三十二. 皇女の心構え
翌朝、陽も登りきらないほど早くに、宦官たちは牢獄に姿を見せた。
「お召し替えの準備が整いました。――疾く移動を」
叩き起こされた澄蘭は、複数名の宦官に姿を隠されるように取り囲まれ、まだ薄暗い中牢獄を出た。後宮に仕える女官たちを取り纏める部署である、司率局へと連れられていく。
取り囲まれているのは、彼らが澄蘭の酷い身形を気遣った訳でも、逃走を警戒した訳でもない。
単に、薄汚れた姿を晒すことで、慶事に湧く内廷の住人を興醒めさせないためだろう。
先日までは至近距離の移動で自覚していなかったが、ずっと牢獄と取調室の行き来のみの生活で、澄蘭の体力は如実に衰えていた。焦りと苛立ち、そして絶望から、食事もほとんど拒否していた。澄蘭は息苦しさに度々立ち止まり、懸命に呼吸を整えては、宦官に急かされ歩き出す。
時折よろめきながらも、澄蘭は背筋に力を込め、堂々と足を進めた。
生母を亡くしてからは、周囲の視線を恐れ、いつも背中を丸めて歩いていた気がする。
微かに高くなった視界に映る風景は、見慣れたものと少し違って見え、澄蘭は目を細めた。
司率局に辿り着くと、澄蘭は建物の脇、布囲いをされた一角へと連れて行かれた。そこに控えていた四名の女官に身柄を引き渡すと、宦官たちは足早に去っていく。
囲いの中に足を踏み入れた澄蘭は、大きな湯桶が用意されているのに目を止める。
その前に佇んでいると、いきなり澄蘭は女官たちに、背後から身体を押さえつけられた。振り返る間もなく、問答無用で衣を剥ぎ取られる。
(何を……)
あまりの扱いに閉口し、裸身で寒さに震えていると、女官たちは澄蘭の身体を桶に突き飛ばした。
「うっ……! ぐ、げほっ!」
ほとんど水に近い、温い湯に頭から突っ込んだ澄蘭は、鼻から入った水の痛みに悶え、盛大に咳き込んだ。自分たちには水がかからないよう、サッと身を翻していた女官たちは、澄蘭のその様子にクスクスと忍び笑いを漏らしている。
見覚えのない年若い女官たちの性悪さに、何とか身を起こした澄蘭は、息をついて顔を拭った。
(今まで私は、女官たちの反感を買うことを恐れて、必要以上に自分を卑下していた気がする。でも、それは、双方にとって誤った対応だった……)
尊大に振る舞いたいわけでも、彼女たちを頭ごなしに叱りつけて、従えたいわけでもない。けれど、職位に相応しい行動を取るよう伝えることは、きっと彼女たちの将来にも関わることだ。
思えば、滅多なことでは声を荒げない養母の芙澤も、配下の者が分を弁えない言動をした時には、厳しく叱咤していた。
布囲いの隙間から吹き付けた風は、瞬く間に澄蘭の体温を奪う。全身に鳥肌を立て、寒さで震えながらも、体勢を整え、澄蘭は遠巻きに自分を見下ろす女官たちを見上げた。
「私は、父皇様にお目にかかるのに失礼のないよう、身形を整えるためにここへ来た。貴女たちはその手伝いを命じられているはず。……そのことを、きちんと理解出来る者たちに、交代してもらった方が良いのかしら?」
据わった目で女官たちを見る澄蘭に、彼女たちはカッと頬を赤く染めた。憤りに震える拳を冷ややかに見つめ、澄蘭は畳み掛ける。
「もう一度言います。私は、皇帝陛下への目通りを控えている。その準備を手伝いなさい。
──湯も温いわ。感冒でも患って、万が一父皇様に移しでもしたら、貴女たちはどう責任を取るの?」
四人の中でも長格なのであろう、僅かに年嵩の女官が、澄蘭の言葉に悔しそうに息を飲んで頭を下げる。
彼女が「大変失礼いたしました、公主様」と呟くと、残りの三人も続いて頭を垂れた。澄蘭は鷹揚に頷いて、改めて彼女たちに支度を命じた。
渋々といった様子で、女官の一人が桶に湯を足し、湯温を調整し始める。
残りの女官たちも、手つきには若干乱暴さが残るものの、澄蘭の髪と身体を手早く洗い始めた。
最低限、見た目の汚れと匂いを落としたあとは、女官の一人が布を持って駆け寄り、丁寧に身体を拭った。水を滴らせる髪は、別の女官が慎重な手つきで複数枚の布で包み、その布越しに何度も水気を絞った。
いつの間にか運び込まれていた火鉢の傍で、彼女たちの手を借りて下衣である抹胸と小衣、次に小襖と褲を身に着ける。ようやく一心地ついた澄蘭は、ほっと息を吐く。
そして憎々しげに澄蘭を見つめる、自身と同年代と思しき女官たちに声を掛けた。
「寒い中ありがとう。貴女たちも濡れたでしょう? 身体が冷えないうちに、着替えてきなさい。……化粧と髪結もこのまま、ここで?」
一番年長と見える女官が、目を白黒させている。彼女は何事かを口ごもった後、同僚と視線を交わし合った。そして、互いに気まずげに目を逸らしたまま、苦笑を浮かべる澄蘭に襯襖と裙を着せた。
「……時間がありません。屋内にも火鉢を用意しますので、中で髪を乾かしてください」
目を合わせず言い、最年長の女官が澄蘭を室内に誘う。澄蘭は一つ頷き、彼女に続いて歩き出した。
その後、奥まった一室に通され、しばらく待っていると、年配の女官たちが火鉢と化粧道具、髪結道具を手に姿を現した。
彼女たちも、「なぜ自分たちが、罪公主の世話などを」と言わんばかりに、嫌悪を全面に押し出している。
それでも、香油を塗り込み、運び込んだ火鉢で手際よく髪を乾かす手つきに無駄はなく、澄蘭は黙って身を任せていた。
火鉢に当て、布で幾度も水気を吸われた髪の表面が乾いたところで、慌ただしく化粧を施され、髻を結われた。
身支度が整い、女官たちが去ったあとは、簡単な武具を構えた宦官が部屋に入ってくる。見張りなのだろう。
澄蘭は気にも留めず、湯浴みを担当した女官の一人が差し入れてくれたぬるい茶と、柔らかく蒸された馬拉糕を手に取った。
(今朝は、朝餉の粥を口にする暇もなかったものね……。ありがたいわ)
茶の温度や食事の内容は嫌がらせではなく、ずっと粥ばかりの生活であった澄蘭への配慮だろう。
時間をかけて少しずつ、小さくちぎった糕を口にしていると、黒の貼裏を身につけた宦官たちが部屋に入ってきた。彼らも、皇帝の内廷の懐刀たる、影廠の一員だろう。柿渋の衣を纏った老年の女官が一人、彼らの後ろに続いている。
黙って茶碗を茶托に戻す澄蘭に、影廠の一団は着いてくるようにとだけ、端的に告げる。
ついにその時が来たのだと、澄蘭は両の拳を握り締めて立ち上がった。




