せいちゃんの手紙
せいちゃんの手紙
夏美
気がつくと朝、自分の家のベッドにいた。夜どうやって帰ってきたのかよく覚えていない。パジャマを着てるけど、着替えた覚えがない。ふと枕元を見ると封筒がおいてあった。封はされていない。何だろう?これ。
「あ、なつ、起きたの?」
ワイシャツ姿のせいちゃんが入ってきた。
「頭痛くない?大丈夫?」
せいちゃんはそう言いながら、クローゼットからネクタイを一本取り出して鏡を見ながら結んでいる。
「わたし昨日どうやって帰って来たの?」
「タクシーで寝ちゃったんだよ」
「じゃ、どうやって上まであがったの?」
「俺がおんぶしてきたんだよ」
「全然覚えてない」
「よく寝てたからね」
わたしはもう1回手元の封筒を見た。
「パジャマって自分で着たの?」
「俺が着させた」
「……。どうもすみません。何から何まで」
「いや、別にいいけど、それくらい」
クローゼットをとじてせいちゃんはこっちを向いて笑った。ふとわたしの手元の封筒に目をやる。
「これ、何?」
「あー、それ、手紙」
「手紙?」
「うん」
「せいちゃんが、わたしに?」
「うん」
わたしは、手元の封筒を見て、中の便せんを取り出した。
「あー、あの……」
「なに?」
「はずかしいから俺のいるところで読まないで」
わたしは便せんを見た。
「そんなすごい内容なの?」
「いや、普通の手紙だよ。あ、それと子供たちに見せるなよ。絶対」
よくわからない。よくわからないけど、まぁいいか。
「うん。わかった。じゃ後で読む」
いや、後で読むじゃなくて、忘れてた。今日、普通の日じゃん。
「朝ごはん、お弁当」
わたしはベッドから抜け出した。
「お母さんおはよう。よく寝れた?」
千夏と太一はテーブルに座って牛乳を飲みながらパンをかじっていた。
「朝ごはんは?」
「パンだけ焼いて食べてる」
「起こしてくれたらよかったのに」
「なつ」
せいちゃんが奥から出てきてわたしの肩に手を置いた。わたしが振り向くと、彼はわたしの唇に軽くキスをした。それからわたしの髪をなでた。
「いってきます」
わたしの目を見て微笑んでから体を離して、玄関から出て行った。
驚いた。結婚してから初めて彼は子供たちの前でわたしにキスをした。
「お姉ちゃん、今の見た?お父さん、アメリカ人みたいだったね」
「お母さん、なんかにやにやしてない?」
「してません」
「かわいい。お母さん、照れちゃってる」
「もう、千夏ちゃん」
子供たちが出て行った後、台所を簡単に片づけてから洗濯機をまわす。洗濯している間にシャワーを浴びた。髪の毛を乾かしながら、テレビをつけてニュースを見る。そして、ふと手紙のことを思い出した。
手紙なんて初めてもらった。それも直筆の。
中條夏美様 彼の几帳面な字で書かれた自分の名前を見る。彼と同じ苗字を名乗っていることが、今更ながら新鮮だった。
中條夏美様
面と向かって話しているといつも途中でふざけてしまって、僕はなかなか真面目に話をすることができないので、かなり異例なことではありますが、手紙を書くことにしました。
まず最初に千夏に教えてもらうまで僕はあなたが元気がないことに気がつきませんでした。ごめんなさい。昨日は久しぶりにおしゃれしたきれいな君に会うことができて嬉しかったです。君にきれいな服も靴もバッグも、すてきなデートも、もう何年もプレゼントしていませんでしたね。本当にごめんなさい。
あなたがきれいだと僕も嬉しいし、あなたが自分をきれいだと思って嬉しいとやっぱり僕も嬉しいです。でも、僕はあなたがきれいだから好きなわけではないです。だからあなたが年を取ってしまったからといって、あなたをやめて他の人を好きになることはありません。
