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第60話 今宵はとうとう、前夜祭です

 いい感じに、ほろ酔い気分だった。今の私は少し足元がふわふわしている。

 ホール中のカーテンと、バルコニーへ続く扉は全て開け放たれていて、そこから差し込む赤みがかった月の光が気分をより一層高揚させた。


 今夜は、結婚式を明日に控えてのささやかな宴。


 あまりアルコールを入れると顔がむくんだりしてしまいそうだから、本当は前日のお酒はなるべく控えたかったのだけれど。もう宴が始まる前から出来上がっていたんじゃ?というくらいテンションの高いドーラさん達に、「明日の朝、施術でどうとでもしてあげるから」と結構飲まされてしまった。


 まあ、ここにはコンディションの悪い花嫁を小馬鹿にするような人達はいないだろう。そこは元いた世界と違って気が楽だ。それならば勧められるお酒を断るのは申し訳ない。私のグラスが長い間空になることはほとんどなかった。


「城内の者だけで慎ましやかに、と思っていたのに――なかなかのどんちゃん騒ぎになってしまいましたわね」

「この何十年かで一番めでたい日の前日だ、無理もないさ」


 そう言って私達の元にグラスを合わせに来たのは、ヴァネッサさんエルクさん夫妻だ。

 いつもと違うドレッシーな装いが新鮮な二人は、こうして見ると本当に良くお似合いの仲睦まじいご夫婦だと思う。赤ちゃん、今から楽しみだな。


「ヴァネッサ、今日は飲めなくて残念だったな」


 伯爵がヴァネッサさんのグラスの中のベリージュースに一瞥をくれながら言った。

 この世界でも『お酒が胎児の発育に良くない』というのは一般常識のようで、特に魔族は魔力のコントロールが出来ない子に育つといういわれがあるそうだ。

 大事な時期の奥さんに気を遣ってか、エルクさんのグラスの中身も同じベリージュースのようだった。


「ふふ、本当はほっとしていらっしゃるのではなくて?」


 ヴァネッサさんが首を傾け、伯爵の瞳を覗き込むようにして微笑する。すると伯爵はあからさまに彼女から目を逸らすような素振りを見せ――その後すぐに視線を合わせて、二人で愉しそうに笑い合っていた。


うん?今のやり取り、どういう意味だろう?と私はその時思ったのだけれど、


「げ、あいつ潰れてるぞ!明日の本番に影響を出さない程度にと言ったのに、しょうがない奴だな」


 疑問の答えが分かる前に、エルクさんがそう言って後頭部をボリボリ掻いたので、私達の興味は一瞬にしてそちらに移ってしまった。


 彼の視線の先を辿ると、そこには壁際にへたり込んでリュノーさんに心配されている、チェリオさんの姿。リズの婚約も正式に決まったし、今夜は自棄やけ酒といったところだろう。

 無理からぬことのような気もするけれど、明日はゲストのためにまた厨房で腕を振るってもらわなくてはならないし、今夜は早めに休んでもらったほうが良さそうだ。


「あらまあ……それでは御二方、また後程」


 エルクさんとヴァネッサさんはぺこりと会釈をすると、宴もたけなわの人波をすり抜け、足早にチェリオさんの所へ向かって行った。特に打ち合わせた訳ではないけれど、介抱するつもりなのだろう、揃って近くのテーブルにグラスを置いて。


