蜀で船を作らせ、討伐軍の編成を考えた。
そのころ洛陽の司馬昭は顔をしかめて、鄧艾からの書簡を読んでいた。
「いよいよ、大尉(鄧艾)が叛乱の意をかくさなくなってきたが……いかがする」
謀臣の賈充は、にやりとわらった。
「司徒(鐘会・蜀平定の際に昇進)に、しまつさせましょう。毒をもって毒を制す、ということばもあります」
司馬昭は、鐘会の叛意も把握しているが、鄧艾と鐘会に結託されて叛乱をおこされることよりも、各個撃破するほうが容易であると決断した。
鄧艾が司馬昭からの返事をまっているうちに年が明け、景元五年(二六四)になった。
「監軍(衛瓘)がおみえになりました」
属官の連絡を受けた鄧艾は、
「お、おお、ようやく呉討伐のお許しがおりたか」
と上機嫌で衛瓘を出迎えた。衛瓘には笑顔がなく、じっと鄧艾をみつめている。
「お、遅かったではないか。し、相国の書簡はいずこぞ」
せかす鄧艾に、衛瓘は冷えた声でいいはなった。
「詔がくだされた。大尉に叛意あり。相国は檻車をもってあなたをお召しである」
「ほ、叛意だと……そ、それはいったいどういうことか」
さけぶ鄧艾に兵たちが殺到し、たちまち檻車に押し込めた。
「父上……」
鄧艾の日頃の態度に不安をおぼえていた鄧忠と師簒も逮捕され、別の檻車に入れられた。
「抗弁があれば、直接相国の前でするべし。
それと軍はもはやあなたの指揮下にはない」
衛瓘は、事務的に告げた。
誉れある常勝将軍が一転して、無位無官の罪人に転落した。よもやの事態に、鄧艾は怒りにふるえるだけであった。そこに、
「監軍、ご使命ご苦労であった」
と鐘会があらわれたではないか。
そのかたわらには鄧艾がみたことのない、初老の将軍をつれている。
「し、鐘会、はかったな。だ、だれだ、その男は」
ふたりは顔を見合わせてせせらわらっているだけである。やがて初老の将軍が、
「お初にお目にかかる。もとの大尉どの……われは姜伯約である。
猿のように山谷をつたって、成都を陥れた結果が謀叛とは。やはりうまれの賤しさは、隠しようがなかったというところかな」
といった。
「き、きさま、き、姜維だな。し、鐘会をたぶらかして、なにをたくらんでいる」
「たぶらかす、とはひとぎぎがわるい。
姜将軍は、われの占領政策に協力してくれているのだ。なんじとはちがう」
鐘会が、檻車の鄧艾をのぞき込んでいった。
「き、姜維は策士ぞ。わ、われは長年きやつと戦ってしっている。な、なんじは利用されておるのだ」
「狗がよく吠えますな……大事の前に耳ざわりでならぬ」
姜維もにやついて、鄧艾に侮蔑のことばをはきかける。
「き、姜維。だ、大事といったな。そ、それはなんだ。し、鐘会、こ、こやつこそ食えぬ男ぞ。な、なんとかいわぬか」
鐘会は顔をしかめて、
「謀叛人はだまれ。これ、こやつらをさっさとつれてゆけい」
と衛士に命じた。鄧艾親子と師簒は、檻車ごと洛陽に送られることになった。
「やっと成都が空いた。伯約(姜維)のいったとおりになったな」
「なんの。司徒(鐘会)の徳を天が認めただけであって、われにはなんの功もない」
ふたりの親密さは、衛瓘からみても異常であった。
では、なぜ突然鐘会と姜維が、衛瓘とともに成都にあらわれたのか。
※
姜維が決死の覚悟で剣閣を堅守していたがゆえ、鐘会の主力軍はずっと足止めをされていた。
そこへ緜竹に鄧艾の軍があらわれ、諸葛瞻の軍が大敗したことを知った。
鄧艾が兵を割いて剣閣にむかってくれば、北に鐘会、南に鄧艾と挟撃されることになり、剣閣の陣も苦戦はまぬがれない。
(それとも鄧艾は鐘会と連携せず、単独で成都にむかったのか)
成都には万をくだらない兵と豊富な兵糧がある。すぐに陥落するということはかんがえられない。
「しかし成都への救援はしなければならぬ。
兵を一部剣閣に残して成都に向かおう」
姜維と張翼は協議のうえ、主力を率いて南下した。
この時点で劉禅は呉に逃亡するか、南中に避難するか情報が錯綜している。
少なくとも、成都で戦闘がおこなわれているという情報は入っていなかった。
成都に向かう姜維の主力軍が、太僕の蔣顕に出会ったのはそのころである。
「陛下はすでに征西将軍(鄧艾)に降伏されました。
大将軍(姜維)以下、すべての兵は武器を棄て、鎧を脱ぐようにとの詔が下りました」
蔣顕のことばに、姜維以下張翼たちはことばをうしなった。
「降伏、だと……」
これまで昼夜剣閣で魏軍と戦ってきたことが無に帰した衝撃で、姜維は放心状態におちいった。
それは張翼以下の将兵もおなじことで、みな天を仰いで泣き、わめき、岩に剣で斬りつけたものもいた。
ようやく事態を理解した姜維は、将兵をあつめていった。
「みな、今日までよく戦ってくれた。武器を棄てよというのが陛下(劉禅)のご命令である以上、それに背くことはならぬ。
われは無位無官となり、なんじらに褒賞をあたえることができないが、天上から昭烈皇帝(劉備)がご覧になっておられるので安心せよ」
兵たちはなきながら頭をさげ、武器を棄てて帰郷していった。
「さて、これから鐘会の陣に赴くぞ」
姜維が不敵な笑顔をみせてこういったとき、
(また策をおもいついたな)
と張翼は胸騒ぎがした。
「お待ちください。成都におられる陛下のもとにゆくのではないのですか」
「ちがうな」
「鄧艾に降るのと、鐘会に降るのとでは、どうちがいが……」
姜維は振り返って張翼を一瞥すると、
「なんじは、漢(蜀)を復興させたいとはおもわぬのか」