僕があなたを好きなのは、好きとか嫌いとかいいとか悪いとか全部まっすぐに必要なときに必要な感情をきちんと見せることができるところ。僕にはそれができません。明るいところ。いつもきれいな笑顔ができるところ。見ている人も明るい気持ちにさせるような笑顔。自分がやりたくないことは僕にやらせて甘えてくるところ。はずかしがりやなところ。悪いことは悪いと迷わずはっきり子供に言えるところ。時には人とぶつかることを恐れないところ。そして、僕に対していつもとても優しいところ。
あなたは僕に女の人としてみていないと言ったけれど、僕は今君の女の人としての顔も、お母さんとしての顔も知っていて、そのどちらも好きです。僕はずっと温かい家庭にあこがれていたから、もしかしたらずっと昔から君に女の人だけではなくて母親を期待していたのかもしれません。君が僕の家族の中心にいて、そしてなつの家のような温かな家族が欲しかった。僕が子供の頃、祖母が急に死んでしまって、どうしようもなく寂しかった頃、憧れてどうしてもほしくてたまらなかったのは、あなたの家族のような温かな家庭でした。そしてあの頃から君が欲しかったんだと思います。
僕があの頃欲しかったものは今手にしていて、僕は今とても幸せですが、だけどあなたが泣いてしまってとても困っています。僕はどうしたら君を幸せにできるのでしょうか?君が僕にくれた分だけ僕も君に返してあげたいのだけれど。
女の人の魅力というのは本当に栗原のようにきらきらした華やかさだけですか?頭のよさとかとげとげとした美しさは僕の欲しいものではありません。僕はバラのような花よりひまわりのような花が好きです。あなたは夏美だから、ひまわりが似合うんじゃないでしょうか。
あなたはきっと冷たい空気の中で生活したことがなくて、あなたにとってあなたのまとっている温かい空気というのは、あることにさえ気づかないような普通のものなのかもしれません。だからあなたはきっと自分を普通の人間だと思っているのだと思う。何の魅力もない人だと。でも、僕のような冷たい空気の中で暮らしたことのある人間にとっては、あなたのような温かさはかけがえのないもので、また、あこがれるものです。きっとだから僕はあなたの価値をあなたよりわかっているのだと思う。
だからもう2度と自分をなんの価値もない人間だなんて言わないでください。そして、泣かないでください。君が泣いてしまうと僕は自分が君を不幸にしているのだと思ってしまいます。あなたがどうしても欲しくて手を伸ばしてしまったがために君を不幸にしてしまったと思ってしまう。僕以外の人間と結婚したほうが幸せだったんじゃないかとか、いろいろ考えてしまう。
だって僕だって自分自身のことを何の価値もない人間だと思っているのだから。僕を価値のある人にしてくれるのは、やっぱり僕自身ではなくてあなたなのだと思う。君のそばにいると僕は自分が無価値ではないと感じられる。そう感じられなければ、僕はきっともう生きていけません。だから同じように君も僕がそばにいることで、自分の価値を感じてくれませんか?あなたが不幸だと僕は生きている意味がない。僕が家族でいたいのは君と千夏と太一しかいない。家族を幸せにできない男なんて最低です。
もともと他の人が入り込む余地なんて、僕たちにはないんじゃないかな?僕はずっと君しか見ていません。
中條清一
何度か読み返して、そして彼の名前のところを指でなぞった。たしかにこれはせいちゃんからではなくて、中條清一さんから届いた手紙なんだなと思う。
わたしは手紙をテーブルに置いて立ち上がり、ふと思い立ってそれを子供たちの使わない書斎の棚の中に閉まった。それからゆっくり洗濯物を干した。掃除機をかけて冷蔵庫の中を見てある物を確認してからスーパーへ出かける。道すがら、彼の手紙の文を頭の中でもう一度思い出す。どこかで何かの音がして、破裂音のような、はっとして回りを見渡す。特に何でもなかったみたい。ほっとしてまた歩き出す。
