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呪歌  作者: 野中
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第三章(5)

「正当に評価するからこそ、ですよ。私が恐れるのは、あの方が」

彼は言葉を切った。

濃紺の瞳が、冷ややかに遠くを見据える。

「あの方の器があまりに大きいからです。彼が、巨大な権力を有するのは、望ましくない。リ・ヒの王は、聖上ただお一人」


「あの人に、玉座を望む野心があると言うの? 縁遠いって、見れば分かるでしょうが」

「ええ。見た限り、あの方の舌は権力を味わうようにできていませんね。口に入れても不味いと吐き出す」

「なら」

「周りはそう見ません。ちなみに、タキ・オーウェルがアナタを手中にしている意味もまた、重要なのです」




太古の名門。その血筋。


いつもそれが足枷になる。




私は歯噛みした。泣きそうだ。

拳を握り締め、必死に堪える。

せめて声は震わせないように努力すれば、氷みたいな口調になった。

「…タキを潰したいから、あれだけの小細工を?」


「ええ、小細工でも打てる限りを。悉く、火種の段階で鎮火されましたけど」

カーターは肩を竦めた。ちっとも残念そうでない。

どころか、遊びに夢中の子供みたいに興奮して言い募る。

「これでも、色々考えたんですよ。簒奪者の太守に反感持つ連中を煽ったり。御伽噺みたいな財宝の噂を流したり。ゴルベの妾を煽ったり。別のところから東府の正統な後継者を引っ張ってきて、内乱の種にしようとしたり。金の亡者ゴルベを操り、側近のゼン殿を亡き者にするついでに、東府が密輸経路を作り上げたって濡れ衣着せようとしたり」

無駄になるのも楽しかったから、それはそれで構いませんが、と鼻歌でも歌い出しそうな表情だ。この男の神経は、生涯理解できそうにない。ゼンの絵の感性と同じものだと割り切って、私は聞き流した。

「小細工の中に、私を拐すことも入っていたのよね。私を人質にして要求するものは何」

カーターは首を傾げる。



「何も?」



「は?」

「アナタには、中央府に来ていただきたいだけです。聖上の隣に並ぶことこそ、高貴な御身に相応しい」

何を言われたか、一瞬理解できなかった。

構わず、カーターは跪く。




「比類なき太古の名門のお血筋にして、祈りの聖者。至高の御方。貴女に永劫の忠誠を」




「立ちなさい」

私は静かに彼の言葉を遮った。

「価値が、血統にしかない女に跪くことはないわ」

「それだけ、ならば他にもいるでしょう?」


「初耳ね」

私は受け流す。

エマが望んでいないなら、彼女の出生に確信を持たせるわけにはいかない。

動じない私に、カーターは見透かした目を向けた。

「自分に自信がないのですか」

「物事によるわ」


「では、もし、太古の名門の血統に、娘の生き残りがいたとして。…彼女と、貴女。二人並んで立って、東の太守に貴女が選ばれる自信はいかほどです」


頑丈さと諦めの悪さなら誰にでも誇れるが、そんな自信はない。

正直に答えるわけにもいかず、返事のタイミングを逸した私に、カーターは薄く笑う。

「なるほど。まだ、付け入る隙はあるということですね」

「アナタは私に選ばれる自信があるというの?」

彼は聞き流し、真摯に言った。



「血統程度で、秀でた者たちが、アナタに膝を折るはずがない。彼らがかわいそうな姫君に、血筋と同情だけで従うと思っているのですか。だとすれば、彼らを莫迦にしている」



彼はゆっくり立ち上がる。

「アナタは努力を惜しまなかった。…それを、先ほど、アナタ自身が口にしたではないですか」

「いつよ」


「太守の業績を讃えた」


いやな言い方だ。

私は見たままに、語ったに過ぎない。

怪物と恐れられる者が負った傷とひたむきさを。

カーターは勝ち誇ったように、鮮やかに笑う。



「これは裏を返せば、あれほどの傑物の隣に六年ずっと並び立ち、支えてきたアナタの業績でもある。資質は十分です。アナタは磨けば磨くほど輝く原石だ。こんな辺境で燻っていい方ではない」