と意外に溌剌とした声で訊いた。
「そ、それはおもいますが……」
「なら、われについてくるがよい。策がある」
(やはりそうか……)
剣閣でときおりみせる姜維の表情から、張翼はうす気味わるさをかんじていたが、結局姜維に従って鐘会の陣にむかった。
さて鐘会だが、剣閣から涪県に出る道を探らせていたものの、結局その道を発見することができずにいた。
(この鐘会ともあろうものが、鄧艾に出し抜かれるなぞ、あってはならぬことだぞ)
焦躁にかられて本営を歩き回っているうちに、偵探の兵がおどろくべき報せをもってかえってきた。
「剣閣の兵が、一兵たりともいなくなっております」
「なんだと……」
鐘会はこの時点で、成都が鄧艾に降伏し、姜維ら蜀将たちが武装解除したことをしらない。
「姜維らが剣閣からいなくなったということは、成都で鄧艾との攻防がおこなわれているということだ。
司馬(夏侯咸)と護軍(胡烈)をよび、いそいで剣閣を突破するぞ」
夏侯咸と胡烈は慎重に剣閣を調査したが、偵探の報告通り、一兵たりとも蜀兵は見いだすことができなかった。
「……よし、姜維の軍を追うぞ」
この追撃はなんら戦術的な意味をもっておらず、洛陽の司馬昭に積極的な攻撃をしたとしめすだけのかたちである。
この頃、鐘会は鄧艾が成都の劉禅を降伏させたことを知った。
(成都を鄧艾に陥とされたうえ、姜維までもがきやつに降伏すれば、われの面目はまるつぶれになる……)
まるで戦果のない報告書を司馬昭に書かなくてはいけない徒労感に、さすがの鐘会も馬上でうなだれた。
そこに、おもいもかけない吉報がもたらされた。
「鎮西将軍(鐘会)に姜維ら主だった蜀将が降伏してまいりました」
「それは、まことか」
鐘会は飛び上がらんばかりに喜びたい衝動に駆られたが、部下の手前冷静さをよそおわねばならない。
やがて涪県にある鐘会の本営に、姜維、張翼、廖化、董厥ら蜀のおもだった主将らが、印綬を差し出して降伏してきた。
(やっと相国に報告できる戦果をあげたぞ)
鐘会はあの鐘繇の子である。文才において武官で右にでるものはいない。
あたかも大戦果をあげたように修辞をつくして、司馬昭に派手な報告書を書き送った。
(しかし、われを三ヶ月も足止めした姜維とは、いかなる人物ぞ)
ここにきても、鐘会の名将好きの好奇心がこころをうごかした。
「姜維将軍はどちらかな」
「……私が、姜伯約です」
(これは……)
初老の精悍な顔つきをした、姜維が一歩前にでた。
(うむ、まさに名将よな)
この男とじぶんは国の威信をかけ、死力をつくして戦ったのだ。その好敵手たるにふさわしい風貌と立ち居振る舞いである。
「来るのが、遅かったではないか。いかがしたか」
しぜん鐘会の態度もやわらかいものになる。
そのことばをきいた姜維は、はっとした表情ののち、
「本日お目にかかったのは、早すぎたとおもっております……」
とはらはらと涙をながした。
(姜伯約は、まごうことなき忠臣であるな……)
鐘会は、感動した。
姜維とて蜀の重鎮、軍をになう大将軍である。対峙する鐘会を国外に駆逐するまで戦いつづけるつもりだったはずであり、これだけよく鐘会の軍を防ぎきった今でも、膝を屈するのが早すぎた、といっているのである。
「よくぞ、わが陣営にきてくれた。悪いようにはいたさぬぞ」
鐘会は好意の証として、姜維以下すべての将へ受け取った印綬と車蓋等すべてを返還した。
これは旧蜀軍をいまでも姜維らが招集できるようにするためであり、いわば鐘会が自軍十万に加え数万の旧蜀軍を抱え込む意思表示であった。
愁眉を明るくした姜維は、
「鎮西将軍(鐘会)に身を投じたのは、まちがいではなかった。
相手が卑劣にも山をつたい、谷をこえて成都を降したような鄧艾であれば、われらは死んでも降伏はしなかったであろう。
それにくらべ鎮西将軍は堂々と兵をすすめ、百戦百勝、忠武候(諸葛亮)や恭候(蔣琬)ら蜀の忠臣への敬意もはらっていただいていると耳にしています。
将は将たるものを識る……われらも将軍の配下として信頼をえられるようにつとめます」
なまぐさい戦場で涼風をかんじたような気分になった鐘会は、その日から外出するときはいつもとなりに姜維を車に乗せ、座るときもとなりに座らせた。
名将が名将を識る、といった姜維への返答がこの厚遇であった。
姜維といつも語り合っていた鐘会は、長史の杜預に、
「われは伯約(姜維)を中原の名士とくらべてみたのだが、夏侯玄や諸葛誕よりはるかにすぐれているな」
と絶賛した。
ちなみにこの杜預という人物は春秋左氏伝を暗唱するほどこのみ、のちに晋王朝で呉討伐の元帥となって呉を平定する元勲に成長する。
それほどまでに鐘会の信頼をえた姜維は心中で、
(鐘会をつかって、蜀を再興してやろう)
という策を着々とねっていた。
「それにしても鄧艾は、遠征の元帥であるわれにまったく報告をおこなわぬ。このことをどうおもうか」
もはや新領土の蜀における最大の理解者であり相談者となった姜維に、鐘会は疑問をぶつけた。
「鎮西将軍のお耳に入れるべきか悩んでいたのだが……」
姜維はうでをくんで、考え込むふりをした。
「かまわぬ。伯約のつかんでいる情報のほうが今はたしかであろう。おしえてくれ」
「うむ。鄧艾は成都で専断をおもうがままにふるい、益州の人事をすべてきめただけでなく、呉を攻めるために船をつくりはじめているらしい」
「なんだと……」
