21.第四章五話
仔細に話し合いが行われ、出立する日取りもあっという間に決められた顔合わせの日が過ぎた翌日。ヘンドリックがまたアルトマン公爵邸を訪ねてきた。
「申し訳ありません。急遽領地に戻ることになってしまい……」
辺境伯領で魔物が出没したらしく、その対応のためにヘンドリックが一刻も早く戻らなければならないらしい。幸い死者は出ておらず、魔物はすでにほとんど討伐されているとのことだが、畑や領民の住居に被害が出てしまっているそうだ。手紙等ではなくこうして直接話しに来てくれるところが誠実さを感じさせる。
「構いませんわ」
「三日後のエレオノーラ嬢の出立の際は、予定通り我が家の馬車を手配させていただきますので。どうかご心配なさらず」
「ええ、お願いします」
公爵家の馬車は使いたくないとエレオノーラが申し出たので、辺境伯領に向かう際はノールデーアの馬車を出してもらうことになっていた。ヘンドリックも休暇を取って領地に戻るから一緒でいいだろうとまとまっていたのである。
「エレオノーラ嬢と共に領地へ向かうのを楽しみにしていたのですが、残念でなりません」
「仕方のないことですわ。お気をつけくださいね。まだ魔物が残っているかもしれないそうですし」
「ええ。エレオノーラ嬢にいらしていただくのですから、一匹残らず一掃しておきます」
そう残したヘンドリックは名残惜しそうに、アルトマン公爵邸を後にした。
「王女殿下が馬車を手配してくださったため、ノールデーアには断りを入れた。ありがたくご厚意に甘えさせてもらえ」
出発する前日、エレオノーラはハルトヴィヒから、辺境伯領に向かう馬車は王宮から派遣されることを聞かされた。新しく婚約話が進みそうならめでたいことだからと、ヴェローニカが提案したそうだ。まったくもって鵜呑みにできない話である。
善意なわけがない。あっさり婚約者を奪われた従妹を気遣ったわけでもない。多少の同情はあるだろうけれど、何より一番なのは――追い落とした者に施しを与えることで勝利を噛み締め、自分がエレオノーラの上にあることを知らしめたいのだ。優越感に浸りたいのだ。エレオノーラが自分よりも優先されることを、あの甘えが許された王女は極端に嫌がっていたから。
世間知らずで、我が儘で、酷く純粋で。自分が望んだことはなんでも叶うと信じている王女。慈悲深い心を持っているのに心の底から従妹だけは嫌悪する、それでいて気の弱いところもある可憐な王女。綺麗とは呼べない性格の負の部分は、ほとんどがエレオノーラに起因するもの。
なぜそれほどまでに嫌われなければならないのか、エレオノーラには理解できなかった。ヴェローニカは他の令嬢には過剰な嫌悪を向けていたことなどなく良好な関係を築いていたから、令嬢達からの評判は良い。
ここでこの好意の皮を被った悪意を切って捨てたら――馬車を断ったら、どうなるだろうか。答えは火を見るよりも明らかだ。
最近反抗的になったエレオノーラを注意することはないものの、これほどまでに直接的な王女からの働きかけだ。拒絶を選択したならば、ハルトヴィヒは怒り、叱るだろう。王族のお心遣いを無下にするとは何事かと、エレオノーラを責めるだろう。なぜ嫌なのか理由も聞かずに。王女の見せかけの優しさに裏があることなど疑うこともなく。
王族に間違いはない。だから全てエレオノーラが悪い。その結論を押し付けられるのは、今に始まった事ではないのだ。
「――はい」
公爵家の馬車が嫌でノールデーアに頼んだのに、皇族の馬車なんてもっと嫌に決まっているけれど。頷く以外、エレオノーラにできることはなかった。ノールデーア側も王族や王弟に強く出ることなどできるはずもなく、ましてや領地に出立済みのヘンドリックの判断を仰ぐこともできず、引き下がるしかなかったのだろう。
