第27話 初めてのキスは、湯気の立つ密室で
私と伯爵の間に訪れた静寂は、時間にして、僅か数秒のことだったと思う。
けれども、自ら死刑判決を取りに行った囚人のような心情だった私には、ずっと長く、その何十倍にも感じられた。
やがて、私が彼の気持ちも考えずに結論を急ぎ過ぎたのかも知れないと後悔し始めた時。
くる、と彼が身体ごとこちらを向いたので、私は驚いて咄嗟に目を逸らした。
裸を見慣れているとは言え、真正面からはさすがにちょっと。いや、相手は好きな男だし、本当なら恥じらうどころか喜んで見たいとこだけど――残念ながら、この雰囲気の中でじろじろ眺められるほど能天気ではなかった。
そして、私が顔を微かに横に向けている、その間。何かが擦れるような音が耳に、柔らかな花の香りがふわりと鼻孔に流れ込んでくる。
え、石鹸?と思ったその瞬間、がし、と手首を掴まれ――何と伯爵が、私の腕をスポンジでわしゃわしゃと磨き始めた。
唖然としているうちに、肩や背中ばかりか、胸や太腿に至るまで、身体中のありとあらゆるところを洗われる。女として触れられる喜びを感じる隙も、心の余裕もなかった。纏め髪も解かれていささか乱暴に頭も洗われ、訳が分からないままお姫様抱っこで浴槽へ連れて行かれる。
ゆっくりと身体が湯舟に沈んだところで、伯爵の裸の太腿の上に自分のお尻が載っていることに気付き、一気に顔に熱が集まってくる。だけど、腰をがっちりとホールドされて、そこから逃げ出すことは叶わず。今までにないほど密着した状態で、私は伯爵と二人きりの時間を過ごすことになった。
自分の心臓の音が、鼓膜のすぐ傍で鳴っているみたいに煩い。心地良いはずのお湯の温度が、実際より何度も高く感じられて、すぐにのぼせてしまいそう。
毎日足を踏み入れているバスルームだけど、こうしてお湯に浸かるのは初めてだった。それもそのはず、ここは本来伯爵専用の設備で、私はただのメイドなのだから。
そんな訳で、私の全身を自ら洗い上げて一緒に湯舟に入った伯爵の意図が、私にはまるで読めないのだった。彼はさっきから何も、一言も発しないし。こんなに傍にいるのに、決して機嫌が良さそうには見えない真顔をキープしたまま、こちらに一瞥をくれようともしない。
程なくして、長い沈黙も、彼にしがみつくような体勢も辛くなって来て、私が身動ぎしようとした時――それを制するように、伯爵がようやく口を開いた。
「……お前は、本当に俺のことが好きなのか」
私にとっては今更過ぎる質問に、その場でひっくり返りそうになる。
「だから何度もそう言っているじゃないですか!」
「いや、好きだと言われたことは一度もないぞ」
極めて冷静な口調で返され、今までのことをふと思い返す。
あれ?なかったかな。
そう言われてみれば、奥さんにして欲しい的なことは数度に亘って訴えてきたけど、愛の告白めいた表現ってしたことなかったかも……?勝手に分かってもらってるような気になっていたけれど。
伯爵が少しむすっとしたような、不貞腐れたような表情になっているのを見て、私は思わず苦笑いを零した。
きちんと言葉にしないと伝わらないこともある。
彼の場合は、言質を取りたいみたいな気持ちもあるんだろうけど、それならそれで私は構わない。
信じてもらえるなら、何度でも言おう。
告白自体、何年振りか分からないくらいで、改めてするとなると些か緊張もするけれど。
「……好きです」
たった四文字のその言葉に、舌が縺れそうになる。
鼓動の速さは倍加したような気がしたし、あれだけ身体を磨いてもらったのに、湯舟の中で汗が滲むような感覚がした。
これでもし受け入れてもらえないとなったら、色々なことが駄目になるし、私、立ち直れるかな――そんなネガティブな発想を無理矢理押し込めて、決死の想いで告白したのに。
瞬きを二回ばかりした伯爵の反応は、どうもいまいちで。
「……取って付けたようだな」
「伯爵が言えって言ったんじゃないですか」
「言えとは言っていない」
「もう、屁理屈ばっかり」
私がじろりと睨んでも、伯爵はしれっとポーカーフェイスを決め込んでいる。
沸騰していた脳が徐々に冷えてきて、理不尽かも知れないけれど、同時に腹が立ってきた。
恐らくはじっくりと私の気持ちを聞き出したくて湯舟に入れたはいいけれど、いざ向き合おうとしたら怖気づいたんだろう。答えを出してしまったら、後戻り出来なくなるから。
これじゃ、言葉にしたところで堂々巡りじゃない。
何度告白したとしても、気持ちが込もってないとか言ってはぐらかされ続けそう。
――それならば、実力行使?
「じゃあもう、何を申し上げても意味がないですね」
私は溜め息を吐きながら、伯爵のほうに向けていた顔をふいっと逸らした。すると、今までわざと私のほうを見ないようにしていた彼が、反応して逆にこちらを向いたので。
顔から火を噴くような恥ずかしさに勝利したのは、大人の女としての意地。
彼の首に回した腕を引き寄せて――私は彼の薄い唇に、自分のそれを押し付けた。
お互いに素っ裸なのに前戯にすらならない、何の技巧もない、ただ、重ねるだけの口付け。
それでもバスルームの中は一瞬時が止まったようになって、立ち上る蒸気と微かな水音だけが私達を包む。
「――これで、伝わりましたか?」
充分な時間を取ってから唇を離すと、濡れたような黒曜の瞳が真っ直ぐに私を見つめてきた。
さすがに効き目があったかなと、手応えを感じたのも束の間。
「……ったく」
伯爵は低い声でそう呟くと、私の後頭部の髪を包み込むように掴んで、咬みつくようなキスを浴びせてきた。最初に仕掛けたのは私のほうだったのに、途端に身体中の血が沸き立って体温が急上昇する。
彼の中の雄を、強く感じた。本当は彼が純血のヴァンパイアで、このまま血を吸われるんじゃないかと思うほど、激しくて官能的なキスだった。呼吸の仕方を忘れるくらいの勢いに戸惑いながらも、振り落とされないように必死で応えていると、途中から熱を持った舌が甘く滑り込んできて、背中の芯をどろどろに溶かされ始めてしまう。
結果としてこの日、私達は、それ以上先に進むことはなかったのだけれど。
後で執事さんに、こんなに長い時間バスルームで何をしていたのだと、二人揃ってお説教を食らう羽目になったのだった。