鐘会は青ざめた。
「きやつは皇帝にでもなったつもりか」
机をたたいて声をあげた鐘会を、姜維はなだめながら、
「まあ、おちつけ。呉を攻めるのならば、益州の諸事をあなたに任せるのが筋であろう。
その相談もなく、無断で呉を攻める……これを都の相国(司馬昭)が知ったら、どうおもうかな」
鐘会は、血のめぐりが悪くない。即座に姜維がいわんとしていることを察した。
「そうだ。これは相国に、きやつの造反ととられてもおかしくないふるまいだぞ」
「造反ととられても……いや、これはもう叛乱なのだよ」
姜維は、そういって鐘会の顔をのぞきこんだ。
(そういうことか……)
鐘会は、姜維のことばにつめたい笑みをむけた。
鄧艾を謀叛人として訴追する。
やりすぎた独断専行を鐘会が謀叛と断定し、司馬昭にそれを認めさせよ、と姜維は示唆したのである。
もちろん、鄧艾が逮捕されたあとの蜀の主は鐘会と姜維である。
ふたりがそのような密談をかわしていた矢先、朝廷からの使者が到着した。
「鎮西将軍(鐘会)はいちども敗れることなく敵地で勝ちつづけ、戦闘をほとんどおこなわずに征討をなしえた。
よって位を司徒にすすめ、県候に封じる。
一万戸を加増して、二人の子は亭候に封じ、千戸を加増する」
鄧艾におとらない厚遇である。
しかし、三公のひとりである司徒に任命されたはずの鐘会本人は、熅然とした表情をしている。
「なにか、ご不満でも……」
朝廷からの使者が心配そうに気遣うと、鐘会はようやく口をひらいた。
「一身の栄達によろこんでいる場合ではない。大尉(鄧艾)は益州において意のままに人事をおこない、叛逆をたくらんでいる。
これを放置しておいてよいものか。
急いで相国(司馬昭)にお報せせねばならぬ。あなたは陛下からの使者だが、われの使者もともなって洛陽にむかってくれないか」
使者はおどろいて、鐘会の書簡をもった使者をともなって洛陽に帰っていった。
鄧艾の独断専行に不審をいだいたのは鐘会だけではなく、胡烈ら諸将もそうであり、個別に司馬昭へ書簡を送っていた。
「細工は流々」
皇帝からの使者をいいくるめたあと、姜維が鐘会の部屋に入ってきて、ふたりは会心の笑みをかわした。
洛陽の司馬昭は書簡を受け取って、しばらく考え込んでいた。
「お考えどおりになってまいりましたが、なにかご心配でも」
賈充が、司馬昭に訊いた。
「うむ。よもや大尉(鄧艾)が先に叛くとはな……大国の滅亡を目にすると、権力をもつもののこころをくるわせるらしい」
そういって、司馬昭は苦笑した。
当初は鐘会が順調に成都を降し、そののち叛乱を起こして、鄧艾に鎮圧させるつもりであった。
「司徒(鐘会)にも野心はあるでしょう。姜維を囲い込んで、書簡にも大尉の讒言を書きこんでおりましたから」
鐘会は讒言だけでなく、鄧艾からの報告書と称して、疑われない範囲で無礼な文面を書き、司馬昭を挑発していた。
鐘会は、他人の筆跡をまねることが上手なのである。
むろん、そのことに気づかぬ司馬昭ではない。
「監軍(衛瓘)を益州にむかわせ、司徒とともに大尉を檻車に入れさせ、洛陽に連行しよう」
司馬昭は書簡を机に置くと、すばやい決断をした。
「こんどは司徒が叛くとおもわれますが」
賈充が懸念を述べると、
「なに、ふたりが連携さえしなければ、司徒はかんたんにしまつできる」
司馬昭は意に介さないようすでいった。
そうしてだれも予想できないほどの早業で、年明けに鄧艾は謀叛人として檻車に押し込められた。
※
鄧艾を罪人として洛陽に送り返した鐘会は、上機嫌である。
「これから伯約(姜維)にはおおいにはたらいてもらわねばならぬ。
策についても、詰めていかねばならぬしな」
「こころえた」
そう応えた姜維は、かたわらの張翼にちらりと自慢げな視線をおくった。
(なるほど、策とはこういうことか……)
張翼にも、ようやく姜維の策の全貌が理解できるようになってきた。つまりはこういうことである。
成都を鐘会に支配させ、独立させる。
兵権を鐘会がにぎったところで鐘会を殺し、姜維が取って代わる。
驃騎将軍に任命されている劉禅を、ふたたび帝位につける。
(しかし、鐘会は姜維の策にきづいていないのだろうか)
張翼はふしぎにおもった。
しかし「策士策におぼれる」ということわざにあるように、鐘会は姜維を露ほどにもうたがっていないようである。
あるいは凡人にみえる劉禅を有能な姜維がふたたび擁立するよりも、帝位についた鐘会につきしたがって王になるほうを姜維が選んだと思い込んでいるのかもしれない。
(だれもが権力におもねるという思考が、鐘会の限界だな)
張翼は、鐘会の底がみえたような気がした。
「それならば、この策は失敗する。
成都の陛下(劉禅)をおまもりしなければ」
そういった張翼は、左右の車騎将軍をわけあっていた老将の廖化のもとをたずねた。
「どうかしたか……まあ入れ」
やや年下の張翼が尋常ではない表情で訪ねてきたとき、廖化はなにかを察し、別室に通した。
「これから老将軍(廖化)に、最後のご奉公をおねがいにあがったのです」
「はは、そうかたいことはいうな。なんじがわれに頼みたいのは陛下をおまもりする、ということであろう」
廖化は白くなった髭をしごきながら、笑顔でいった。
「姜伯約から、策について聞かれたのですか」
「いや、聞かずともわかるさ。司徒が成都を制圧したことで、魏の兵士たちは故郷に還ることができず、大規模な叛乱がおきることもありうる」
