第二章(6)
場所を移動しようとイエルの袖を引いたとき、控えめな声がした。
「あの、もし」
私たちは揃って振り向く。
薄布を被った女性が、日陰の花のようにひっそり立っていた。
唇を引き結んだ気の強そうな童女が女のすぐそばに控えている。
「失礼ですが、イエル様ではございませんか」
顔を上げ、薄布越しに、彼女が尋ねた。
返事も待たず、切羽詰った声で続ける。
「無理を承知でお願い致します。わたしを太守様に、いいえ、姫様に…奥方様に会わせてくださいまし」
一歩二歩よろめいて近付いた彼女に、そばの物陰から警句が放たれた。
「止まれ」
女は、びくん、と背筋を伸ばした。
声と共に殺意の牙に噛まれたのだ。
全身を氷結させた彼女は、針に貫かれた無力な蝶のように見えた。
従う童女も同様だ。
「お前、ゴルベの妾だな。太守様の奥方に何用だ」
女を殺意で縫いとめた声が続く。
無機質で、老若男女いずれの別もつかない。
ナツメだ。
水面から土手を吹き上がった風が、悪戯な手で女の薄布を揺らす。
ちらと見えた彼女の顔は、先に会った二人の妾たちとよく似ていた。
前太守の趣味は、偏っていたらしい。
「…助けて、頂きたいのです」
声すら蒼白に震わせ、女は訴える。
「わたし、とうとう最後のひとりになりました。あ、あの影に、ただ殺されるのを待つだけなんてイヤなんです…っ。あれは、太古の知識から生まれたものと聞いています。ですから、太古の名門たる血統の奥方様なら、退ける方法もご存知ではないのかと」
私は彼女の言葉を遮った。
「ナツメ」
呼びかけに、氷の牙みたいなナツメの殺気が溶けて、霧散する。
恐怖の硬直が解け、女は、ぐったりと膝をついた。
従っていた童女が、気遣うように身を寄せる。
「イエル、悪いけど、彼女たちに手を貸して、こちらへ」
「了解」
私は、全員を近くの土塀の影へ誘う。
イエルの腕にしがみつき、ようよう歩いてきた女は、全力疾走の後のように肩を喘がせ蹲る。
淡雪みたいに儚い女だ。
童女が、彼女を庇って背を抱く。
私の喉奥で、数多の疑問が駆け巡った。
すべてを慎重にふるいにかけ、最初の一閃を解き放つ。
「苦しそうなところ悪いけど、質問させてもらうわ。アナタは前太守の妾だったのね? 最後のひとりと言ったけど、五人の内、他の四人は全員死んだの」
「…ア、アナタ、は」
女は、震えながら顔を上げた。問う眼差しに、私は平坦に言う。
「私がユカ・オーウェルよ。質問に答えて」
「アナタが…っ?」
薄布をはぎ取り、彼女は私を凝視した。
怯えを含んだおとなしい美貌。
少し怒鳴れば粉々になってしまいそうなほど、弱々しい。
「そんな…太守様の奥方様が、こんな堂々と街中を歩いていらっしゃるなんて」
「アナタは前太守の妾だった?」
戸惑いを遮り、私は質問を繰り返した。
意識して柔らかく尋ねたつもりだが、女は身を固くする。
「…はい。で、ですがわたし、今の生活に満足しているんです。過去なんてどうでもいい。復讐にも興味はありません。お許しいただけるなら、私の背中にあるあの刺青を、無効にしていただきたいだけなのです」
はらはら涙を零す様子は、落花の風情。
今までの女とは、雰囲気が違う。
やりにくい。
「まず先に、確認させて」
女の前に、私は膝をつく。
「アナタはさっき、最後の一人になったって言ったけど、他は全員、死んだの?」
「…ええ」
私の声が幾分、低くなる。
「どうして、それを知ったの。何か、合図でも決めていた?」
「それは。…わたしどもに、危機を教えて下さった方が、いて」
危機を教えてくださった方?