スーパーで食材を見ながら適当にカートに入れていく。たぶん今日もせいちゃんは残業と会食だろう。千夏はダイエット中だし(彼女は年中ダイエットをしているんだけど)、太一は何を食べたいかな。
家に帰って買ってきた物を冷蔵庫に入れて、残り物で遅い昼食をとって(食欲はあまりなかった)そしてとうとう子供たちが帰ってくるまでにすべきことがなくなってしまった。テレビをつけてみたけれど、みごとに頭に入ってこなくて、画面が動いているのをただ眺めているだけで、そして、テレビを消した。
そっと書斎へ行って、もう一度彼からの手紙を取り出した。そして、また読んだ。何度も暗記できるようになるくらい。
きっとわたしはどうかしてしまっていた。あのきれいな子を見た瞬間に、彼と結婚できた時に変わろうと思って封印していたわたしの強いコンプレックスが、毎日の積み重ねで強くなっていたと思っていた自分が急に全部ばらばらになってしまって、娘に心配をかけて、そして、彼の前でいちばん弱い自分をそのままさらけ出してしまった。
そのままの自分、つまらない自分、自分が嫌いな自分。わたしは思い通りに幸せになれたから、そんな自分はもうどこにもいなくなったと思ってた。
あこがれの人と結婚できたから、わたしにはとても手に入らないと思ってた人が手に入ったから、もうそれだけで十分だと思ったから、彼に見せても彼を困らせるような自分の醜い部分は見せないようにして、ただ彼を待つ生活を始めた。わたしには、わたしみたいな女には、ただ、彼が毎日ちゃんと帰ってきてわたしに笑顔を見せてくれるだけで十分です。
別にきれいな服もすてきなデートもプレゼントもいらなかった。
でも、きっと本当は、彼が言うようにわたしは本当はもっと彼を愛するのと同じくらい自分を愛さなければならなかったのだと思う。自分を愛せない人間には人を本当の意味で愛することはできないし、愛されることもできないから。
清一
家へ帰って玄関を開けると、なつがパジャマ姿で立っていた。
「おかえり」
「ただいま」
僕は靴を脱いで、家に入った。彼女の髪をなでておでこに軽くキスをした。
「元気?」
「うん。心配かけてごめんなさい」
「謝らなくていいよ」
上着を脱いで、ネクタイを取って、かばんをダイニングの椅子に置いてソファーに座った。疲れた。今日はとても。
「何か飲む?」
「ビール」
なつはグラスとビールをテーブルに置いた。僕は彼女の手をつかまえた。
「そばにいてくれない?」
なつの隣でグラスにビールを入れて、ぼんやり彼女を見た。いつもの彼女だった。でも、今までもこうやって毎日いつもの彼女だと思って、見過ごしていた。僕はそっと彼女の顔に触れた。前髪に、頬に指を滑らせ、頬から顎のラインを指でなぞった。彼女はそっと目を閉じた。僕は彼女にキスをした。静かに優しくゆっくりと。
僕は今は知っている。毎日どんなに心をこめて好きな人にキスをしても、気持ちが届かないこともあることを。昨日なつが声を震わせて泣くのを聴いてから、心の一番底がどうしようもなく冷えてしまった。僕は彼女が壊れてしまうのが怖かった。だからどうしてもそこにいる彼女に触れて確かめたかった。ちゃんとそこにいることを。
僕は彼女抱きしめた。
「ほんとうに、大丈夫だよね?もう」
ちゃんと温かくて、髪からはいつもと同じシャンプーの香りがした。僕は毎日この香りをかがないとくつろげない。
「うん」
「もうあんな無理しないで、絶対。何かあったらどんなくだらないことでも俺が聞くから」
「うん」
「二時間でも三時間でも、毎日同じ話でもちゃんと聞くから」
「うん」
彼女のほうがきっとわかっていない。あんな風に無理をしていたら、人って壊れちゃうんだよ。体が健康でも、それで大丈夫って言えない。心が元気じゃなきゃ。
「あなたが元気じゃないと、俺がどんな気持ちになるか本当にわかってる?」
「うん。わかってるよ」
「じゃあ、いい」