「……」
「そこでだ。われらは陛下を無事洛陽にお連れせねばならぬ。われは叛乱のどさくさで命をおとすかもしれぬが、なに、いちどは棄てた命よ。惜しくはない。
なんじは伯約についてゆくのか」
「はい。伯約とは腐れ縁……万が一漢(蜀)の復興がうまくいく可能性があるかぎり、賭けにつきあってならねばなりますまい」
廖化は、しゃがれた笑い声を発し、張翼の肩をつよくたたいた。
「亡国の憂き目に遭うとは、たがいに因果なことであるなあ。夏侯覇どのが亡くなって、車騎将軍を分け合ったのは、今日のためだったのかもしれぬ」
姜維は、じぶんの策に自信をもっている。
ひそかにもとの宮殿に住んでいる劉禅に、書簡をとどけさせた。
「どうか陛下におかれましては、幾日かの恥辱をお忍びください。
私はいちど倒れた社稷を復興し、昏くなった日月をもとのとおり明るくする覚悟です」
劉禅は、黄皓からこの書簡を受け取った。
しばらく読んだのち、
「この書簡を、燃やしてくれるか」
と黄皓に依頼した。
「姜伯約は、陛下をふたたび帝位につける策をもっているのかもしれませんよ」
「そうか」
劉禅は、無関心にそううなずいた。
否とも応とも配下に表明しない、曖昧な態度は父の劉備を彷彿とさせる。
(一度滅びた国がよみがえるなど、現実をみることができないお方ではない)
いずれにせよ、危険な書簡である。
黄皓は劉禅のいいつけどおり、それを焼却した。
さて、鐘会によびだされた姜維は、
(いよいよだな)
と気をひきしめた。だが、
(もう一押しする必要があるな)
とおもった。鐘会を叛乱にふみきらせるために追いつめるべきだとかんがえたのである。
「きてくれたか」
「うむ……」
実質の蜀の支配者となった鐘会は、上機嫌である。そこであえて姜維は、表情をくもらせた。
「どうした、伯約。憂うことでもあるのか」
鐘会の方が鄧艾より、占領行政はうまい。
諸葛亮や蔣琬、費禕といった蜀の名臣の墳墓を清掃させ、祀るなど民意を配慮する施策をおこない、評価も上々である。
「いや……司徒はわれが会ったなかでもまれに見る名将で、できれば長命してもらいたい。
そこにせまるわざわいを回避するには、ふたりで隠居して仙人にでもならないか」
意外な姜維の申し出に、鐘会はおどろいた表情でいった。
「なにをいう。われはまだ四十にもならぬ。
伯約も六十をこえたとはいえ働き盛り。せまるわざわいとはなんぞや」
「相国が、大軍をひきいて長安に駐屯しているという情報がある」
「相国が、長安に……」
鐘会は、眉をひそめた。
「うむ。おそらく司徒の大計がもれたか、その疑いをもっているのはまちがいない」
「……ことを急ぐか」
「古から『狡兎死シテ走狗煮ラル』という。
司徒は相国をも上回る功績をあげ、その才能は相国の十倍はある。
また、鵬は雀の仲間にはなれぬ」
姜維は、すばしこい兎をとりつくしてしまうと、猟犬はその役目を終えたべられてしまう、ということわざを引き合いにだした。
また才能のある人物は、凡人には理解できない、ともいった。
隠居して仙人にならなければ、叛乱者として処刑される、と忠告したのである。
「わかった。この大計が成れば、天下を得ることができる……失敗して蜀に退いても、劉備くらいにはなれるだろう。
われは淮南の二つの叛乱を鎮圧して以来、策をしくじったことはない。このことは中華のだれもが知っている。
伯約のいうとおり、このような大功をたててしまったうえには、われが落ちつく場所はすでに魏にはない。
つまりわが帝国を築き、その主になるほかはないということだ。ちがうか」
鐘会は、そういって力強く姜維の両手をにぎった。
「おわかりいただけたならば、これ以上老婆心をみせることはあるまい。
司徒の天下とりに、非力ながら力添えをさせてもらう」
「たのんだぞ」
もはや鐘会にとって、姜維は氏神に等しい。
鄧艾に五倍する兵力にあわせて、姜維が印綬により動員できる旧蜀軍の兵力をあわせれば、長安と洛陽を陥落させることも夢ではない。
洛陽にいる司馬昭は、成都の情勢をくわしく収集していた。衛瓘から鐘会謀叛の報せを受け取ったのち、おもむろに長安に向けて軍を発した。
蜀征伐の前、鐘会に叛心があると忠告した邵悌は、あわてて司馬昭に面会をもとめた。
「司徒(鐘会)が率いている兵は鄧艾の五倍です。
わざわざ相国が征伐される必要はございますまい。危険すぎます」
司馬昭はわらって、邵悌の肩をかるくたたいた。
「なんじは蜀討伐の前に、司徒についてなんともうしたかおぼえておらぬのか。
われは信義に基づいて人に接し、ものごとに対処するようにしている。
中護軍(賈充)がな、こういった。『おおいに司徒を疑っておられますか』とな。
そこでわれはこう答えた。『いまなんじを蜀に行かせたら、われはなんじを疑うべきなのかな』と。
中護軍はたやすくわれのことばをうけとらなかった。つまりわれが長安に着けば、おのずと兵乱はおさまるであろう」
かつて司馬昭は邵悌に、魏の兵たちは蜀を平定したのちは、はやく故郷へ帰りたがるはずであるといった。
すなわち気魄が抜け落ちた兵たちは、鐘会が叛乱をそそのかしても、必死で戦うことをしないはずである。それは鐘会のもとにいる武将らも同じである。
司馬昭が長安に大軍をひきいて駐屯していることを知れば、たちまち鐘会の叛乱は瓦解するであろう、ということだ。
さらに司馬昭は、首都洛陽を出立するにあたって、かつての曹爽の轍を踏まない処置をおこなった。