己の意見を述べるだけ無駄だ。婚約解消の時と同様、受け入れる選択肢しか与えられていない。当事者のエレオノーラの意思は一切無視。それが彼らの当たり前で、疑問に思うことのない揺らがぬ常識。
父親も、元婚約者もこれだから、どうしようもなかった。
受け入れるしかないのなら、彼らにとって歪と判断される己の思考さえも無意味だ。いっそのこと放棄してしまえれば楽なのに、エレオノーラの心はまだ完全には壊れていないらしい。
誰にも求められていない自我が、往生際悪く僅かに残っている。
明日まで我慢すればいい。そうすれば十七年にも渡る苦痛から解放されるのだ。
翌日。予定通り、エレオノーラは辺境伯領に向け、ヴェローニカが手配したという馬車で出発した。
屋敷を出立する際、ハルトヴィヒがわざわざ仕事の合間をぬって見送りに出て来たのは意外だった。この仕事人間の男はてっきりいつも通り、仕事を優先すると思っていたのに。
今更、多少の異変があったところで感慨深くなるわけもなく。結局は大した会話もせずに別れを済ませた。
出発してまだほんの数分。夕方からは天気が悪くなりそうだからと急いでいたが、ぽつりぽつりと疎らに小さな雨が馬車や道に当たった音がし始めたかと思うと、次第にその音は強く大きくなっていった。
雨に濡れる窓越しに、外の光景をぼんやりと眺める。見慣れた王都の景色の移り変わりはただ視界に映るだけで、感情は動かされなかった。住み慣れた土地を離れる寂寥感などなかったのだ。
(今頃……)
すっと、エレオノーラは目を伏せた。髪と同じ色の長いまつ毛が影を落とす。考えるのは、考えてしまうのは、己を捨てた元婚約者のこと。
王宮では今日、ヴェローニカの呼び出しに応じたランベルトが、王妃も含めた三人で婚姻式について話し合う予定だと聞いている。デザイナーや婚姻式を行う教会の者など、関係者を呼び寄せて幸せムードで準備を進めて行くのだろう。
招待状はエレオノーラの元にも届くはずだ。先日の誕生祭のように欠席することは決して許されないだろうけれど、断固として参席するつもりはない。祝福など、絶対にしない。できるはずがない。
怒りに呑まれそうな思考を放棄するようにエレオノーラは目を閉じ、数分後には眠りに落ちていた。
「――」
「――」
遠くで何かが聞こえる気がする。
「――急げ!」
「!」
外の怒鳴る声が、エレオノーラの意識を一気に浮上させた。パチリと目を開けて飛び起き、雨の日だというのに馬車の走るスピードが異様に速くなったことをガタガタとした激しい振動から感じ取る。
「くそっ!」
「馬車に近づけさせるな!」
外から聞こえるのは護衛達のものであろう、動揺混じりの切羽詰まった声。何やら問題が起きていることは大して考えるまでもなく理解できた。
車体の側面の窓にかかっているカーテンを慎重に、少しだけずらして外の様子を窺う。まずすぐそばに見えたのは、馬を走らせながら剣を撃ち合う男達の姿だった。押し負けそうな一方は護衛で、もう一方はガタイが良く見慣れない――。
「と、止まれ! そっちじゃない!」
努めて冷静に状況を分析していた最中、遮るように前方から叫んぶような声が聞こえ、エレオノーラははっとする。
刹那、馬車がガクッと傾いた。馬車の左側に座っていたエレオノーラの体が車体に打ちつけられる。
(なに――)
「うわあぁぁ!!」
人の悲鳴だけでなく、馬の鳴き声も響いた。馬車の傾きは次第に大きくなり、そうして次に感じたのは――僅かな浮遊感。地を走っていたはずの馬車が、何にも支えられず空に浮いているような、経験したことのない感覚。
(え……)
馬車はそのまま転がった。倒れたのではなく、激しい音と衝撃を繰り返しながら、大きく跳ねながら、まるで急な坂道を転がり落ちていくように止まらなくて。エレオノーラは恐怖にぎゅっと目を瞑った。
(あつい……いたい)
ザーッと雨が容赦なくエレオノーラの体を打つ。馬車から投げ出されて地面に転がっている体は、思うように動かない。
