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最終話 身代わり女と偽り男

「ねえお母様!お父様が昔、自分はヴァンパイアだと嘘を吐いていて、そのせいでお母様がこのお城に来ることになったって、本当?」


 頬を紅潮させ、大きな瞳を爛々と輝かせ、息を切らして『彼女』は執務室に飛び込んで来た。

 その非常に興奮しきった様子と、一気に捲し立てられた台詞の内容に少し驚いて、私は駆け寄って来た彼女の頭を撫でながら尋ねる。


「どうしてそんなことを?」

「この本に書いてあったのよ。これ、お父様とお母様がモデルでしょう」


 どさり、と彼女が机に置いた蔵書は、数年前に出版され、今も尚ロングヒット作として増刷が続いている恋愛小説。

 私はその紅い表紙を指先でなぞりながら、さらに別のことで驚いてしまった。


「リオ、貴女もうこんな分厚くて難しい本が読めるの?」

「やだあお母様、私もう七歳よ。ヴェインの書いたものはほとんど読んじゃったわ。中でも特にこれが気に入ったの!」


 自慢の美しい黒髪を指先でくるくると弄びながら、私とディアスの可愛い娘――リオはませた微笑みを浮かべる。

 もう七歳、か……まだ七歳、だと思うんだけど。私が七歳の頃、こんな大人でも持ち運びがしんどいような重さの本、読めなかったし、読もうという気も起こさなかったけど。


 お城に子どもが少ないせいもあって、彼女は少々――いや、かなり、こまっしゃくれた娘に育ってしまっている。

 オーガ族を筆頭に色っぽい魔族のお姉さん達が集まっている環境のため、女性としての魅了を向上させる研究に余念がない。

 正直『どうしてこうなった』という思いがない訳ではないけれど、コミュニケーション能力がとても高く、人の懐に入り込むのが上手いのは彼女の大きな武器だ。


「――その本の内容は一応虚構フィクションなんだが、俺が自分を純血のヴァンパイアだと偽っていたのは本当だ」


 仕事に一区切りついたらしいディアスが声を掛けたので、リオはぱあっと明るい表情になり、彼のもとに駆け寄ってその膝の上にぴょんと飛び乗った。こういうところは年相応の子どもらしくて可愛いんだけどね。


「大勢の人達に迷惑を掛けた。だが、そのお陰でお母様と一緒になれたんだよ」


 ディアスがリオの前髪を手で掻き上げ、その額にキスを落とす。リオは嬉しそうに目を細めてそれを受け、そのままゴロゴロと猫のようにディアスの胸元にじゃれた。

 リオがディアスの膝に乗る時は大抵、このやり取りが行われる。私の大好きな光景だ。


「リオ様のお母様は、私の妻の身代わりでここにいらしたのですよ」

「マディの!?」


 ディアスにしがみつきながら、声のした扉のほうにリオが思い切り振り向く。

 レオンはちょうど、休憩のための紅茶やお菓子をワゴンでここに運んで来てくれたところだった。甘い香りがほんのりと執務室に漂い、親子三人とも、自然と口元が緩む。


 レオンは一昨年マディと結婚し、その年に可愛い男の子の父親となった。結婚と出産が同じ年だったのは、つまりまあ、そういうことだ。

 決して実ることのなかったディアスへの思慕は、マディの猛烈なアタックによって見事に消されたらしい。今ではすっかりおしどり夫婦なのだから、人生って本当に何があるか分からない。


「ああ、じゃあ『ミリカ』のモデルがマディなのね!」


 ディアスから離した手をぱちんと胸の前で合わせ、リオが高い声をさらに上擦らせる。

 実は、自分のことがかなり赤裸々に書いてあると思うと恥ずかしくて、私はヴェインの著書が読めていないのだけれど、どうやらマディらしき人物の描写もあるみたいね。


「あら?だけど、『ミリカ』と執事『ケイン』のエピソードは特になかったわ……」

「その本が世に出た時はまだ、私と妻は特別な関係ではありませんでしたから」


 熱々の紅茶をカップに注ぎながら、レオンがややはにかみ気味に答える。

 その瞬間、リオの瞳がきらーんと怪しく光った。それは、何かとんでもないことを思いついた時の印だ。


「じゃあ、ヴェインに新作として書いてもらうわ!ライアンが生まれるところまで全部書いてもらうの!」

「おいおい、ちょっと落ち着きなさいリオ」


 膝から飛び降りて今にも駆け出さんとするリオを、ディアスが後ろからひょいと抱き上げて戻す。

えー、と少し残念そうな顔を作るリオを、私が「ちょうど一息入れるところなのよ。一緒にお菓子をいただきましょう」と諭すと、彼女はこくりと頷いて自分の前にお皿がサーブされるのを待った。こういう素直なところも彼女の美点だ。


