第29話 誰よりも認めて欲しい人
「……こんなところにいらしたんですね」
執事さんにすぐ追いつけなかった私が、彼がいそうな場所を散々探し回ってようやく見つけたのは、執務室からさほど離れていないバルコニーの一角だった。
あんな勢いで部屋を出て行ったものだから、てっきりもっと距離を稼いでいるかと思っていた。もう少しで、長い長い階段を下りて中庭や裏庭まで行くところだったから、すれ違ったスタッフさんの目撃情報提供に感謝しなくてはならない。
執事さんは、銀色の長い髪を風にたなびかせながら、険しい表情で眼下に広がる黒い森を見つめていた。こうしていつもと違うシチュエーションで見てみると、何て絵になる人なのだろう。ヒウムだということを忘れてしまう神秘的な美しさに、私はしばし声を掛けるのを忘れてその場に立ち尽くした。
「――何をしにいらしたんですか」
先に口を開いたのは、彼のほうだった。こちらに向けられた視線は、敵意こそないものの決して歓迎の色を帯びてはおらず、鋭い。
「謝ることだけは、止してください。貴女は何も悪くない」
そう先回りされて、私は確かに最初、彼に謝ろうとしていたのだと気付いた。
本当の想い人は誰かという、秘めていた話を聞いてしまったことに対してか、彼が長年想い続けていた人を横から掻っ攫うことになる今後に対してか、厳密には自分でもよく分からないのだけれど、とにかく。
そしてそれは、彼のきつく引き結ばれた唇を見て、上からの態度に当たる行為かも知れないと察した。『貴女は悪くない』というのは、私が傷付かないようにではなく、自分が傷付かないように紡がれた言葉。謝られることで相手の優位性に傷付けられるから、牽制したのだ。
「宣戦布告なら、いいですよね?」
今は何を言ってもこちらの自己満足にしかならない――そう考えた私は、趣向を変えることにした。
「ディアス様は、私が頂きます」
胸に手を当て、選手宣誓のようにきっぱりと言い放つ。
その瞬間、執事さんの中で張り詰めていた何かがしゅるしゅると萎んで行く様子が、傍目に見て取れた。
「……初めから勝負になっちゃいませんよ」
眉間に軽く皺を寄せて、執事さんが気だるげに腕を組む。
「レオンさんは、そもそも勝負なんかしてないじゃないですか」
彼が気持ちを曝け出さずに逃げる予感がしたので、私はここぞとばかりに喰らいついた。
「貴方がディアス様に気持ちを伝えたら、ディアス様は貴方のほうを向くかもしれないわ」
本当にそうなったら辛いけど。
可能性としては充分考えられることなので、つい語尾のほうが弱気になる。
すると、少々戸惑ったような表情に変わった執事さんが、珍しいものでも見るように私をじろじろと眺めた後、こんなことを言いやがった。
「……私は男ですよ?」
「!?」
頓珍漢な台詞に、くらりと立ち眩みがする。
「何言ってるんですか!男の貴方が男のディアス様を好きなんだから、その逆は絶対ないっていう道理はないでしょう」
言い負かそうという肚はなかったのだけれど、頭に血が上って、我知らず語気が強くなった。しかしそれで腑に落ちたのか、執事さんが「ああ……」と一つ小さく頷く。
「つくづく貴女は変わった人ですね。てっきり、軽蔑されるかと」
そう零した彼の微笑みは、何とも言えない苦み混じりで。
今までこの人は、同性を好きになった自分自身のことを軽蔑して生きてきたのだろうか――そう思ったら、胸の奥がちくりと痛んだ。
「私のいた世界でも、偏見を持つ人がいなかった訳じゃないですけど、そんなに珍しいことでもありませんでしたよ」
言いながら、少しずつ執事さんのほうへと足を進める。
「だから男とか女とか関係なしに、貴方を対等な恋敵だと思った上で、勝利宣言します」
手を伸ばせば届く距離まで近づき、下から彼を堂々と見上げると。
「お気遣いは大変有り難いですが、私は今後も勝負の舞台に上がるつもりはありませんよ。万が一受け入れられても困りますから」
彼のほうがふいっと視線を逸らした。
「……困るんですか?」
「私は確かにディアス様をお慕いしておりますし、ディアス様に特定の恋人が出来るのは気分が良いものではありません。ですが、その……」
突如として歯切れが悪くなった彼の、紺碧の瞳が泳ぎ出す。そこで私が無言の圧力をかけると、やがて彼は観念したかのように溜め息を吐き、組んでいた腕を解いてバルコニーの手摺に手を掛けた。
そして。
「肉体関係を持ちたい、という思いはないのです」
伏し目がちに続けた彼の横顔からは、こんなデリケートな話を打ち明ける羽目になろうとは、という思いが駄々漏れている。言わせたのは私です済みません、と心の中で唱えながら、私はそこを掘り下げた。
「抱きたいとか、抱かれたいとか、本当にないんですか」
「抱くなら、女性のほうがいいです」
「待って!女性を抱いたことあるんですか!?」
「そりゃあこの歳ですからありますよ」
何が『そりゃあ』なのよ……。
新しく得た情報の複雑さに混乱しそうになったけれど、ふとここが特殊なお城であることを思い出し、善からぬ想像を頭の中で組み上げる。
きっとあれね、この人はずっとここで育って来た訳だし、歳上のお姉様達が可愛がって色々教えたりしたんでしょうね……。身体と心は別、っていうこともあるだろうし。
「じゃあ、男性が好きで、その中でディアス様が一番って訳じゃなくて、他人をトータルで見た時にディアス様が一番、っていうことですか」
「まあ、そういうことなのでしょうね」
切なげに答えた彼の周りを、二匹の紫色の蝙蝠が舞い、離れて行く。
「私のものにならなくていいから、誰かのものにならないで欲しいんです」
「……拗らせてますね」
「自覚はあります」
「私は、ディアス様が誰かのものになるのは嫌だし、自分のものにしたいし、抱かれたいです」
「でしょうね」
最後の返しがあまりに無機質な口調だったので、下心を咎められたような気になった私はじろりと執事さんを睨む。すると彼はくすりと笑い、手摺に体重を預けるようにして私を穏やかに諭した。
「もう少し自信をお持ちなさい。言葉にされないからと、仕事に支障が出るほど思い詰めていないで」
……バレてる。
私は「はい」と縮こまりながら答えつつ、いずれは彼が自分のことを認めてくれそうだという予感に、少しほっとしていた。これまでずっと、何をやっても好感度が下がっていくような気がしていたから。
結局この日に執事さんから引き出せたのは、「ノイエッタ様よりはまし」というやや後ろ向きな台詞が限界だったけれど――それでも、この先長い付き合いになるだろう彼との間にあった蟠りが、ほんの少しでも解けたことに、私は心の底から喜べたのだった。




