第二章(7)
「地下があるの、あの館」
「はい。…先代は、女たちが苦悶に苦しむ姿が快楽だと」
彼女は黙り込む。
私が、唇の前に人差し指を立てたからだ。
聞きたくなかった。
「行くわよ。ゴルベに、このことは?」
「…親戚の家へ遊びに行くと、伝えています」
私は真意を探ろうと、女の目を覗き込む。
「ゴルベは、アナタが前太守の妾だったと知っているの?」
「…知っていたからこそ、ゴルベ様はわたしを手に入れたのです」
予想外にも、返されたのは熱がこもらない声だった。
「なにそれ」
彼女の顔に、自嘲の漣が走る。
それは一瞬で、諦念の微笑が残った。
「高貴な御方が愛した女。それを手に入れることで、自分もそうなったような気がするのかもしれません。だから、ゴルベ様はわたしを手放さないのです」
私は眉を潜めた。さすがに、無表情ではいられない。
理解を拒絶した脳が、身体にもたらしたのは嘔吐感だ。
金や権力を前に、犬のように舌を垂らした男。
やはり、ゴルベは好きになれない。
確信した、そのとき。
「ユカ!」
屋根上から声が落ち、ひかりの奔流が降った。
周囲の影に、音もなくひかりが突き立つ。ひかり。
否、短針だ。
「ナツメ!」
「来るぞ!」
言葉と同時に動いたのは、童女だった。
女主人を、影から突き飛ばす。
とたん、地面から黒い両腕が、蛇のようにうねり、噴水の勢いで突き出した。
女主人と入れ替わった童女の周囲をそれが螺旋に取り巻くなり、私たちの視界から彼女の姿が消える。
手を伸ばしたが、間に合わない。
頭上で、影の指が組み合わされた。
同時に、ぐっと腕が絞られる。
腕の中にあったもがく童女の形が一息に失せた。
骨がひしゃげる音と共に、腕の隙間から水鉄砲みたいに血がしぶく。
「…っあ」
絶叫しかけた女の口を塞ぎ、イエルが通りへ駆け出した。
あとに続こうとして、私は足を止める。
数歩先のイエルも、足裏で地面を擦って制止した。
ぬっくと地面に闇色の腕が生えている。
最初の二本を含め、十倍の数だ。
鞭の柔軟を備えたそれは、ぐにゃりと曲がり、掌で地面を押さえた。
と見る間に、地中から身体を押し上げる。
イエルはゆっくりと引き出される姿を見遣り、昆虫の観察に夢中な子供じみた声で言った。
「朝見たのと兄弟かな」
「復讐に現れたなら、私たちが悪役ね」
「オレたちには似合いだ」
女を片手に抱えたまま、イエルは嘯いた。
狭い場所で槍は使いにくいだろうに、不利をおくびにも出さず、快活に。
私は唇だけで笑って、屋根の上へ声をかけた。
「ナツメもお願い」
「分かった」
今や完全に姿を現した番人たちは、水を被った犬のように、ぶるん、と身を一振りした。
ぱらぱら針が抜け落ちる。
私を横目に見たイエルが、はじめて顔を曇らせた。
「姫さん? 体調悪いのか? 顔色が」
「元から色白でしょ」
間髪いれず切り返したが、さすがイエルだ、鋭い。
私の胸の中央にある種から吐き出される毒の痛みが強くなってくる。
堪え、指に巻いてあった包帯を解いた。
同時に、視界の隅を、紫煙が掠める。
なんだ、と瞬きした瞬間。
「助っ人は必要かい?」
通りから、声がかかった。
どこかで聴いた声だ。
顔を上げた私は、目を見張る。
煙管をくわえた男が飄然と立っていた。
オリガの茶屋にいた、あの男だ。
なぜ、いつの間に、どうして彼が。
脳裏で疑問が一巡する合間に、女が声を上げた。
「あ、アナタ様は」
「おや、これは奇遇」
彼は、くすんだ金髪を揺らして笑う。
そう言えば、彼はゴルベの客人と聞いている。
顔見知りでも不思議はない。
女は、口元を両手で押さえ、身を縮めた。
「つ、ついて来られたのですか」
「護衛は、頼まれていたけどね」
微妙にズレた答えに、足元の覚束ない女を、イエルは私へ押しやる。
「じゃ、そっちの始末頼む」
現れた男に、掃き掃除の分担でも決めるように声をかけ、イエルは踵を返した。
