三十七、追っ手
うっすらと目を開けると、もう陽が射していた。
あ・・もう朝なんだ。
けれども城田さんは横にいなかった。
え・・もしかして・・逃げちゃったとか・・?
まさかね・・
「水樹さん、目が覚めましたか」
そこで城田さんが部屋に入ってきた。
「あ・・おはようございます」
私は布団から起き上がった。
「おはよう」
「どこへ行ってたんですか」
「手水ですよ」
「あ・・そうでしたか」
「僕が逃げたとでも思いましたか」
私は「まさか」と言ったが、図星を突かれて恥ずかしくなった。
「さて、もうすぐ朝食ですよ」
「あ、そうなんですね」
私が布団を畳もうとしたら、そこに女将が入ってきた。
「それは私どもの仕事ですよ。奥さんは顔でも洗ってください」
「お・・奥さんって・・」
私は思わずそう言った。
「あれ?奥さんじゃないんですか。てっきり新婚さんだと思いましたよ」
「しっ・・新婚・・」
私はその言葉で固まってしまった。
「あはは、水樹さん、ほら顔を洗ってきなさい」
私は城田さんにそう言われ、手洗いに行った。
はあ~~・・朝から刺激的だわ。
でも・・奥さんっていい響きだな。
新婚さんって・・女将さんったら、わざと?
私はそんなことを考え、口元が緩むのだった。
部屋に戻ると、女将が食事を運んでいた。
「お膳、もう一つ運びますから、待っててください」
部屋を出て行こうとした女将の後を、私も着いて行った。
「え?奥さん、どうかしましたか」
「私が運びます」
「なに言ってるんですか。お客さんにそんなことをさせられませんよ」
「いいんですよ。これでも私・・」
と言いかけて、水連亭の名前を出しそうになったが、寸でのところでとどまった。
「なんですか」
女将は続きを言わない私を不思議そうに見た。
「なんでもありません。とにかく、私が運びますので」
私はニコッと笑った。
「変わったお客さんだこと。そんなに仰るんなら運んでもらいましょうかね」
そして私は調理場へ行った。
そこには旦那と思しき男性が、料理を盛りつけていた。
「えっ・・」
旦那はお客の私を見て驚いていた。
「どうも、おはようございます」
「ああ・・はい、おはようございます」
「あんた、このお客さん、膳を運ぶって言って」
女将が言いにくそうに言った。
「え・・そうなのかい」
「それで、ここへお連れしたんだよ」
「お客さん、部屋でゆっくりしておくんなさい」
旦那が私に言った。
「いいえ、いいんです。じっとしててもなんだし」
「お連れがいらっしゃるんでしょう。一人にしておいていいんですかい」
「ええ・・まあ」
「わかりました。じゃ、この膳、運んでください」
旦那は私に膳を渡した。
「うわあ~美味しそうですね」
膳には煮物、焼き魚、ほうれん草のお浸し、漬物、みそ汁が乗っていた。
「ご飯は後で持って行きますからね」
女将がそう言った。
「はい、お願いします」
そして私は膳を持って二階へ運んだ。
「お待たせしました~」
私は給仕の真似をしてそう言った。
「あはは。水樹さん、さすがに慣れたものですね」
「あはは、そうですか」
私は膳を置いて座った。
「ご飯は女将さんが運んでくれるそうですよ」
「そうですか」
そこで城田さんは、私をじっと見つめた。
「どうしたんですか」
「いえ、水樹さんが元気になってよかったと思ってね」
「・・・」
「緊張も解れたようで安心しました」
「それは・・城田さんが一緒にいてくださるからです」
「ほんとですか」
城田さんは子供のような表情で、私を疑いの目で見た。
「ほんとですってば」
「どうなんでしょうね~」
「あ・・あの・・」
振り向くと女将が部屋の入り口で固まっていた。
「あ・・すみません。ありがとうございます」
私は立ち上がってお櫃を受け取った。
「ご飯をよそうのも・・お任せしていいですかね」
女将は私たちに気を使った。
「あ、はい」
「それじゃ、ごゆっくり」
そう言って女将は障子を閉めた。
「女将さん、固まっていましたね」
城田さんが言った。
「そうですね」
私は城田さんの茶碗にご飯をよそった。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
城田さんは嬉しそうに茶碗を受け取った。
「これからどこへ行きますか」
城田さんはポツリと呟いた。
その言葉を聞いて、私は現実に引き戻された気がした。
「城田さんにお任せします」
「そうですか。ここはよい旅館ですし、もう一泊しますか」
「はい、そうしましょう」
そして私たちは、女将にもう一泊することを告げた。
その足で横浜港を散歩して、時間を過ごした。
時々すれ違う外国人に、城田さんは流暢な英語で話しかけていた。
その姿は、まるで映画に出てくる俳優のようで、私はうっとり見惚れていた。
この頃になると、私はもう現代のことなどすっかり忘れていたのだった。
夕暮れの時間なにり、旅館へ戻ると、女将が少し焦ったように話しかけてきた。
「お客さん・・もしかして城田の若旦那ですか・・」
女将は城田さんに訊ねた。
「いえ、違いますよ」
城田さんはあっさりと、そう答えた。
私はとても嫌な予感がした。
「そうですか・・」
「なにかあったのですか」
「いえ・・お昼過ぎでしたか、ここに男の人が訪ねて来まして、若旦那が来てませんか、と」
「そうですか」
「それで・・奥さんのことも訊ねてましてね・・」
「えっ・・」
私は驚いてそう言った。
「なんて言ってたんですか・・」
私が訊いた。
「水樹さんもいませんかって」
誰だろう・・
っていうか・・もう居場所がバレてる・・
「それって、どんな男性でしたか・・」
「うーん、中年でしたねぇ」
心当たりがあるといえばあるし、ないといえばないし・・
というか・・絞れない・・
「女将さん」
城田さんがそう言った。
「はい」
「今夜も泊まるつもりでしたが、これで発ちます」
「えっ・・もう夜になりますよ」
「いえ、構いません。勘定をお願いします」
そして私たちは慌てて旅館を後にした。




