20.第四章四話
この部屋にハルトヴィヒが来るのは初めてではないだろうか。少なくともエレオノーラの記憶にはない。こちらが執務室に呼び出されることは多々あっても、ハルトヴィヒがわざわざエレオノーラの元に足を運ぶということがなかった気がする。
エレオノーラの自室に、あのハルトヴィヒの姿。違和感が拭えないし、己の領域を侵害されたようで不快でならない。
「私の部屋の場所、知っていたのですね。驚きました」
「……」
「ああ、この屋敷の主人ですから、全て把握しているに決まっていますね。申し訳ありません」
謝意は一切感じられない刺々しい物言いにハルトヴィヒが何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も紡ぐことはなかった。
以前とは見違うほど、エレオノーラは反抗的になったと自覚している。それなのに、ハルトヴィヒはなぜか叱責することはない。眉間に皺を刻んで不愉快そうにはするけれど、それだけで終わる。
ヴェローニカの誕生祭を欠席すると告げた際も、意外にも「そうか」の一言だけで済まされたのにはかなり驚いたものだ。一体何を考えているのか見当もつかない。
「それで、いくら血の繋がりがあるとは言っても入室の許可も得ずにレディの部屋に入るなんて、よほどの急用がおありですか?」
「……今日の客は、お前の今後の人生に関わる者だ。必ず出迎えてもらう」
言われたことを理解した瞬間、エレオノーラは眉を寄せた。
どうやらもう新しい縁談を用意してきたらしい。正式な婚約解消からまだ一週間程度しか経っていないのに、こうも早くこの男のお眼鏡にかなう婿候補が決められるのは想定外だった。
(本当に、私に選択権をくれることがないわね)
エレオノーラの意思を考慮していないところは相変わらずで、まったくもって想像通りだけれど。
結局、エレオノーラは新たな婚約者となるらしい男を迎えるべく支度を済ませ、外に出てハルトヴィヒや使用人とともに相手の到着を待っていた。
その間、二人の間に会話は一切ない。後ろの使用人達もピリリとした空気に居心地の悪さを感じているはずだが、それをおくびにも出さずに控えている。
相手が誰であるか、ハルトヴィヒは話してくれなかった。すぐにわかるのだから必要ないと判断しているのかもしれない。エレオノーラも自ら問いかけることはなかったので、誰なのかも知らないまま、この場でただ待つことになっている。
ハルトヴィヒが認めた相手は誰なのか。エレオノーラと面識がある男性だろうかと適当に考えていると、屋敷の前に馬車が停まった。真っ先に確認したのは馬車の車体に描かれている家紋だ。
(この紋章……)
見覚えがあり記憶の引き出しを探っていると、馬車のドアが開かれた。中から降りて来たのは見慣れた人物で、エレオノーラは僅かに瞠目する。
エレオノーラ達の前に優雅に立った彼は、綺麗な姿勢で軽く頭を下げた。
「この度は訪問を快諾していただき感謝申し上げます、公爵閣下。改めまして、ノールデーア辺境伯家当主が第三子、ヘンドリック・ユルゲン・ノールデーアです」
まずハルトヴィヒに挨拶をした彼――ヘンドリックは、続いてエレオノーラに微笑みかけた。
「お久しぶりです、エレオノーラ嬢」
「……お久しぶりです」
まさか、新たな婚約者がヘンドリックだったとは、まったくもって想定外だと言わざるを得ない。だって彼は、辺境伯家の第三子ながらも上の二人が姉なので、実家の爵位を継ぐことになっている跡継ぎなのだから。
「話は中に入ってからだ」
「はい」
ハルトヴィヒが屋敷に入り、エレオノーラとヘンドリック、使用人達も続く。
応接室に着き、エレオノーラとハルトヴィヒが同じソファーに、ヘンドリックがその向かいのソファーに腰掛けた。紅茶の準備を終えた使用人を部屋の外に出し、三人だけの空間が出来上がる。
「今日は顔合わせだ。と言っても、お前達はすでに知り合っているし、必要なかったかもしれないが」
「いえ。やはり婚約者として顔を合わせるのは違いますから」
淡々とした冷徹なハルトヴィヒを前に、怯まず会話ができる若者は多くない。ヘンドリックには緊張している様子が見てとれず、エレオノーラは純粋に感心した。
「このお話自体が急なことでしたので、エレオノーラ嬢は驚かれたかもしれませんね」
「ええ。今朝聞かされましたので」
ヘンドリックとの会話を通して隣の男を批難するけれど、当然ながらハルトヴィヒが申し訳なさそうにするはずもなかった。
「ヘンドリック様は辺境伯家の跡継ぎです。アルトマンに婿入りするのは難しいのでは?」
「親戚から養子をとることにした」
すでに決定事項らしい衝撃の言葉に、エレオノーラは目を丸める。臣籍降下して与えられた公爵の爵位を、この男が自分の血を引かぬ者に渡す考えに至るとは。
今更、なぜ心変わりをしたのか。
公爵家に婿入りするに相応しい能力を持った、貴族の次男以下。条件に当てはまるのは何もランベルトだけではない。そして条件に当てはまる男達にとっても、エレオノーラの夫という立場はとても魅力的なものであるはず。何せ王弟が当主の公爵家で、その後を継げるのだ。
縁談はひっきりなしに届いているだろうに、わざわざ養子を取ってまでエレオノーラを他所に嫁がせる理由が思いつかない。
「私は仕事があるから席を外す。後は二人で、今後の事でも話し合えばいい」
「はい」
こんな時でもやはり仕事優先のハルトヴィヒが部屋を後にし、室内は二人きりとなった。