皇帝の曹奐を奉じるかたちで征西軍を発したのである。
皇帝と相国がいない洛陽で陰謀が起こったとしても、これで大義は担保される。
さらに魏の皇族のなかで王になっているものたちを鄴にあつめ、従事中郎の山濤に監視させることにした。
後顧の憂いをなくして洛陽を出発した司馬昭は、中護軍の賈充に節を与え、歩兵と騎兵合わせて一万の軍を率いさせ、斜谷から漢中にむかわせた。
さらに鐘会には、書簡を送った。
「鄧艾の兵が従わぬ場合に備えて、中護軍に一万の兵を率いさせて斜谷から楽城に駐屯させることにした。
われは十万の兵を率いて長安で待機する。
まもなく司徒と会うことができるであろう」
司馬昭からの書簡を受け取った鐘会は、手の震えをおさえることができず、顔面を蒼白にして姜維に書簡を手渡した。
「鄧艾を捕らえたいま、われがひとりで事を処断できるのを相国は知っているはずなのに、賈充をさしむけてきた。
これは、われらの大計を察知されたととらえてよいのかな」
「まず、まちがいあるまい」
姜維は冷笑して、司馬昭の書簡を丸めて地に叩きつけ、足で踏みにじった。
「そうだ。もう遠慮はいらぬ。司馬昭を退治して、われらの大義をみせてくれようぞ」
鐘会は、司馬昭を相国とよぶことをやめた。
正月の十五日になった。
翌日、鐘会は護軍、群守、牙門騎督以上の身分の者と蜀の旧官吏を集めて、
「去年、太后が崩じられた」
とおもむろに告げた。
太后とは、魏の明帝曹叡の后であった郭太后のことである。
去年の十二月に崩御し、なんと鐘会に詔を遺しているという。
「その太后がお遺しになった詔であるが、畏れ多くもわれにあてたものであった。
その内容は、魏皇室をないがしろにしている司馬昭を討て、と命じたものである」
集められた将や官吏は、いっせいにざわつきはじめた。
「みな、静粛にねがう。この詔に背くわけにはいかぬので、われらで司馬昭を討つ。
たやすく司馬昭を倒すことはできぬゆえ、みなで討議せよ」
鐘会はくりかえし述べるが、他人の筆跡をまねる名人であり、文書を書かせれば魏で右にでるものはいない。
(この偽詔を見破ることができるものは、まさかいるまいよ)
姜維はかねてからの手はずを実行した鐘会を、内心ほくそ笑んでみつめていた。
魏の諸将は、困惑してたがいに顔を見合わせるばかりで、司馬昭討伐の策など出るはずがない。
その点、最初から策謀に参画していた蜀の旧臣たちは、蜀の地理にも精通していることや、長年魏への北伐を繰り返してきたこともあり、発言が旺盛である。
蜀旧臣たちの意見だけで、司馬昭討伐の策戦の大略が完成した。
もちろん、すべての蜀兵を率いるのは大将軍の印綬をもつ姜維である。
「では、姜将軍には蜀兵すべてを率いて、斜谷に出てもらい、賈充を迎え撃つ。
われは主力軍を率いて、そのあとに続き、賈充を撃破したのちは長安を急襲し、陥落させる。
長安を基点にして、奇兵は陸路を進み、歩兵は船に乗って渭水から河水に入れば、五日で孟津に到着できる。
騎兵と歩兵が守備兵のほとんどいない洛陽で合流すれば、一朝にして天下を平定できるであろう」
さすがは鐘会、蜀征伐という山岳戦では苦戦したが、平地戦では壮大な策戦を立てることができる。
「このように、うまくいくのだろうか」
張翼は、となりの姜維に小声で話しかけた。
「ふふん。忠武候(諸葛亮)の最初の北伐で、魏延が提案した策を大規模にしたものよ。
忠武候は慎重を旨とするお方だったので、その策を退けたが、もし実行されていたなら、長安は陥落していたことだろう。
策とはだれもがありえぬ、と思っている大胆な策ほど成功する」
姜維は、そういってわらった。
(まあ、その前に鐘会には消えてもらうことになるがな……)
計画を実行する前に、鐘会を殺す。
これはかねてから姜維が練っていた策の真髄である。
鐘会を殺して、鐘会と鄧艾の兵を奪ったのち、劉禅を帝位にもどす。
大遠征に向かわせるはずだった大軍を、益州各地に配置し終えて、司馬昭の大軍を撃退したとき、蜀の復興は成る。
(鐘会……惜しい男だが、漢の復興のために死ね)
姜維は、興奮状態の鐘会を冷静な目でながめていた。
鐘会は、反抗的な将や長官らを罷免し、みずからに忠誠を誓っていると判断したものだけを選んで、指揮権を与えた。
そして罷免した者や軍権のないものたちを、ことごとく役所の中に閉じ込めたうえ、城門と宮門を閉じさせた。
驚異の行動力である。
これをおこなったことで、魏の大軍と旧蜀軍をすべて鐘会が掌握した。
「よし、伯約(姜維)、蜀軍すべての兵を集めてくれ。兵は神速を尊ぶ」
「わかった」
鐘会と姜維は、もはや阿吽の呼吸である。
軍事には疎い賈充など、姜維と鐘会の軍と戦えば鎧袖一触で敗北するに違いない。
そうすれば、あとは長安への一本道である。
ところが、好事魔多し。
丘建という武将が開けた蟻の一穴が、鐘会の壮大な計画を崩壊させることになるのである。
丘建は有能な人物であったのであろう、蜀への遠征の前に、鐘会が胡烈から直々に借り受けて配下にしたという経緯がある。
丘建はもと仕えていた胡烈が囚われたため、その旧恩を思い、
「せめて胡将軍に食べ物だけでも届けさせてはもらえませんか」
と鐘会に申し出た。
鐘会は丘建の優しさに感じ入り、
「そうよな……なんじを直接会わせるわけにはいかぬが、従卒一人なら中にいれてもよいぞ」
と胡烈に食料を与える許可を下した。
