第28話 執事レオンのさらなる秘密
確かに、キスはした。濃厚な、大人の、色っぽいやつを。
だけど、将来の約束があった訳でもなければ、伯爵のほうからの愛の告白も一切なかった。
ちょっと待って……これ、『都合のいい女』ルートに片足突っ込んでない!?
このままだと、進展の可能性があるのは身体の関係だけかも知れない。だって、相思相愛の確証なんて何一つ得られていない。私が彼に好きだと言っただけ。そして、それを理解してもらっただけ。
特にそれ以上の動きが何もないまま、一週間が過ぎた。
時に私が伯爵を熱っぽい眼で見つめても、気付かない振りをされるようなことはなくなったのだけれど、かと言って向こうから何か特別に好意的な接触がある訳でもなく。
日課の背中流しでも、あの日以来、甘いムードに突入することはなかった。こちらから積極的に攻めてもいいのかも知れないけど、それを繰り返せばいずれ一方通行の虚しさに襲われることになりそうで、大胆な行動に出るのはどうも気が引けてしまうのだった。
「いよいよ大詰めですわね」
ヴァネッサさんがとんとんと書類を机で揃える音で、はっと我に返る。
伯爵がリュノーさん達お針子組のところへ衣装合わせに行っている間、執事さんとヴァネッサさんと私の三人は、執務室で招待客の出欠席などの最終チェックをしていた。
重要な部分は二人にお任せして、私は以前開いた晩餐会の資料を参照させてもらっているのだけれど。まだ魔族の使う文字が完璧に読めないのと、脳が別のことでいっぱいなのとで、ろくに情報が頭に入って来なかった。
これじゃ駄目だと何度も自分の頬を抓るものの、痛みで神経が活性化してくれることもなく。救いというか本当に有り難かったのは、そんな私のおかしい様子に気付いてか、ヴァネッサさんと執事さんが、特に何も言わずに放っておいてくれたことだった。
「ゲストを見直して欲しいと言われた時は、どうなることかと思いましたけどね」
執事さんがやれやれといった表情で、眺めていた招待客リストを指の背で弾く。
下手にウィランバル家に手を出すと、オーギュスト公――魔王様が黙っちゃいないということを、今一度魔族に広く知らしめようという古参スタッフ達の申し出は、案外すんなり受け入れられたのだけれど。
招待状の追加、その返信によるゲストルームの準備の追加、食材の変更など、ボリュームの割に急ピッチで進めなければならない作業が増えていた。
だからこの二日ほど、スタッフ達は睡眠時間をかなり削っている。執事さんに至っては恐らくほとんど寝ていないだろう。
「ねえ、優秀な執事さん」
お城の見取り図を使ってゲストルームの割り当てをしていたヴァネッサさんが、不意に顔を上げる。
「何やら含みのある言い方ですね」
執事さんが怪訝そうな顔で彼女のことを見つめると、
「ここまで来たんですもの、いいわよね?ディアス様を、ミオさんに譲っても」
彼女はそう言って、組んだ両手指の上に顎を乗せた。
執事とメイド長、どちらの肩書きが上とかいう一般的な話は、この二人には関係がない気がする。割と言いたいことを言い合うし、年の功なのか、ヴァネッサさんのほうが強気に出ることも多い。
もし二人が付き合っていたら、執事さんは間違いなく尻に敷かれていただろうな――そんな個人的な空想は、続けて繰り広げられた二人のやり取りに、跡形もなく霧散した。
「……ディアス様は物ではありません。第一、何ですか?『譲る』とは」
「あらだって、貴方、ずっとディアス様のことが好きだったでしょう」
その時のヴァネッサさんの口調は、決して冗談めいたものではなかった。お陰で、どことなくぼんやりとしていた私の意識が急に研ぎ澄まされる。
レオンさんが、ディアス様を、好き?
ヴァネッサさんではなくて?
『譲る』というのはてっきり、『伯爵に接する人物として一番近しい立ち位置を』という、ごく単純な意味だとばかり。
「独り身の娘を代わりにすると縁談にされてしまうから、既婚者の私に惚れているふりをして、何も言われないようにして来たのよね」
全てを見透かすような彼女の視線が、執事さんただ一人に真っ向から注がれている。
責めている訳ではないけれど、褒められたやり方だとも思っていないのが、その言い回しから窺えた。これまで思うところはあっても、本人に言う機会がなかなかなかったのだろう。
「完全には割り切れないでしょうけど、貴方に祝福してもらえなければ、ディアス様もミオさんも辛いと思うわ」
「――一体何の話だか、訳が分かりませんね」
そう言ってくるりと私達に背を向けた執事さんの表情は見えない。ただ、半ば吐き捨てるようだったその台詞は、明らかにこれ以上触れてくれるなという、刺々(とげとげ)しい冷たさを含んでいて。
「他の仕事を片付けて来ます」
彼は続けてそう言い放つと、こちらには一瞥もくれずに、些か乱暴な足音を立てて執務室を出て行ってしまった。少し荒っぽかったかしらね、と、ヴァネッサさんが小さな溜め息を吐く。
「賢い子ですから、どの道が最善かは分かっていると思いますわ。ただ、ミオさんに少し冷たく当たってしまうのは、そういうことだったんです」
まるで執事さんの保護者であるかのような彼女の口振りに、伯爵が偽りの恋を易々と信じた理由が、何となく分かったような気がした。出生と同時にお母さんを亡くしている執事さんだから、歳上の、甘えさせてくれる女を好きになるのも当然だと考えたのだろう。実際、私だってそうだ。
「あの、少し席を外してもいいですか?」
私は読みかけの資料を本棚に仕舞うと、姿勢を正してヴァネッサさんにお願いした。
聞いてしまった以上、この後何事もなかったかのように執事さんに接することは無理だと思った。腹の中に溜め込んでいることを、それが私への恨みつらみであろうと、遠慮なくぶち撒けて欲しい。そうでなければ、伯爵と一緒になれたとしても、この先ずっと執事さんとの関係がぎこちないままお城で暮らして行かなくてはならなくなる。そんなの、とても耐えられそうにない。
そんな思いを汲み取ってくれてか、「こちらは私にお任せくださいな」とヴァネッサさんが優しく微笑む。
私は身体を真っ二つに折る勢いで深く深くお辞儀をすると、執事さんの後を追うべく、執務室を飛び出した。