脇腹が異様に熱を持って、焼けるように痛みを訴えている。頭からも出血しているようだし、全身が痛い。
霞む視界で捉えたのは、崖の途中にある剥き出しの鋭い枝だ。その更に上の方――崖からこちらを見下ろす人影も見える。
少し距離があるし、雨という環境と怪我の痛みで定まらない視界では限界があるけれど、見慣れない男達だと視認できた。護衛と切り結んでいた男らしき者も見える。
「死なせるのは契約になかったのに、大丈夫か?」
「金はとっくに貰ってんだ、どうなろうが問題ねぇよ。それより……くそ。相当美人だって話だったし、売ったら大儲けだったろうに。これじゃ死んじまったかもな」
雨が地面を打つ音に混じり、微かに上の会話が届いて来た。頭も上手く働いていない状態ではあまり理解できないけれど、とにかく彼らのせいで、エレオノーラはこうなっているのだろう。どうやらこの崖から馬車ごと落ちたらしい。
一体ここはどこだろうかと疑問を抱いていると、崖の途中でつぼみをつけている植物を見つけた。
「ロープ用意しろ」
「回収すんのか? どうせ死んでるだろ」
「死体でもいいって奴はいる。それに、宝石やらドレスやら、金になるのも積まれてるはずだ」
「確かにそうか」
男達が何かを話している。エレオノーラの耳には全ては届いていないけれど、大体は聞き取れた。雨の音にかき消されぬよう、彼らはある程度大きな声を出して会話をしているようだ。
「離れたところに下に降りられる道があるし、リスクを取って崖なんか降りなくてもよくねぇか?」
「これからもっと雨が酷くなるんだ、時間をかけるのは惜しい。……ん? ……おい、誰か来るぞ。一人だ」
「こんな雨でここを通りがかる奴がいるとはな」
「始末しろ。面倒なことに――ぐっ!」
男達の声が次第に遠くなる。傷がどれほどのものか目視はできなくとも、エレオノーラははっきりと確信が持てた。
(これはもう、死ぬわね……)
不思議と死を受け入れられた。ノールデーアという希望が見えたのに、またもや理不尽に、それも一週間も経たずに奪われる結果になるのは想定外だったけれど。
目を開けている気力もなくて、エレオノーラは重い瞼を閉じた。
数分程した頃だろうか。気を失っていたエレオノーラは、雨とは違う一際目立つ音に薄ら目を開ける。
「エレオノーラ嬢っ!」
なぜか、ランベルトの姿がそこにあった。目が合うと彼は瞠目し、それからまたエレオノーラの名を呼びかける。
これはきっと幻覚だ。だって彼は今、王宮にいるはずなのだから。ヴェローニカを優先する彼がここにいるはずはない。彼はエレオノーラのことを愛してはいないから。
それに、彼のこんな顔は見たことがなかった。なにか急いでいたのか髪が乱れていて、雨に濡れ、必死になってエレオノーラの名前を叫んでいる。普段のきっちりしている突っ込みどころのない生真面目な彼からは想像もつかない。
(よく聞く走馬灯とは違うわね……)
死の間際でさえも、彼のことを考えてしまうとは。やはり容易に捨てられない未練があるのだろう。
あちらは簡単に、躊躇いもなく手を離すことを選んだのに。どうしてこの心はこんなにも縋りついてしまうのだろう。
面と向かって言えなかったことが、ぶつけたい言葉がたくさんある。
どうせ死んでしまうのだったら、最期くらい、本音を晒してしまってもいいだろうか。叱られることも、抑制されることも、もうないのだから。
「どう、して」
「っ、エレオノーラ嬢……!」
「ど、して……かのじょを、えらんだの、です、か」
「!」
「そばに、いて、ほしかっ……た」
誰も、いなかったから。
「わたし、には……あなた、しか、いなか、った、のに……」
エレオノーラにはランベルトだけだった。十年もの間、ランベルトだけが希望の光だったのに。
他ならぬ彼が、それを奪った。
「きらい、に」
「っ」
「なれ、たら、よかった」
「……っエレオノーラ嬢」