「――ねえ、お父様」


 マディお手製の、木の実がたっぷり入ったクッキーを幾つか頬張ったところで、ふとリオがディアスの顔を見上げて訊いた。


「私には、十六分の一しかヴァンパイアの血は入っていないはずよね?」


 突拍子もない質問に、ディアスは微かに目を見開いて驚いたものの、すぐさま優しく「ああ、そうだよ」と答える。するとリオはクッキーを摘まむ手を止め、ひどく神妙な面持ちになった。気になった私は、ティーカップから静かに唇を離して彼女の様子を窺う。


「それじゃ、前に教えてもらった『先祖返り』ってやつなのかしら」


 続けてリオが口にしたその特殊な単語は、身内しかいないはずの執務室に一気に妙な緊張を走らせた。

 この世界で言う『先祖返り』とは、ヒウムなどとの混血によって弱体化した魔族の子孫が、ごく稀にその本来の力を取り戻すことを指す。生まれながらの場合もあるし、成長するにつれて覚醒する場合もあるらしいけれど、とにかく――適当に地面を掘っていたら鉱脈を掘り当てた、というのと同じくらいレアなケースのはずだ。


「……誰かの血を吸いたいと思うことがあるのか?」


 クッキーを喉に詰まらせかけて咳き込んだディアスが、紅茶をお代わりしてどうにか落ち着きかけたところで、慎重に尋ねる。

 すると彼の膝の上で、リオは小さく首を横に振った。


「ううん、血を吸いたくなるまではいかないんだけど――噛みつきたいと思ったことがあるの」


 その予想外の告白に、私、ディアス、レオンの三人は揃って顔を見合わせた。


 何だかヴァンパイアというよりは、獣系の別種族の習性に近いような。

 とは言え、私の知る限りでは、分かりやすいところでウェアウルフにすらそんな衝動はない。


 まさか、私の遺伝なの!?

 心当たりはないのだけれど、消去法でいくとその可能性が高いことに気付いた私は、内心頭を抱える。何かその、性癖的なものなのかしら……。


「それは、相手は特定の人なのでしょうか?」

「うん。この前の私の誕生パーティーに、顔より大きな花束を持って来てくれた男の人よ」


 レオンの問いかけに答えながら、リオは再びお皿に盛られたクッキーに手を伸ばした。そしてそれを口元に運ぶ前に、天井を見上げて何か思い出すような素振りを見せる。


「確か――公爵様、って呼ばれてたかしら?」

「リオ~~、じいじとばあばが来ましたよ~~」

「あ!お爺様達!」


 目を丸くする私達をよそに、リオは廊下から聞こえてきたお義父様の声に引き寄せられて、ディアスの膝からいそいそと降りると、入って来た時と同じような勢いで執務室を飛び出して行った。そんな彼女の後を、「予定より随分お早いお着きですね」とレオンが慌てて追いかける。


 そうして部屋には、私とディアスの二人だけが取り残された。


「……どう思う?」

「公爵様のことなら、放っておいても大丈夫じゃないですか?」

「だな」


 彼と視線を合わせ、くすくすと笑い合う。

 これはあくまで憶測だけれど、リオは恐らく、オーギュスト公に『キスマークを付けたい』ような衝動に駆られたのだ。しかし幼い彼女はまだその手段を知らない。そこで自然と出てきた表現が『噛みつきたい』だったのだろう。

 おませな彼女がもう『芽吹いた』ことに親として少し複雑な心境になりながらも、私達はひとまず動向を見守ることにした。いずれ本当に、彼女をオーギュスト公の元へ送り出す日がやって来るかも知れない。


「ところで――ここが、急に寂しくなったんだが?」


 ディアスがちょいちょいと自分の膝を指差してこちらを見つめてきたので、私は徐に椅子から立ち上がり、幸せな気持ちに満たされながら彼の傍へと足を進めた。

 ついでに、今日初めて『一度きちんと読んでみようかな』という気にさせられた、紅い表紙の本を手に取って。


 布地に金糸で縫い付けられているその本のタイトルは――皆様の、ご想像の通りだ。

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