「他の将たちも、かつてはともに戦った者たちだ。丘建に差し入れを赦したからには、他の将たちにも従卒による食料の差し入れをゆるす」
鐘会は事がうまく運びすぎていたので、気が大きくなっていた。
丘建の従卒が、胡烈のもとに食料をもってやってきたとき、
(これは、命が助かるかもしれぬ)
と胡烈は内心小躍りしたい衝動に駆られた。
従卒を利用して、ここから脱出する策を思いついたのだ。
「なんじの仕える丘建がひそかにおしえてくれたことだが、鐘会はすでに大きな穴を掘り、白い木棒を数千用意させ、外の兵たちをここにいれて、その棒でわれらを全員撲殺したうえ、穴に投げ入れて埋めるらしい。
その陰謀を書いた書簡がここにある。どうかわが子(胡淵)に渡してくれまいか」
気の毒に思った従卒は、てっきり丘建が胡烈とひそかに通じているものと勘違いした。
「わかりました」
とひそかに城外で待機している胡淵に、父の胡烈からの書簡を手渡した。
鐘会が胡烈たち魏の不平将校らを撲殺しようとしていたことは事実であるが、なぜ胡烈がそれを知ったのだろうか。
おそらく不平将校らのもと配下らが、ひそかに情報を監禁された胡烈らに教えていたのだろう。
さて、その従卒から書簡を受け取った胡淵は、この年十八である。父の安否を、城外で不安に感じながら過ごしていた。
胡淵は、胡烈の率いていた兵を引き継いでいる。そして書簡を読むやいなや、
「ああ、父上が殺される」
と大声で泣き、配下にも書簡を読ませた。
「大変です。他の軍営にもこのことを報せましょう」
副官が、胡烈と同様に指揮官を監禁されている各軍営に、非常事態を報せてまわった。
「大変だ。将軍が殺されるらしい」
「謀叛人は相国ではなく、鐘会であることはだれもが知っている。将軍を救い出そうぞ」
城外の各軍営は、一日にして鐘会の機密を共有し、各指揮官を救出する手立てを講じはじめた。
そして、正月十八日の昼になった。
鐘会は姜維に鎧と武器を授け、賈充撃退の策戦を話し合っていた。
そのとき、外に大勢の喧噪が聞こえてきたので、鐘会はいぶかって、
「なにかあったのか。外をみてまいれ」
と配下の兵に命じた。
この喧噪は、胡淵をはじめ指揮官を監禁されている兵がいっせいに蜂起して、城内になだれこみ、指揮官を奪還しようとしているさわぎであった。
「もうしあげます」
急いで復命した兵が、
「火事のようです。ただちに消火し事態を沈静化いたします」
と誤報をしらせてしまったので、安心した鐘会はそのまま鎧と武器を将軍に授ける式をつづけた。
しかし、別の兵があわてて報告に来た。
「城外の兵たちが叛乱をおこし、城内に入ろうとしています」
「なんだと……」
急転直下、事態が深刻なものとなった。
「伯約、どうする」
「なに、将のいない兵など烏合の衆だ。いつでも撃退できる。
その前に監禁している将たちを殺せ。そうすれば、きやつらの目的はうしなわれる」
「そうしよう」
姜維にうながされた鐘会は、内心あわてて建物内に監禁した将らを殺害しようと兵をさしむけた。
ところが、外の喧噪が胡淵らの援軍と知った胡烈が他の将たちをはげまし、
「城外にわれらを救援する兵たちが、多数おしよせている。
ここを耐えしのげば、生きのびることができようぞ」
と大声でいったので、みなで閂がかかっている戸に机や椅子をたてかけて、処刑人たちが室内に入ることを阻止した。いわば時間稼ぎをしたのである。
処刑を執行する兵たちは、押しても引いても戸をあけることができなかった。
ついに城外の兵たちが、城壁に縄梯子をかけて、それを登りはじめた。
城内の兵たちは矢を放ち防戦するが、いかんせん数では城外に駐屯している兵にはかなわない。
「救助の兵たちがきているぞ。屋根に上がって外に出よう」
胡烈はそう叫ぶと、監禁されていた将たちも続々と屋根伝いに屋外に出た。
「父上、よくぞご無事で」
そこに城壁を越えた胡淵率いる兵たちが、城内になだれこみ、胡烈と再会した。
「よく来た。鐘会と姜維こそが逆賊ぞ。きやつらを討ち取れ」
胡烈の命令に、兵たちは大声をあげて応じた。
すでに城内は、大混乱の渦と化した。
鐘会に指揮されていた兵たちは、かなわじと武器を棄てて胡烈らに降伏した。
鐘会と姜維、そして張翼は三人で城外に逃亡しようとした。
ちょうど武器庫が隠れる場所に適していたので、三人はそこに待避した。
「ど、どうする……味方の兵と合流できようか」
すでに心ここにあらず、といった鐘会を無視して、姜維は張翼に目くばせした。
張翼がおもむろに鐘会のうしろにまわりこみ、はがいじめにする。
「むっ……伯約、これはどういうことだ」
「こういうことだ」
姜維は、さっき鐘会から与えられた短刀を鐘会の首筋にあて、さっと引いた。
頸動脈を斬られた鐘会は、大雨のように血しぶきをあげて絶命した。
「鐘会……なんじはよい男であったが、けじめはつけなければならぬのだよ」
返り血をあびて、姜維はようやく笑みをみせた。
「伯約、なんじの策はいつも遠回りにすぎる。われはいつもそれで苦労させられた」
張翼は鐘会と鄧艾をしまつするためだけに姜維と行動をともにしてきたので、ため息をついていった。
「ふふ、漢(蜀)の復興は無に帰したが、われは鐘会と鄧艾をたずさえて忠武候(諸葛亮)に会うことができる」
「鄧艾はまだ護送されている途中のはずだが……」
張翼が疑問を呈すると、
「あれだけ過酷な遠征を強いた鄧艾だ。もとの部下がだまってはおらぬよ。