私は、カーターの眼光を真っ向から受け止めた。火花が散る。

室内の置物の位置が気に食わないからと右から左へ動かすような、無遠慮な物言いに、逆に私は冷静になった。

「買い被ってくれてありがたいけど、私は鳥の餌以下の女よ」

「は? …鳥、ですか…?」

カーターは目を白黒させる。

自分で言って落ち込んだが、官吏の余裕を崩せたのは上出来だ。




「中央府の官吏が、無力な女性の誘拐なんて、下衆な真似しないわよね。そんなことしたら、中央府の霊廟訪問しまくって死者たちを叩き起こすわよ」




彼は何かいいかけたが、口から出たのは、嘆息だけだ。

「じゃじゃ馬どころか、暴れ馬ですね…」

「しかもちゃんと計画を立てて動くのよ」

「手に負えないじゃないですか。…はぁ。仕方ありませんね。中央府には専属の教示者がいますが、アナタの無軌道な行動の後始末をできるほどの実力者はいませんから、今回は諦めます。彼ら、それなりに器用なんですがね、肝心なときに役に立たない…」


とたん、床が揺れた。天井が軋み、漆喰がぱらぱら落ちてくる。


地震か、と思ったが、違う。

壁数枚越しに、心身に親しく馴染む気配があった。

私は左の壁を振り仰ぐ。これは。




「…ヴァル?」




幼馴染がいる。同じ屋根の下。

名を呼ぶ声に応じたか、気配が叫ぶように壁を貫き迸る。

おや、とカーターの眉が上がる。

「分かるのですか」


「…ヴァルがいるの?」

「私がこの部屋にやってくる直前、窓から礼儀正しいご訪問を頂きましたよ」

やるわね、と思ったが。

脳が目まぐるしく働く。


ヴァルがきた。

カサネでなく?

