第58話 他の誰よりも、この人に
「いよいよですね」
執事さんが微笑みながらそんなことを呟いたので、私は些か驚いて、招待状に封蝋を施す手を止めた。
どういった心境の変化だろうと、その端正な面差しをじっと見つめれば、「何ですか?私の顔に何か付いてます?」と彼が自分の頬に指を滑らせる。そのベタな反応に私は笑った。
リンディール家の姉弟の悲劇から、実に二月が経ち。
レナード様御夫妻から「当家のためにこれ以上婚礼を延ばす必要はない」とのお言葉をいただいて、私達は少しずつ挙式の準備を進めていた。
式と言っても、いわゆる神父様の立ち会いで神に愛を誓うような、形式に則ったものではなく。夫婦になったことを招待客の前で宣誓する、私のいた世界で言うところの『人前式』スタイルで、後は飲めや歌えやの宴にする予定だ。
晩餐会に御出席いただいた皆様を再びお招きしようと、私と執事さんは今、せっせと招待状を作成している。席を外している伯爵が戻って来るまでに終わらせてしまおうということで、私と執事さんは『迅速かつ丁寧な作業』を競い合っているところだった。
「いえ、以前からは想像もつかないくらい好意的になってくださったなと思って」
嬉しい半面、これまで憎まれ口を叩かれることも多かった執事さんに祝福めいた気持ちを向けられるのは気恥ずかしくて、つい嫌味のような口調になってしまう。
案の定、彼は唇を尖らせて、「そりゃ、ディアス様が幸せになられるんですから、嬉しくない訳がないでしょう」と返して来た。私ったら本当に大人気ない。
「――これでも、ミオさんには感謝しているんですよ」
続けて彼が、今日は雪でも降るのかと思うような台詞を口にしたので、私は思わず窓のほうを見た。あ、カーテンが開いてないんだったわ。
「この城で生まれ育った私にとって、ここがずっと世界の全てでした。生涯ディアス様のお傍で、ウィランバル家の秘密を守っていくものだと――それに不満を感じたことはありませんでしたが、私の人生はそれ以上でも、それ以下でもありませんでした。それが、貴女の登場によって、大きく変わった」
手紙の封をする手を休めないながらも、彼の瞳はその手元よりもっとずっと遠くを見ている。だから私は「どういう風の吹き回し?」という言葉を飲み込んで、作業を進めながら彼の話に耳を傾けた。この人のほうから自分のことを話すなんて、滅多にないことだから。
「今や、私と同じ『ヒウムの男性』が、二人もここで働いているんです!純血のヒウムなど、『生贄』以外で関わることは一生ないと思っていたのに」
執事さんの唇の端が柔らかく持ち上がる。ヨオトおじさん、ヴェインさんとの交流は、彼に良い影響をもたらしているようだった。特にヨオトおじさんのことは『一般的な感覚を持った大人』として、まるで父親のように慕っているみたい。まさか数年後に本当に義理の親子になるなんて、この時は思ってもみなかったけれど。
「……楽しい、ですか?」
何とはなしに、そんな言葉が口をついて出た。
繰り返し封筒に垂らしている黄金色の蝋から、蜂蜜のような甘い香りが漂っては霧散する。
私が紅夜城に来たのは、偶然に偶然が重なっただけのことで、執事さんのために動いた訳ではないから、感謝されるようなことは何もしていないのだけれど。
ただ、その積み重なった偶然によって彼が充足感を得られているのなら、それは単純に私も嬉しいから。
「ええ、お陰様で毎日楽しいですよ」
そう返してくれた執事さんの表情は、この上なく穏やかだった。私がお城に来たばかりの頃は、決して良好な関係とは言えずギスギスしていたのに、今ではこんなに優しい時間を共有することが出来る。
伯爵との婚約を、私がこの先もここで暮らして行くことを、誰よりもこの人に認めて欲しかったのだと、改めて思った。「なら、良かった」と微笑み返しながら、私は何だか胸がいっぱいになって、ちょっぴり涙腺が緩んできそうなのを密かに堪える。
すると、この機会にと思ったのか、「差し出がましいようですが、」と前置きをした上で執事さんが尋ねてきた。
「ミオさんの御家族には、報せなくて良いのですか?」
――真っ向から切り込まれ、正直どきりとした。
実はグレンデル伯がリズの実家を訪ねた一件で、私は勿論、恐らく伯爵の脳裏にも、『親への報告』という文字が過ぎってはいた。
しかし私の場合は物理的にどうにもならないと思ったし、私が全然家族の話をしないのを伯爵も気付いていたようだったから、私達の間にその話題が上ることはなかったのだ。
「オーギュスト公の御力を以てすれば、再び貴女のいらした世界とゲートを繋ぐことが可能ではないかと思うのですが」
その『物理的な問題』の解決策を、いきなりズバッと提案してくる執事さん。
確かに、『私がどうやってこの世界に飛ばされてきたか』が判明した今、それは現実的な手段ではあるのだけれど。
「その……自分の実家のことを全く考えなかった訳じゃないんですが、」
垂らした蝋の上からウィランバル家の印を押しつつ、私はごにょごにょと言い訳めいた返事をし始めた。
「そもそも元いた世界で、自分の存在ってどうなっているのかなあと。行方不明ということになっているのであれば、職場から何からちょっとした騒ぎになっているでしょうし、その状態で再び顔なんか出そうものなら、大変なことになりそうですし」
色々と雑念が入ったせいか、綺麗な封蝋を施すのに失敗してしまい、私はその一通を机の端に除けた。もうミスは出したくないけれど、また手元が狂うことがないとも限らないし、全てが終わってから最後に処分すればいいと思ったのだ。
すると蝋が固まるなり、執事さんがそれを「これは私の分ということで」と、自分の胸ポケットに仕舞い込んだ。まるで、この話題を振って動揺させたのは自分だから、責任を取るとでも言わんばかりに。
執事さんには綺麗な招待状を貰って欲しいのにな……と思ったけれど、それで彼の気が済むのならと、取り返すのは止めにした。
しかし何と、「その点は心配無用だよ」という、少年のような第三者の声と共に――彼のポケットからするりとその失敗作が抜き取られたのだ。
私と執事さんはぽかんと口を開けて、抜き取られた招待状を目で追った。
すると辿らせた視線のその先で、あの晩餐会の日と同じ『器』に入ったオーギュスト公が、手にした封筒をひらひらさせて「やあ」と微笑んだのだった。