田続を鄧艾父子の護送車にむかわせている」
と姜維はこともなげにいった。
「まことに抜け目のない男よ」
そこに武器庫の戸を叩きながら、
「そこにだれかいるのか」
と兵たちが殺到してきた。
「ながらくつきあわせて、悪かった」
「なに、ここまできたなら、最期までつきあうさ」
姜維と張翼はそういうと、勢いよく武器庫の戸を蹴破って、戦乱の巷に駆け入った。
ふたりとも、刀が折れるまで魏の兵と格闘し、傷だらけになって戦死した。
大混乱の成都城内では、むろん監禁されなかったもと蜀帝の劉禅も狙われた。
「ど、どういたします」
黄皓がおろおろして劉禅に訊くと、
「どうするもなにも、城を出るしかなかろう」
と劉禅はとるものもとりあえず、側近である秘書令の郤正と殿中督の張通だけをつれ、宮中を出ようとした。そこに、
「陛下、陛下はおられぬか。もとの右車騎将軍の廖化が陛下をお救いに参上しましたぞ」
としゃがれた声がひびいた。
「おお、老将軍。われはここにおるぞ」
混乱に動揺しないのは、さすが劉備の子である。幼い頃、長坂橋の戦いで趙雲に救ってもらったように、こんどは廖化が張翼に依頼されて百余りの兵を率いて、劉禅を救出に参上したのである。
「おお、陛下。よくぞご無事で。私がお迎えに来たからにはご安心を」
八十を過ぎた廖化は、目にうっすらと涙をためていた。
廖化が劉禅を守りながら率いる兵たちは、さすが指揮官が関羽と諸葛亮に薫陶を受けただけあって、威風あたりを払うものがあり、混乱の中にあって、どの兵たちもこの小隊が進むのをさけた。
こうして劉禅は、無事城外に出ることができた。
劉禅の太子である劉璿、蔣琬の子の蔣斌、関羽の孫の関彝も乱軍の中で殺害された。
関羽の一族は、かつて関羽の北伐で捕らわれて殺された龐徳の子である龐会が、父のかたきとばかりに戦乱に乗じて皆殺しにした。
城内の混乱は、夜になって幽閉されていた魏の指揮官が各隊にもどり慰撫したので、ようやく落ち着きをとりもどした。
しかしこの混乱を利用した兵たちもいる。
もとの鄧艾の部下たちである。
「いまなら鄧将軍父子を助けられる」
かれらは益州の州境まできていた檻車を襲い、鄧艾と鄧忠、師簒を救出した。
「父上、これからどうなさいます」
鄧忠の問いに、鄧艾は自信をみせた。
「し、鐘会の叛乱があきらかになったのだ。
い、いま益州を慰撫できるのは、わ、われしかおるまい」
「成都にお戻りになるのですか……」
鄧忠と師簒は、不安を口にした。鐘会の叛乱が鎮圧されていても、鄧艾は無位無官の叛逆者である。司馬昭から正式な赦しを得たわけではない。
一方、成都で兵たちを臨時総括しているのは、監軍の衛瓘である。
「ひとまず相国(司馬昭)にはよい報告ができるな……」
混乱の翌朝、胸をなで下ろした衛瓘のもとに、属官が駆け込んできた。
「大変です。鄧艾と子を護送していた檻車が、もとの鄧艾の部下たちによって奪われました」
「そ、それはまことか」
衛瓘は仰天した。
鄧艾は、成都にむけて進軍中だという。
もし城内で鄧艾に味方する将たちが多ければ、鄧艾を罪人だと告げて檻車に押し込んだ衛瓘が逆に殺害されてしまう。
「どうする……」
じぶんが成都を離れられない以上、鄧艾に必ず味方しない将を討伐にむかわせる必要がある。
「私におまかせください」
ここで、鄧艾討伐にみずから名乗りをあげた者がいた。
護軍の田続である。
田続は蜀討伐で鄧艾に従っていたが、難路を進みかねて江油付近で進軍をやめたことがあった。
これを諸将の面前で鄧艾に罵倒されて斬られそうになったので、恨みをもっていたところを姜維に、
「しかるべき時機に、檻車を襲って鄧艾を殺せ」
とそそのかされていたのである。
田続は姜維が死んでも、みずからの恥をわすれていない。
「そうか、護軍(田続)は江油で鄧艾に恥辱を受けたのであったな。
汚名を返上する機会をあたえよう。鄧艾は戦上手だが、いかんせん数百の兵しかもたぬ。
なんじに五千の兵を与えよう。これならば、かならず鄧艾に勝てる。ふたたび、鄧艾をとらえよ」
衛瓘は司馬昭の命令どおり、鄧艾を裁判にかけるつもりであった。
「鄧艾が抵抗したときは、いかがいたしましょう」
しかし、田続がいうとおり鄧艾が二度も叛乱を起こしたとなれば話は別である。
「いざというときは、斬れ」
「こころえました」
勇躍して、田続は出陣していった。
(これでいい……)
衛瓘は、ひとまず胸をなでおろした。
あとひとり、のちの歴史に名を残す人物も難をのがれて衛瓘のかたわらにいた。
長史の杜預である。
杜預は衛瓘のふるまいが気に入らなかったようで、まわりの者に、
「監軍(衛瓘)は、いずれ禍にまきこまれるであろう。自身は名士となり、位や人望が高いのに、良い評判はきかぬ。
たとえば正義にもとづいて人を統率したことがなく、いまもそれは是正されていない。
小人が君子のまねごとをしていて、責務をまっとうできるはずがない」
といった。
田続の個人的な恨みを利用して、鄧艾を殺す算段をさしているのはいうまでもない。
杜預は司馬懿の女婿なので、いのいちばんに鐘会に監禁されてもよさそうであったが、堂々とした態度をよしとした鐘会は、杜預を監禁しなかった。
十六年後の晋による呉討伐の元帥となるが、先にも述べたとおり「春秋左氏伝」の研究者でもあり、衛瓘の人となりを正義の観点から嫌ったのである。