その事態が意味するところは。


切羽詰って、私はカーターの胸倉を掴み上げる。

「アナタもしかしてこの邸の周囲に霊符を貼っているっ?」


霊符。

中央府の教示者が、己の弱い力を補うために時間をかけて作成する札だ。

効果は児戯程度だが、使いようによってはこの上なく有用である。

目くらましをかけたり、睡眠を阻害したり、組み合わせによっては毒を精製するものもあった。


カサネが、いつまで経っても現れない理由も、それなら説明がつく。

目の前にいるこの男なら、きっと念には念を入れる。

ならば、霊符が使用されないわけがなかった。


邸の周囲には、邸の住人に対して都合が悪い思考を持つものに対して有効な目くらましの霊符が貼られているに違いない。


そうなれば、カサネが、邸を見つけることは不可能だ。

カサネのせいではない、常人ならば霊符に影響されるのは当然である。ただし。




私の幼馴染は違った。


真昼の蝶より容易に見つける。




しかも見破るばかりか、霊符の性質を逆手に取る、突き抜けて悪質な体質の持ち主である。


その彼が、邸にいる。

しかも、普段押さえている彼本来の気配が、手応えを確かめるようにゆっくり解放され始めていた。

血の気が引く。




それだけは、ならない。ヴァルの真価は、人の世には猛毒なのだ。




果たして、カーターは頷いた。

「ご推察どおりです。慧眼には感服しました」


「なら、さっさと扉を開けなさい! 邸中の人間が死に絶えるわよっ」


呑気なカーターをがくがく揺さぶれば、扉が蹴破られる。

飛び込んできたのは、黒衣の男だ。

恐怖に裏返る声で叫ぶ。

「か、カーター様、早く邸から出てください!」

「何事です」






「死霊がっ、し、死霊の渦が、この邸目がけて押し寄せてきます…っ」






質問を重ねる前に、カーターは部屋を飛び出した。

私も後に続く。

とたん、館の気温が下がった。

思わず舌打ち。


はじまった。


鼓膜が、音ならぬ音で痺れる。

灯りがともっているのに、視界がやけに暗い。

とっさに壁にはり付いた私の眼前を、風を裂いて黒い蛇みたいなものが過ぎった。

同じく避けたカーターは、興味深げな視線で瘴気をふりまいて去るそれを追う。


「生きていれば、面白いことがあるものですね」

「こういうのは、寿命が縮むって言うのよ」


ぴしゃりと訂正し、ヴァルの気配を探して、私は駆け出した。

「さっさと出て行きなさい。でないと、死ぬわよ!」

どれだけ腹が立つ男でも、死なれるのは後味が悪い。

今はヴァルを止めるのが先決だ。ただし。

私は一度だけ振り返った。


「次に会った時は、ただじゃすまさないからね」


「肝に銘じておきます。…では、お先に」

素直な返事に含むところを感じたが、構う余裕はない。

灯りはあるのに、溶けた鉛を流したみたいに闇が濃度を増していく。

大気が、粘土みたいに粘ついた。


この事態すべてを、ヴァルが招いている。


走る途中、膝が笑って、私はよろめいた。

肩から壁にぶつかる。

毒の種から広がる痛みのせいで、息が苦しい。


胸元で、呪いが音を立てて進行していた。


こうなると知っていたからこそ、ヴァルは私から離れたのだ。


彼の存在は、呪いの力を助長してしまう。

本人の意思如何に関わらず。




それが、生まれ持った彼の体質だ。

不浄、破壊、混沌、狂気、悪意、嫉妬。

ヴァルはそれらを孵化させ育て、撒き散らす。




それでも、ヴァルは、教示者の家の産まれだ。

ところが、異端と断じられた彼は、赤子のうちに抹殺されかけた。

教示者たちは、家族の情より冷酷な掟にしばられている。


彼らはヴァルが宿した教示者とは真逆の力を疎み、葬ることしか考えなかった。


殺されかけた彼を救ったのが、祖父だ。

止めるならば、と彼らはヴァルを私たちの家の前に捨てて去った。

おそらく、自滅を望んで。

ヴァルの力が、彼とその周囲を、望まざるとも破滅させると考えたのだろう。

…あいにく。

彼も私も、今日まで無事に生きている。

祖父と母が亡くなったのも、ヴァルの力とは無関係だ。

そして今では、ヴァルはその力を完璧に操れるようになっている。


だから、彼の力が解き放たれたのだとすればそれは、ヴァル自身の意思によるもの。




ヴァルの力は強い。

ただしその異質は、敏感な者には一目瞭然であり、彼らは生存本能の絶叫のような、魂の底からの敵意と反感と恐怖をヴァルに抱く。


ほんの少し呑気で無精者の幼馴染は、だから繊細に周囲から弱い人間を排除してきた。


壁に寄りかかりながら、私は食堂まで辿り着く。

また、床が揺れた。

燃えるように熱かった身体が、今は冬の北風にさらされたように冷えている。

一息ついたとたん、高圧的な怒声が鼓膜を貫いた。


「き、貴様! 何をしている…っ?」

ゴルベだ。

声を濁らせる震えに、氷片を砕くような笑いが重なった。

「何って? そもそもこの結果は、アンタたちが仕掛けたことだよ。霊符を貼っただろう、邸の周囲に」

ヴァルだ。

私は、壁を押しやるように足を進め、食堂を覗き込む。


天井を雲みたいに覆い始めた闇に、幼馴染は眠そうな目を向けていた。


「カーターが…っ。邸に害意を持つ者が入ってこられない目くらましの霊符を、確かに貼った。だがそれが何だというんだ!」

腰を抜かしたか、ゴルベは尻もちをついている。

ヴァルは彼に視線も向けない。黒い髪が、風を受けたように乱れる。

「うん、おかげですぐ見つけられたよ。おれも害意をもつ側なんだけどね、霊符って、おれにはいい目印になるんだ」

「害意?ば、ばかなっ。貴様、こちら側の人間だろう!」

ゴルベは顔を真っ赤にして怒鳴った。

ヴァルは気が抜けるような口調で言う。

「はあ? ばっかじゃないの、太守殿はともかく、姫さんを裏切るはずないじゃん」

「だ、騙し…っ」




「やだな、騙してないってぇ。そっちが…あの中央府の官吏がおれに聞いたのは、太守殿が忠誠に値するかってことだけでしょ。おれの忠誠は、姫さんにあるの。―――――命尽きるまで」









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