 私はそんな息ぴったりの二人の後ろ姿を眺めながら、先程浮かんだ疑問を率直に伯爵にぶつけてみた。


「ヴァネッサさんが飲めないと、ほっとするんですか?」


 忌憚のない私の問いかけに、伯爵が「いや……」と少しだけたじろぐ。


「まあ、今日明日ぐらいは無礼講で構わないんだがな。あいつが本気になれば、樽を一人で軽く三個は空けるぞ」


 苦笑いを零す彼の言葉に、私は驚いて目を見開き、チェリオさんを両脇から抱えて支えるオーガ夫妻を改めて見つめた。

 私達メイドを取りまとめながら、魔王を凌ぐ力を持つ、酒豪のヴァネッサさんと、その彼女を包み込む度量のあるエルクさん。

 何だか底知れないものを秘めた夫婦だ。


「あの、エルクさんも、いい旦那さんですね。ヴァネッサさんが飲めないから、御自分もお酒を控えて……」

「いや、エルクは下戸なんだ」

「……」


 私と伯爵はそこで顔を見合わせ、ぷっと噴き出した。

 何がそんなに可笑しかったのか分からないけれど、お酒が入っているせいか、顔の緩みが止まらない。

 そこここで賑やかな声が上がっているから目立たなかったけれど、私達は目尻に涙が滲むくらい、ひとしきり笑い合った。


 その笑い上戸と化した私達が、段々と落ち着いてきた頃。


 ちょうどホールもまったりと和やかな雰囲気になりつつあり、そろそろお開きにしてもいいかなという流れが出来始めていた。


「少し、風に当たるか」


 伯爵がそう囁いたので、私達は手を繋いでホールをそっと抜け出し、隣のバルコニーへと場所を移した。

 『主賓がいない』と騒ぎになったらすぐに戻ればいい。お城のパーティーの片隅で、好きな人と二人きりになるなんて、御伽噺のヒロインになったみたいで胸が高鳴る。


 この世界には、四季のようなはっきりとした季節の移ろいがない。だから夜風は今日もいつもと同じ冷たさなのだけれど、やはりお酒で火照った頬にはひんやりと気持ちが良かった。

 一人だったら少し怖く感じるかもしれない、眼下に広がる真っ黒な森も、伯爵と一緒の今は穏やかな夜の海のように見える。色とりどりの蝙蝠達のお陰で、その暗闇が綺麗だとさえ思えるくらい。


 とろんと夢心地の状態で、伯爵のほうに目を向ける。

 すると、「おいおい、そんなに飲んだのか?」と、確かめるように彼の唇が降りて来る。


 背骨がぐずぐずに融けてしまいそうな、理性失うキスを交わし合っているうちに、伯爵の長い指が、私のドレスの肩紐をずらした。そのままストンと着衣が落ちてしまわぬよう、咄嗟に胸元でドレスを留めるも、伯爵の唇は私のそれを外れて、首筋をどんどん下へと辿って行く。


「駄目ですよ、こんな所で……」


 熱い吐息を漏らしながら、私が抵抗と呼ぶにはあまりにささやかな反応を見せると。


「その通り。駄目ですよ、こんな所で」


 執事さんの声が至近で聞こえ、私と伯爵は揃ってびくんと跳び上がった。

 慌てて声のしたほうを確認すると、密着している私達のすぐ隣に、まるで影のようにぴたりとくっ付いている執事さんの姿が。


「――ディアス様」

「な……んだ、レオン」

「こんな所でいちゃついてはなりません。続きがなさりたければ、宴を閉めますのでお申し付けください。それから今夜は、明日のミオさんのドレスで隠れない部分に、痕を付けるのはくれぐれもお控えください。それから――」


 くどくどとお説教を始める執事さんに、これは様子がおかしいと思ってよく彼を観察してみると、何と眼ががっつり据わっている。おまけに全身から立ち上る、かぐわしいワインの匂い。どうも、相当呑んだみたいだ。


 まさか、こんな絡み上戸だったとは!


 私と伯爵は、とりあえずハイハイと、執事さんの有り難い御講釈にしばし耳を傾けていたのだけれど。

終いには、「ディアス様ぁ、本当におめでとうございますうううぅ」と美しい顔を台無しにして泣き始めたので、私達はほとほと困ってしまい――バルコニーでの異変に気付いたヨオトおじさんが駆けつけてくれた頃には、幸か不幸か、酔いはすっかり醒めてしまっていたのだった。


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