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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第389話 北の大地に根を張る若殿

西暦1556年7月5日(弘治二年・文月五日ごろ)

蝦夷地 箱館・湯の川・室蘭・洞爺湖周辺

蝦夷に再び赴任して、もう二か月が過ぎていた。

最初に来た時は、海の広さと風の冷たさに、誰もが少し身構えた。

だが今では、松平元康も酒井忠次も、そして旗本先手役の者たちも、この北の大地の空気にだいぶ馴染んでいた。

箱館の港町は、日に日に人の気配を増していた。

舟がつき、荷が下ろされ、魚が揚がり、薪が積まれる。

湯の川の湯気は朝夕に白く立ちのぼり、そこから少し離れた土地には、新しく作られた村々が点々と広がっている。

元康は、狂犬お市様から預かった役目を、思った以上に真面目に、そして思った以上に楽しんでいた。

旗本先手役二百人。

蝦夷開拓民二百世帯。

その者たちを、箱館の港町と湯の川を中心に、四十世帯ずつ五つの村へ分けた。

村を作る。

家を建てる。

農地を割り振る。

畑の向きを決める。

冬を越すための薪置き場を設ける。

水場を確認する。

やることは山ほどあった。

だが、元康は一つひとつを投げずに見ていた。

「ここは低すぎる。雪が溜まる」

畑の端に立ち、土を靴先でならしながら言う。

「もう少し高いところまで畝を引け」

「はっ!」

若い旗本たちが走っていく。

酒井忠次は、少し離れたところで村人たちに薪小屋の組み方を教えていた。

「冬は長い」

いつもの落ち着いた声だった。

「薪は足りぬでは済まぬ。死ぬ」

その言い方に、開拓民の男たちは思わず背筋を伸ばした。

「乾く場所と、濡れぬ場所を分けよ」

「はい」

「積み方も覚えろ。崩れたら無駄になる」

忠次は、戦場で兵をまとめる時と同じ顔で、薪の積み方を教えていた。

元康は、その様子を見て少し笑った。

「忠次」

「は」

「お主、戦より向いておるのではないか」

忠次が、肩をすくめる。

「殿もです」

「そうか?」

「ええ。殿、最近ずいぶん楽しそうですぞ」

元康は、少しだけ遠くを見た。

そこには、越後から買い付けた蒙古馬たちが、草を食んでいた。

背は低い。

だが脚は強く、寒さに耐え、粗い草でも平気な、いかにもこの北の地に向いた馬だった。

「馬は、増やしたい」

元康は静かに言った。

「兵のためでもあるが」

「国のため、ですな」

忠次が続ける。

元康は頷く。

「この地で生きるには、足がいる」

馬がいれば、人も荷も動く。

冬でも、雪でも、距離を縮められる。

だから彼らは、牧場を作り、繁殖を始めた。

その一方で、箱館コタンでは別の熱気があった。

熱田留学から戻ってきたピリカである。

小柄な体で、声だけはやたらと大きい。

「そこ、もっと広げる!」

畑の端に立ち、開拓民たちに腕を振る。

「芋、足りない!」

「もっと植える!」

「冬、長い!」

理屈は単純だった。

だが、単純だからこそ強い。

ピリカは、箱館コタンの農政を切り盛りしながら、周辺の農地の拡大を進めていた。

「ピリカ」

元康が声をかける。

彼女は振り返ると、すぐに走ってきた。

「殿!」

「畑はどうじゃ」

「増えた!」

胸を張って言う。

「前より、ずっと増えた!」

「どこまで広げた」

「ここから向こうまで!」

彼女の指は、箱館の平地を越え、さらに先の開けた土地まで伸びていた。

元康は少し驚いた。

「そこまでか」

「まだ足りない!」

ピリカは真顔だった。

「皆、いっぱい食べる!」

忠次が横で笑う。

「確かに」

ピリカは、さらに続けた。

「馬鈴薯いっぱい作る!」

「麦も!」