衛瓘はその後も累進を重ねることになるが、晋の政争にまきこまれて殺害されることになる。
さて、鄧艾はなおも数百の兵を率いて成都にむかっている。
それに不安をもちつづけている鄧忠と師簒が、
「いっそのこと、呉に亡命なさいませんか。
成都の衛瓘がわれらを受け入れるかどうかが不透明だからです。
衛瓘が大人数の兵をわれらの討伐にさしむけたら衆寡敵せず、せっかくひろった命をむだにしかねません」
と再度説得した。
しかし鄧艾は、頭に血がのぼってしまっている。
「た、たわけたことをもうすな。え、衛瓘ごときが大尉のわれに刃向かえようか。
た、多数の兵たちがさしむけられようと、われが健在なのをみて、わ、われの配下にくわわるだけである」
鄧艾は意気揚々と成都にむけて進軍を開始させた。
その鄧艾軍と田続の鄧艾討伐軍が遭遇したのは、緜竹の西であった。
「父上、大軍がわれらの行く手をはばんでいます」
「な、なに……」
鄧忠の偵探の報せで、鄧艾は驚いた。
しかし、大軍の旗を確認させたところ、もとの部下の田続だったので、胸をなでおろした。
「ご、護軍(田続)ではないか。で、出迎えご苦労であった。
さ、さあ、われの指揮下に入れ」
馬を前に進めた鄧艾のよびかけに、同じく馬を進めた田続が発した答えは予想外のものであった。
「逆賊鄧艾。おとなしく捕縛されるのであれば、命だけはたすけて相国の裁きを受けさせてつかわす。
抵抗すれば、命はないぞ。どうだ」
「で、田続、裏切ったな」
「国家を裏切ったのは、なんじの方である。
返答はいかに」
鄧忠と師簒はあわてて鄧艾に馬を寄せ、
「父上、田続の軍は五千以上います。戦っても勝てません。
潔く降伏し、洛陽で無実を証明しましょう」
とすすめた。
老齢で気が短くなっている鄧艾は、怒り心頭である。
「わ、われが田続ごときに負けようか。
て、敵を殲滅して、ふたたび益州の主になろうぞ」
ついに、両軍は激突した。
しかしいくら戦上手の鄧艾とはいえ、数ではとうてい田続の討伐軍におよばない。
あっという間に包囲され、さんざんに打ち負かされたあげく、鄧艾と鄧忠、そして師簒は討死した。
蜀の皇帝である劉禅を降伏させ、大尉という高位にまでのぼった鄧艾にすれば、あまりにみじめな最期であった。
のちに洛陽にのこされていた鄧艾の子は処刑され、孫と妻は西域に流された。
「鄧艾を討ち取ったか……」
衛瓘は喜びよりも、安堵でひざからその場にしゃがみこみそうになった。
「こんどこそ、相国に捷報をお届けできる」
そういうと、軍使に内乱の顛末を記した書簡をもたせて長安に走らせた。
鄧艾と鐘会の擾乱、ひいては蜀を完全に平定して三国時代に終止符をうったのは、実質衛瓘だったということになる。
平穏を取り戻した成都城の高楼から蜀の大地を眺めたとき、衛瓘は、
(これは、人のこころをくすぶる風景だ)
とあらためて感じた。
かつて後漢時代に公孫述がこの地で独立し、呉漢に討伐され、劉備は諸葛亮に導かれて成都の主となった。
地の魔力に魅せられた鄧艾と鐘会も、叛乱をおこし、ともに非業の死を遂げた。
(この風景を愛でることで、かれらの霊を弔おう)
柄にもなく、衛瓘は謙虚になった。
そこに廖化にともなわれて、劉禅が衛瓘のもとにやってきた。
「おお、驃騎将軍(劉禅)。御身を案じておりました。ご無事でなによりでした」
心から衛瓘は劉禅の無事を喜んだ。
劉禅には生きて、司馬昭と皇帝曹奐に対面してもらいたかったからである。
「礼ならば、ここにいる廖元検(廖化)に……」
戦乱の城内から劉禅を救出したのは、廖化なのである。
「そうでしたね。老将軍、このたびはまことにお世話になりました。できるかぎりの褒賞をもって礼としたい」
衛瓘は廖化の両手をにぎって、いった。
廖化は微笑して、
「私は八十をとうに過ぎました。身に余る褒賞は、驃騎将軍のご無事だけで充分です。
ただ、かなうのならばこの蜀の地でわずかな余生を過ごしたい。できるでしょうか」
といった。衛瓘は笑って、
「造作なきこと。老将軍はご病気と相国にお伝えしておきます。こころおきなく、戦なき世をおすごしくだされ」
と承認した。
廖化は洛陽に召されることを免除され、蜀の地で亡くなった。
長安の司馬昭は、衛瓘からの蜀における擾乱平定の報せを受け、
「そうか……みな死んだか」
とつぶやいた。
鐘会の叛乱は想定していたものの、鄧艾の謀叛は冤罪のような気がしていた。
長安から洛陽に戻った後、折を見て鄧艾の爵位を削り、赦してやろうと思っていた。
(それだけ蜀の地神というのは、ちからがつよかったのかな)
とも感じた。より真摯に蜀という新領土を慰撫してゆかねばなるまい、と気をひきしめた。
西曹属の邵悌に、
「西曹属のいったとおりになった。想定していったものの、わが軍の代償も小さなものではなかった。
われはなんじに叱られるな」
と皮肉まじりの冗談をいった。
邵悌はすこし表情をゆるめて、
「ものごとをなそうと思う人は多いですが、実際にそれを行い、なしとげる人はわずかです。相国は長年懸案であった蜀平定をなしとげられたのです。
鐘会と鄧艾も、おのれのふるまいたいままにふるまって自滅したにすぎません。
ご自分を責められるのは、まちがいです」
と司馬昭を慰めた。
(秦朗どのと徐庶どのには、いい報告ができる)
そして亡き父と兄にも、と司馬昭はつねにじぶんの心の内に住む人々のことに思いをめぐらせた。
ときに景元五年(二六四)の正月のことであった。