これでほんとうに伝えられたんだろうか?彼女はもうあんなふうに自分を追い詰めたりしないだろうか?大丈夫だって確信は持てない。結局、僕はやっぱり愛し方も愛され方も上手ではないんだろう。だけど、精一杯頑張るしかないんだと思う。この世の誰だってきっと自信満々に誰かを愛しているわけではないだろうから。
お風呂に入ってからベッドで部屋の電気を消して、僕は彼女をずっと黙って見てて、そして彼女はぱっちり目を開けて天井を見ていた。
「寝ないの?」
「せいちゃんこそ」
「俺はなつが寝たら寝るよ」
なつはこっちを見て、意地悪そうに笑った。
「じゃあ、朝まで起きてる?」
「いや、君は必ず途中で寝落ちする」
彼女はあくびをした。
「ほら」
「もう、鈍い人ね、あなたは。眠いの我慢してさっきから待ってるのに」
「……」
「あんなに素敵な手紙くれた夜に、何もしないで寝ちゃうつもり?」
僕は彼女の上に体を載せた。
「あの手紙気に入ったの?」
「気に入ったというか、宝物にするよ」
「必死に書いたけど、ほら、俺文才ないじゃん。いてっ」
「もう、くだらないこと言ってないで」
ほんとうにもうこれで、彼女の中のあの嫌な熱病のような悪い物が消えてしまったのだったらいい。いや、消えなくてもいい。
彼女にキスをして、少しずつお互いに興奮していきながら、僕は考える。無理に消そうとするからおかしくなる。自分の中の弱い自分なんてきっと一生消えはしないのだから、ときにそれと対峙できればいいんだ、きちんと。
もう、あと少しで終わりそうなとき、彼女は急に困ったことを言った。
「ねえ、せいちゃん。夏美愛してるって言ってよ」
僕は動きを止めた。女の人ってほんとにこんなお願いするもんなんだ。
「止めないで」
まじかよ、参ったな……。僕は彼女の言う通りにしてあげた。しょうがなく。彼女は僕の声と体でいってしまった。今晩は、ついでに僕も。なつが落ち着くのを待ってから僕は抗議した。
「ねえ、ああいうお願いやめてよ」
「お願いって?」
「最中にセリフみたいなの言わせるなよ」
「ああ……。あんな短いセリフ、たいしたことないじゃない」
「そういうキャラじゃないんだよ」
「キャラって、あなたが決めるの?」
どうなんだろう?でもとにかく、
「俺はああいうの無理だから。こういうのはただもくもくとしてたらいいじゃん」
「もくもくとって……。ねえ、知らないだけできっとみんなぺらぺらしゃべってるわよ。今度聞いてみたら?」
「そんなこと普通聞かないだろ。聞かれたらどんびきするよ」
なつはふふふと笑った。
「でも、ああいう時に耳元でささやかれたい女の人ってけっこういると思うけどな」
「いわゆる甘いことば系を?」
「そうよ」
しばらく考える。
「俺はムリ」
「なんだ。じゃあ、今日一回で終わり?わたしあなたの声が好きなのに」
もう一回ちょっと考える。
「あのね、今なつが俺に言ってるのは、ペンギンに空を飛べって言っているようなことだよ。ペンギンは空を飛ばない」
彼女は声をあげて笑った。
「無理に飛ばせたら、俺、きっとたたなくなるよ」
彼女の笑いは止まらなくなった。僕は幸せだった。僕のくだらない冗談に笑っている彼女を見るのはいつでも幸せな瞬間だ。
「おい、そんなに声たてたら太一がまた来るぞ」
彼女は笑うのをやめた。
「服着よっか」
服を着ながら、僕は彼女に言ってみた。
「この部屋、鍵つけようよ」
「ばかね」
彼女はそう言ってから、僕の頬にキスをした。
「大人になってからあの子たちがどうしてお父さんとお母さんがカギをつけたかわかったとき、どんだけはずかしい?」
やっぱり、だめか。
そして、彼女は今度こそ眠った。今度こそ僕は彼女の寝顔を眺めた。そしてふと思い出した。大事なことを聞き忘れた。千夏が昨日の夜彼氏って言った件、あれは何だ?
気持ちよさそうに寝ているなつを見ながら、もちろん起こせない。千夏の件については明日聞くしかない。そして、僕はまたしばらく寝られない。