ヘンドリックはいつもと変わらず、優しげな雰囲気を纏ってエレオノーラを見ている。
「急な事で驚かせてしまい、申し訳ありません」
「……別に構いませんわ」
縁談なんて、貴族間では急な事も珍しくない。今回はかなり急すぎではあるけれど。
にこりとも笑わない愛想のないエレオノーラに、これまでとの違いをこの短時間で察したはずのヘンドリックは、しかしそこについて言及することはなかった。「体調は大丈夫ですか?」「ええ」と、なんてことのない会話が続く。
そんな中で不意に、エレオノーラがヘンドリックと目を合わせた。
「縁談は、そちらから?」
「はい」
「友人の元婚約者相手に、気まずさはありませんか? それも婚約解消からまだ一週間ほどですのに」
ティーカップを持ちながら、エレオノーラはそう訊ねる。一口飲むと、ヘンドリックも倣うように紅茶を飲んで口を開いた。
「あまり交流のないご令嬢を我が家に入れることはしたくありませんので、私としては願ってもないことです。それに……すでにエレオノーラ嬢のお耳に届いているかは存じませんが、今回のエレオノーラ嬢とランベルト、そして王女殿下の婚約に関することで、色々と噂が出回っております」
この縁談と同じで、そちらもあまりにも急なことだったのだから当然である。
大方、王女が従妹の婚約者を奪ったとか、そう言った内容だろう。エレオノーラの欠席が効果的面だったに違いない。
事実なのだからとその噂を放っておけば、あることないこと尾鰭がついて、更に過激な噂になりかねない。王族の沽券を大きく損う恐れのあるそれを、国王や父が見過ごすはずがないのだ。
「円満な解消であることを周知するためにも、新たな婚約を発表する必要があるのです。――貴女の」
要するに、エレオノーラとランベルトの婚約は政略的なものだったが、お互いにもっといい相手ができたために双方合意の上で解消に至ったと、そういうシナリオが用意されているらしい。
円満な解消。もちろん彼らにとってはそうだろう。ヴェローニカの意思を最優先に考えられた婚約の変更で、実際に揉めることはなかったから。エレオノーラにその選択肢が与えられていなかったから。ランベルトも、二つ返事で了承したから。
内心では憎しみに近い荒れ狂うほどの怒りと不満を抱え、それと同時に失望と絶望を感じているのは、エレオノーラただ一人だけなのだ。
誕生祭を欠席したのは、気まずさを感じたからとでも思っているのだろうか。都合のいいように解釈しているのかもしれない。エレオノーラが反抗したことはこれまでなかったから、その可能性など国王の頭の中には浮かんでいないことも予想できる。
ヴェローニカは、違うだろうけれど。
「私の相手役として選ばれたのがヘンドリック様というわけですね」
「婚約を申し込んだ中で、幸運にも選んでいただけました」
王家第一の思想を持つハルトヴィヒが受け入れた話なのだから、この婚約はなんらかの形で王家に有益なのだろうと踏んでいたけれど。燃え上がっている噂を鎮火するための茶番をしっかり果たせということらしい。
王家の面子を保つために、こうまで振り回されなければならないとは。エレオノーラの人生は一体なんなのだろうか。
父親は最初からヴェローニカのものだった。婚約者は奪われた。ヴェローニカの周囲には彼女を愛し大切にしてくれる者達がいるけれど、エレオノーラの周りの人間は、誰もがヴェローニカを最優先にしている。
全部全部、世界はヴェローニカを中心に回っている。この先もその世界を構成する一部として、彼女の幸せの支えとして、エレオノーラは犠牲になり続けることを強要されるのだろう。
そう考えると、ヘンドリックとの婚姻は悪い話ではない。
彼の人となりは、なんとなくではあるけれど知っている。今話していても嫌な感じはなく、とても優しく気遣いのできる人だとわかるし、誰かさん達と違って王族に盲目的な様子は感じられないところが特に好印象だ。その点が一番重要である。
辺境伯家としては、噂を鎮める役割を受けて王家に恩を売ることができ、アルトマン公爵家との繋がりも得ることができる。メリットがあるわけだ。
すでに話がほとんどまとまっている以上、彼の素行調査は問題ないということだろうし、優良物件なのは間違いない。
それに、辺境伯領は王都から遠く、この家からも、ハルトヴィヒからも、――ランベルトからも、物理的に距離を置くことができる。ランベルトは彼と友人なので交流は多少あるかもしれないが、それは社交場に出なければならない貴族である以上、覚悟すべきことだ。
考えれば考えるほど、断るメリットが思いつかなかった。
「――わかりました。まあ、父が持って来た話は私が否やを唱えることもできませんので、元々断る選択肢などないのですけれど」
とにかく、王都から離れられるならなんでもいい。
今度こそ、幸せな家庭を手に入れられるかもしれない。ランベルトのこともこの家のことも、嫌なことは忘れて、新しい地で好きなように歩めるかもしれない。
完全な別離ではなくとも、公爵家を飛び出してその実情など知らない平民になるよりよほど現実的な手段だ。
「とりあえず、なるべく早く辺境伯領に滞在する機会を作っていただけますか? 正式な婚姻前に花嫁修行ということでも構いませんから」
エレオノーラの申し出から、早く王都を離れたいという微塵も隠したり誤魔化したりしていない思いが伝わったのか、ヘンドリックは笑みを浮かべた。
「すぐにでも準備させていただきます」