震える声で自身の名前を紡ぐ彼に、エレオノーラは最後の力を振り絞り、口の端を上げた。引きつって上手く笑えた自信はないけれど、幻でも、彼には笑顔を向けたかった。綺麗な姿をその目に焼き付けてほしかった。
彼がエレオノーラを愛していないと、知っていても。
「ラン、ベルト、さま……あいして、ます」
ぎゅっと、手が握られたような気がした。雨で冷えているであろう体の温度さえもわからないほど、もうほとんど感覚はないけれど。別の温もりが触れたように感じられた。そんなはずはないのに。
「――!」
霞む視界に映る彼が、悲しみに歪んだ表情で訴える。
「――! ――!」
ほら。やっぱり幻覚だ、幻聴だ。朦朧とした意識の中、願望が幻となったのだ。
彼が発したのは、現実にはありえない言葉だったから。
◇◇◇
雨が窓を打つ音が絶え間なく響く室内。外は月明かりが暗い雨雲に遮られて地上に届かず、街灯や建物から漏れる光だけが頼りの夜。リーゼロッテは寝室の出窓に座り、ぼーっと外を眺めていた。
リーゼロッテは馬車だけでなく雨も嫌いだ。二つとも、前世で最期を迎えた日のことを思い出させるから。
(――エレオノーラは、死の間際に彼の幻を見てしまうほど彼を愛していた)
本当に愚かなことだ。彼はあっさりエレオノーラを手放したというのに、報われない想いを最期まで捨てきれなかったなんて。
好きになるだけ無駄な人だった。婚約が解消されることなく彼と無事に婚姻を結んだとしても、きっと彼はエレオノーラを愛してはくれなかっただろう。見本が血縁にいたのに、見抜くことができなかった。
彼にとってエレオノーラは王弟の娘。あくまで婚約者で、王族の血筋だから他と比べると特別だった。臣下として仕えるように、エレオノーラを義務的に大事にしていたに過ぎない。
なのに、勘違いをした。恋は盲目とはよく言ったものだ。
いや。たぶん、気付きたくなかったから、無意識に目を逸らして、その片鱗を無視していた。それであのような終わりを迎えてしまうとは、なんとも虚しく、価値のない人生だった。
(私は違う)
同じ魂で、記憶も鮮明。エレオノーラの影響を大きく受けている部分があることは否定できないけれど、リーゼロッテはリーゼロッテだ。エレオノーラのようにはならない。
初めてクラウスを見かけた時、すぐに気付いた。わかってしまった。クラウスは彼――ランベルトなのだと。自分がリーゼロッテとして生まれ変わったように、ランベルトもクラウスとして生まれ変わったのだと。
だから、絶対に好きにならないと、なるはずがないと、そう思っていた。リーゼロッテの幸せに彼は必要ないのだと。
実際には、己の内にあるはずなのに気持ちは思うようにならないものだと、酷く痛感することになってしまったけれど。前世とは違う部分ももちろんあって、やはり同じところもあるのだ。
前世では、愛を知ることはできなかった。家族というものも実感できなかった。一方的に抱いて期待するだけで、誰からも与えられることはなかった。ただの憧れで終わった。
けれど、今世は違う。
エレオノーラは幸福を手にできずに死んだ。人生のパートナーにすべき人間を見誤った。父と同じだと感じた部分を見て見ぬふりなんてせずに受け入れ、さっさとこちらから切り捨てるべきだった。好かれるための努力など必要なかった。もしかしたらなんて、無駄な期待を抱いてはいけなかった。選択を失敗したのだ。
だからリーゼロッテは、必ず幸せになりたい。
(エレオノーラのような、惨めな最期は迎えない)
常にそう心に強く決意を刻み、リーゼロッテは生きている。前世と同じ道を辿らないために。エレオノーラの頃から描いていた夢を叶えるために。自分にだって幸せになる権利はあると、証明するために。
それなのに。
『リーゼロッテ様』
優しく名前を紡ぐ声が、顔が――消えてほしい男が、ずっと心に住み着いて離れてくれないのだ。




