22.第四章六話
窓の外をただひたすら眺めるだけの時間が十数分ほど過ぎた頃、コンコンとノックの音がした後に続いたのは、リーゼロッテの私室の扉前の警備にあたっている夜勤の聖騎士の声だった。
寝室は廊下とは繋がっておらず、隣の部屋に入る必要がある。そちらの廊下に続く扉が開いた音は聞こえていた。世話係達はすでに下がらせているので、連絡事項を伝えるのは警備中の彼らになる。
「クラウス隊長がお見えです」
「クラウス……?」
今日は休みのクラウスの来訪は想定外で、リーゼロッテはぱちりと目を瞬かせる。出窓から降りてナイトガウンを整え、ドアを開けて隣の部屋に入った。
「通していいわ」
「は」
聖騎士に許可を伝えると、彼は扉を開けてクラウスを招き入れ、外の警備に戻った。
普段のきっちりした団服姿ではなく、クラウスはラフな格好をしている。柄のない紺色のシャツに黒のスラックスというシンプルなコーディネート。リーゼロッテとしてはあまり見慣れない雰囲気で、かなり新鮮だった。
変わらないのは相変わらず完璧な顔立ち、そして左の耳たぶで存在を主張するピアスだ。
「お休みのところ申し訳ございません」
「構わないわよ。まだ寝る時間でもないし」
謝罪する彼に頭を上げるように言い、リーゼロッテはソファーの背もたれにもたれかかって顔を合わせる。
(不思議なものだわ)
かつては一国の王女に振り回される人生を送っていたのに、三百年の時が経って転生し、聖女という世界で最も重要視される存在になるとは。そしてこうして、あっさり自分を捨てたはずのこの男が一番身近に仕えているとは。なんとも皮肉なものである。
じっと食い入るように観察すればするほど、シンプルな服装もまたクラウスの顔の良さを引き立てており、文句のつけようがない。鍛えられた均整のとれた体躯も、団服着用時よりわかりやすく見てとれた。飾り気はないのに上品な空気を纏っている。
あまりにも凝視しすぎていたからだろう。クラウスが思案の後、戸惑い混じりに口を開く。
「何か?」
「なんでもないわ」
顔が良くて見つめていただなんて、絶対に白状するつもりはない。反応に困るのはお互いさまになる。
(つくづくタイプだと思い知らされるわね)
エレオノーラだった頃、ランベルトの顔も好きだったのだけれど、クラウスの方がまさに理想通りの顔立ちなのだ。好み自体は前世とあまり変わっていない上、クラウスが見事にそこをついてくるものだから業腹である。
せめて顔くらい、好みから外れたものであってほしかった。仮に好みとは程遠い、許容範囲にも入らないゴリラのような筋肉モリモリ大男だったとして、ちゃんと嫌いになれたのかは怪しいところではある。けれどきっと、恋情にまで育つことはなかっただろう。
「それで、どうかしたの? 非番の日にわざわざ会いに来るなんて珍しいわね」
「……それは、顔を出したらリーゼロッテ様含め、皆が大人しく休めと煩いからですよ」
僅かに眉を寄せて紡がれたのは、拗ねたような不満気な声音だ。
休みが月に一日は誰もが少ないと感じるはずなのだが、この男の感覚は一般的なそれと乖離しているところが多々見受けられる。特にリーゼロッテに関することでは。
「俺としては、一日でさえ貴女のそばを離れたくないのに」
ぽつりと零れた独り言に近い不意打ちの台詞にリーゼロッテは息を呑み、しかしすぐに平静を装う。
言葉だけ聞けば、まるで恋人に対する素直な愛情表現のようだ。けれどそこに他意はないことをリーゼロッテは知っている。
彼はただ己の実力が傑出していることを自覚していて、それによる確かな自信もあって、聖女の身の安全を最優先に考えているに過ぎない。うっかり胸をときめかせている場合ではないのだ。
「休みは大事だもの」
「その台詞、そっくりそのままお返しいたします」
「私は適度に休んでるわ。強制してようやく月に一日休んでくれる誰かさんと違ってね」
リーゼロッテの予定には、きっちり休みも組み込まれている。ただでさえ体が弱いこともあり、その辺りが徹底されているのは昔からで、今更改めて言うまでもないことだ。他ならぬクラウスも、リーゼロッテが予定通り、調子が悪い時は予定になくとも必ず休むよう、護衛についている間は見張っているのだから。