私は、ちらと隣の長屋の屋根を見遣った。
姿は見えないが、ナツメがそこにいるのだ。
この件に関わる者は、思いの外多いのかもしれない。
薄笑いで高みの見物を決め込んでいるヤツが、どこかにいる。
私はすべて後手にまわっていた。
女の言葉が真実としたなら、もう一人、私が会うつもりだった尼僧も、死んでいるということだ。
「ソイツは男、女?信用できるの」
「男性です。あのゴルベ様が、これ以上ない歓待をなさるので、わたしなど口も聞けない身分の方なのでしょうが…、少し、怖い」
「その男は、アナタの背にある刺青のことを知っていた?」
女は、身体を自ら守るようにかき抱く。
「み、見せたことなどございません。これを知るのは前太守と、仲間たちだけです」
「ごめんなさい。失礼なこと言ったわ。なら、ゴルベは?」
その名に、イエルの目が細められる。
今朝の襲撃を思い出したのだろう。
彼は今、通りに面した側に立ち、目隠しになってくれていた。
言いたいことや聞きたいことはあるだろうが、無言を貫いている。
「いいえ、あの方も、知りません」
「でも、…妾、なのよね?」
女は寂しげに微笑した。
そばの童女の耳をやさしく塞ぎ、消えそうな声で言う。
「意識して隠しておりました。刺青がある女と知られたら、ゴルベ様は放り出されたでしょう。そうなれば、わたしは行き倒れて死んでしまいます。必死、でした」
か弱い女だが、莫迦ではない。
私は頷いた。
「分かったわ。他にも聞きたいことはあるけど、まず、アナタを保護します。しばらく、太守の館へいらっしゃい」
女の顔が輝く。イエルは難色を示した。
「姫さん、身元不明者を館へ入れることはできない」
「彼女を見殺しにする気なの」
私は、イエルカから女へ視線を移す。
「とりあえず、アナタの背に刺青が本当にあるか、確認したいんだけど」
「あったとしても、根本の解決にはならないだろ、姫さん」
「分かりました」
ごねるイエルは捨て置き、女は覚悟の顔で頷く。
私の求めは、最初から予測していたのだろう。
忌まわしくとも、刺青は前太守の妾であったという証だ。
彼女は、襟元に手をかけた。
童女に睨まれ、イエルは顔を背ける。
す、と日陰にさらされた背は白絹みたいに滑らかでうつくしい。
心臓の上あたりに、間取り図がある。
上部分のみ線で遮られ、あとは左右と下へ中途半端に伸びていた。
記憶に刻み、礼と謝罪を口にした私は、服を着るよう促す。
「それがどこの間取り図か、分かる?」
「いいえ。知っていたら、その時点であの影たちに殺されています」
「確かにね」
肩を竦め、私は立ち上がった。
「じゃ、色々手配しないと。部屋はどこがいいかしら」
「姫さん」
「ゼンの説教が短いといいわね、イエル」
イエルは降参のため息をついた。
「分かったよ、もう」
「あの、奥方様。館の中に滞在させて頂けるのでしたら、使用人部屋で結構です」
彼女の言葉に、私は首を横に振った。
「そこだと、いざと言うとき、巻き込まれる人数が多すぎるわ」
「…そう、ですね。なら、あの妾の館以外でしたら、私はどこでも」
「あの中の方が慣れているんじゃない?」
何の気なしに言って、無神経な発言だとすぐ反省する。
彼女は倦み疲れた顔を伏せた。
「あの中で、妾たちは一室に閉じ込められ、日々仲間が減ることに怯えていました。もう二度と、踏み入りたくない」
閉じ込められていた。
一室に。
その言葉に、何か引っ掛かった。
いや、疑っているわけではなくて。
何か、違和感が。
もどかしい気分をよそに、私は潜めた声で彼女に尋ねた。
「監禁されていたってこと?」
いえ、違う。
そんなこと、改めて確認したいわけでもなくて。
つまり、妾の女性たちは。
あの館の構造を知っている、わけではないと言うこと。
だがおそらく。
妾の誰も、二度とあの館へは足を踏み入れたくないはずだ。
ああ、本当に。
吐き気がするほど、すべてが悪趣味だ。
「だけではありません。わたしたちは、地下で行われる拷問紛いの遊びで嬲り殺される生け贄に過ぎなかった」
一語ごと、墨が沁みるように不快が広がる。