「芋も!」

「畑、広い方がいい!」

その言い分は、いちいち正しかった。

元康は、頷いた。

「よし。好きにやれ」

「うん!」

そう言って、ピリカはまた畑の方へ走っていった。

その背を見送りながら、元康は少し目を細める。

「お市様が可愛がるのも、分かる気がする」

忠次が、うむ、と頷いた。

二か月のあいだ、元康は箱館だけに留まっていたわけではない。

室蘭港の拡大。

洞爺湖周辺の開墾。

農業指導。

土木。

牧場の拡大。

それらの確認のため、箱館と各地を往復していた。

室蘭は港を大きくする余地があった。

風向き、波、入り江の深さ。

見れば見るほど、先のある場所だった。

洞爺湖の周りは、水が豊かで、土も悪くない。

しかも、羊蹄山の方角まで見れば、畑を広げられる地がまだまだある。

「ここも使える」

元康は、歩きながら何度もそう言った。

二年目に入った旗本先手役たちも、もう蝦夷に慣れていた。

最初の年は、雪に怯え、風に驚き、鹿の大きさに叫んでいた。

だが今は違う。

「芋は、ここまで広げましょう」

「こっちは麦」

「そっちは牧草地に」

指示も早い。

動きも無駄がない。

特に馬鈴薯は重要だった。

育つ。

量が取れる。

冬に強い。

そのため、洞爺湖や羊蹄山の方まで、畑はどんどん広がっていた。

時には、元康自ら鹿狩りに出ることもある。

旗本先手役たちを連れ、森へ入り、鹿の足跡を追う。

肉は食料になる。

皮も角も使える。

その合間に、元康は周囲の土地を見ていた。

「ここは畑にできる」

「この沢は水が取れる」

「冬道は、こっちがよい」

忠次が、後ろから少し呆れたように言う。

「殿」

「なんじゃ」

「狩りの最中まで仕事ですか」

元康は、鹿を見失わぬよう前を見たまま答えた。

「楽しいからな」

忠次は、それを聞いて少し笑う。

昔の元康なら、こんな顔はしなかったかもしれない。

戦で名を上げる。

主家に尽くす。

生き残る。

そういうことだけを考えていた若殿が、今は畑を広げ、酒を寝かせ、馬を増やし、北の大地に村を作っている。

そして、その日々に充実を感じていた。

港の倉では、別の仕事も進んでいた。

樽が並んでいる。

中身は、麦焼酎。

そして、芋焼酎。

蝦夷の産業にするつもりだった。

しかも、ただ作るだけではない。

ミズナラ樽に保存し、寝かせる。

元康は、樽の蓋を少し開けて香りを嗅いだ。

「……よい」

忠次が横で鼻を鳴らす。

「殿、酒まで作るのですな」

「人が集まるには、酒もいる」

「そればかりですな」

「本当じゃ」

元康は笑った。

村が育つ。

畑が広がる。

馬が増える。

酒が眠る。

港が広がる。

蝦夷は、ただの遠い土地ではなくなりつつあった。

元康は、毎日を楽しんでいた。

戦だけではない。

それでも確かに、これは国を作る戦だった。

祐筆桃の日記

弘治二年 文月五日(西暦1556年7月5日)

蝦夷では、松平元康殿と酒井忠次殿が、相変わらず真面目に開拓を進めているらしい。

箱館と湯の川を中心に、四十世帯ずつ五つの村を作り、農地を与え、冬の備えの薪や畑作りまで細かく指導しているとのこと。

さらに越後から買った蒙古馬で牧場まで始めた。

熱田留学から帰ったピリカ殿は、箱館コタンの農政を切り盛りし、農地拡大を進めている。

どうやら、なかなか優秀である。

元康殿は箱館だけでなく、室蘭港や洞爺湖周辺まで見て回り、農業指導、土木、牧場、酒まで手を出している。

麦焼酎と芋焼酎をミズナラ樽で寝かせているらしい。

戦国なのに、皆やっていることが多すぎる。

だが、姫様の家臣というのは、こういうものなのだろう。

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