「休みのことでお互いを説教するために来たわけではないでしょう? 要件は?」
髪を耳にかけながら問いかけると、クラウスは言いにくそうに口を開く。
「……様子が、気になったので」
ぽつりと紡がれたのは、これまた予想外の言葉だった。拍子抜けするほど個人的な感情のままに彼が行動したことを理解し、リーゼロッテは呆れを滲ませたため息を零す。
「本当に過保護ね、貴方。報告は受けているはずでしょう?」
近衛隊の隊長という地位についているとは言っても、非番の彼には本来、リーゼロッテのその日についてを当日に報告することすら必要ないことなのだが、どうしても気になるらしいのだ。最初の頃はルードルフ達が護衛を終えると詳細を聞きに会いに行っていたそうで、今ではルードルフ達の方から報告を上げに出向いているとか。
「それに、何かあったら魔道具が反応して貴方はすぐわかるようになってるんだから、過度な心配はいらないはずよ」
リーゼロッテは防衛のための魔道具を常に身につけている。それは魔法や物理での攻撃を跳ね返したり無効化したりする効果があり、相手が余程の手練れでない限り、怪我を負うようなことも、拉致等されることもないほど強力なもの。
そして、魔道具の魔法が発動した場合、ジークムントや専属護衛には必ずわかるようになっている。詳しく言うなら、リーゼロッテの魔道具発動と同時に反応する術式が組み込まれた別の魔道具があり、教会関係者の一部がそれを持たされているのだ。もちろん、クラウスもその一人である。
つまり、リーゼロッテの身に何か異変が起これば、クラウスはすぐさまそれを察知できるわけである。だというのに。
「それは……そうなんですが……」
それでも、そこまでしても足りないらしい。
こんな風にたまに、クラウスは小さな子供のように不安そうな顔をする。クラウス自身のことには無頓着で適当なくせに、リーゼロッテのことに関しては呆れるほど慎重で神経質だ。
(特に今日は、雨な上に――叔父様もいないからでしょうね)
エレオノーラが亡くなったのは雨の日だった。だからリーゼロッテは雨の日が嫌いだ。
感情と痛みが、記憶が、嫌でも蘇る。考えないようにしても、ふとした瞬間に鮮明に脳裏をよぎる。あの日のことだけでなく、奥深くにしまいたいランベルトや父親のことまで勝手に浮かんで、思い出してしまう。
幼い頃は前世に関する悪夢に魘されて眠れないことはよくあったし、それが体調に大きく影響を与えていた。馬車と同様にジークムントに甘え、夜は共に眠ってもらっていたものだ。
年齢的に共寝が難しくなった頃には、かつて命を落とした日や、婚約が破棄された日の夢を見る回数も減っていた。しかしまったく見ないわけではないので、ジークムントが寝かしつけるのが大半だった。クラウスが護衛になったのもその頃だ。
だから彼は知っている。雨の日はリーゼロッテにとって、良くない意味で特別なのだと。それこそまともに睡眠を取れることなど稀であるのだと。
実際、今日は夕方から降っている雨でテンションが下がっていたのは否定できない。とはいえ昔ほどではなく、不安も恐怖もそれほどではないのだ。少しずつではあるが克服して来ているし、室内にいるというのが大きい安心点だろう。
同じフロアには叔父の部屋があるけれど、当のジークムントは仕事で昼からいない。一週間は帰って来ない予定である。
それでも――普段はすぐそばに、いつでも頼れる身内がいる。なんとも心強い環境だ。前世ではありえなかった幸福だ。
今日一日、クラウスはそばにいなかった。リーゼロッテの様子をその目で直接確認できていなかったことが、彼の不安の要因となったのだろう。それで会いに来てしまうほど、彼は聖女を案じている。身だけでなく、その心も。
何よりも、彼自身よりも大切にされてはいるけれど、その感情はリーゼロッテ個人に向けられたものではない。所詮は聖女への忠誠心が根底となっている。それだけで盲目的になれる彼に呆れを覚えるし、腹立たしいのに――嬉しくて、そわそわする。
手を伸ばすと、クラウスは僅かに目を見張った。固まるクラウスの頬にそっと触れると、拒絶される気配はなく強張っていた表情筋が次第に弛緩し、目がそっと伏せられる。紫の双眸はずっとリーゼロッテを見つめていて、驚きの色から安堵に変化しているのが滲み出ていた。
彼の心配は正しく本物だ。そこは疑う余地もない。だからこそ、やるせない気持ちにもなる。
望む感情を向けられることは決してない。その事実を、前世では見ないふりをした。今世では気づいているのに、そばに置き続けている。
立場上仕方のないことではあれど、リーゼロッテが心の奥底から彼を拒絶していないのも理由の一つだと自覚はしている。彼が手の届く位置にいるのは、他ならぬリーゼロッテが受け入れてしまっているからなのだ。
これを愚かと言わないのなら、一体なんなのだろうか。この現状をマイナスの意味合いなく正確に表せる言葉があるだろうか。
「少しは安心したかしら」
「……はい」
甘くて、愛おしいとでも言うような、柔らかな小さな笑みが浮かべられるけれど。勘違いしてはいけない。期待してはいけない。自衛しなければまた傷ついてしまう。
彼の本質を、忘れてはいけない。
「だったらもう戻りなさい」
彼を手放したら、遠ざけたら、どんな気持ちになるのだろう。清々するのか、それとも悲しいのか。もうよくわからなくなってしまいそうで、それが怖かった。前世で絶望して学習したはずなのに、その経験を無駄にしているように感じる。
内に抱える矛盾は、どうすればなくなるのか。
彼へのこの想いは、どうすれば消えるのか。
甘さとは遠い怒りや恨み、負の感情だけを抱き続けていられたらよかったのに、否定しようのない好意は折れる気配など微塵もなく、むしろ順調に育っていく。
それもこれも、彼がどこまでも優しくて、リーゼロッテのためだけに動くような男だからだ。行動原理は全てリーゼロッテ。そこに一切の揺らぎもない。他の誰かが付け入る隙もない。彼の中で覆ることのない、絶対的な最優先事項。
これほど一途にただただ想われて、落ちないわけがないだろう。忠誠心が並外れているだけの質の悪い男だと知っていながらも引っかかってしまって、情けなさにいっそ笑えてくる。彼のその気持ちが自分と同じ「好き」だったらなんて、そんな夢物語への期待が出てきてしまう。
それこそ、王女の立場を利用した大嫌いなヴェローニカのようで、気分が悪くて仕方ない。
捨てたくせにと前世の罪を責め立てたら、何かが変わるのだろうか。彼はどんな反応を見せるのか。リーゼロッテはこの苦しみから解放されるのだろうか。
その可能性に縋ってみたい気持ちはあるけれど、実際に行動する勇気はない。現在の彼との距離感を最悪とまでは感じていないから、関係性を壊すことに無視できない躊躇いがある。
「明日からまた貴方が私の護衛なんだから、体調は万全じゃないと困るわ。そのための休みよ」
「心得ております」
クラウスは目元を和らげ、柔らかい表情で応える。
それさえもリーゼロッテの心を確実に射抜いて、それでいて煩わしい。体調のことを貴女に言われたくないと、たまには反抗らしい反抗でもすればいいのに。
(ほんと、顔がいいんだから)
高鳴る鼓動を誤魔化すように、心中で文句を零す。
顔だけで完全に絆されるようなことはないけれど、どうにも弱くなってしまうのは事実だ。腹立たしいことこの上ない。
手を引こうとすると、その前にクラウスがリーゼロッテの手を優しく掴み、自身の口元に寄せた。そうして指の背にキスを落とす。
「お休みなさいませ、リーゼロッテ様」
「……おやすみなさい」
穏やかな眼差しで最後まで主人を見つめていた聖騎士が帰り、一人になった室内には、さっきまでもう耳に届かなくなっていた雨音が響く。
柔らかな感触が触れたそこを反対の手でそっと撫で、きゅっと、リーゼロッテは唇に力を入れて引き結んだ。
『生涯、貴女のそばで、貴女をお守りいたします』
前世では守られることのなかった、破棄された約束。今世では余程のことがない限り、あの言葉通りになりそうだ。
夫婦と主従――守るための立場は、まったく違うものだけれど。
誤字報告ありがとうございます。
12月に第五章を更新予定です。