槍の刃先が視界の隅で弧を描く。
イエルの姿が消え、隣を疾風が過ぎった。
背後で、槍が唸りを立て空気を引っ裂く。
煙管の男が気軽に笑った。
「あいよ」
番人たちは、吹き寄せられた木の葉のように、私たち目がけ仮面から突っ込む。
寸前で、広い背が割って入った。
煙管から、紫煙が真横へ流れる。
直後、それが微塵に刻まれた。
私の前後で澄んだ刃音が戦闘の楽曲を奏でる。
腕の中の女が、隠れるように身を押し付けてきた。
失神しないのが不思議なほど震えている。
耳を聾する刃音が止んだ一瞬に、私は鋭く声を放った。
「相手が動きを止めたら、近付かないで! 特に、仮面に触れてはだめよ」
とたん、しん、と静寂が場を支配する。
寸前まで、騒音が鼓膜で暴れていただけに、静けさが耳に痛い。
周囲を見渡せば、仮面は土塀の隅に叩き集められていた。
勝った、と言う以前の問題だ。
勝負にもなっていない。
とはいえ、さすがに、あの仮面まで始末できる非常識はタキのみらしい。
一線をひょいと飛び越えた強さだ。
男の頭上にぷかりと煙の輪っかが浮いた。
下された両手には、長剣と短剣が握られている。
二刀の遣い手か。
彼は、横顔だけで私を見下ろした。
「あの仮面は、危ないんだろ。放っとくわけにもいかないんじゃないか」
「危険だってこと、なぜ知っているの」
答えない男に、女を押しやり、私は残った仮面に近付く。
「おい」
「放っておいたりしないわ」
生癒えの傷口に再び歯を当て、肉を裂いた。
急いで、仮面の額に血文字を記していく。
たちまち、白い霧と化して仮面が形を崩し、流れて消えた。全部で、十体。
処理を続ける私の背後で、イエルが男に屈託ない声をかける。
「助かった。流石に十体はキツかったから」
「邪魔にならなくてよかった」
「美人に格好いいトコ見せるには、丁度いい数だ」
「同感だねえ」
最後の一体を消し、落ちていた薄布を拾い上げ、私は立ち上がる。
「オレはイエル。アンタは?」
「自分はヘルマンだ。イエルって、お前さんが噂の闘将かい? 角はないんだねぇ」
一抹の含みもなさそうでいて、声は毒を孕んで耳に残った。
イエルは、ふ、と息だけで笑う。
「隠してるのさ」
振り向けば、イエルは悪戯っぽく頭を掻いていた。
足元に残る戦闘の名残は、あの童女の原形をとどめない血だまりだけだ。
私は、ヘルマンの腕に守られた女を見遣った。
彼女は、小さく首を横に振り、目を伏せる。
その態度で、私は察すした。
ヘルマンは護衛兼、…見張り。
それについては何も言わず、私は彼に微笑んだ。
「昨日は、どうも」
「…あれ。アンタ、昨日の」
暗かったからすぐ分からなかった、と目を丸くしたヘルマンは頭をかく。
イエルが首を傾げた。
「知り合い?」
「茶屋で会ったの」
薄布についた土埃をはたき、私は女の頭にそれを被せる。
縋るような目が、私を見た。
彼女に笑んで、ヘルマンを見上げる。
「あの店のお菓子は美味しいわ。昨日のお嬢さんも、気に入っているのよね。新作は食べた?」
「あー…、まあ、そう…。昨日は呆れるくらい注文したからねぇ…どれがどれやら」
「気持ちは分かるわ。どれも美味しくて、飽きが来ないもの」
ヘルマンはげっそりした。
「いや自分は、甘味が理解できなくてね。毎度、一つ食うにも困るんだが、あの方はへたすりゃ食事代わりにしちまう」
「ふふ。そこまで気に入ってもらえたら、お店の方も冥利に尽きるわね。そうだ、アナタは吉庵の新作、もう食べた?」
女に話題を振れば、当惑して首を横に振る。
「い、いいえ」
「美味しかったわー。新しい食感で…興味ある?」
「はい! …あ」
反射的に目を輝かせるなり、おずおず顔色を伺う女に、私は頷いた。
「なら今度、それを手土産にお宅にお伺いするわ。護衛の方も来られたようだし、今日はこれで、失礼します」
イエルの袖を引っ張り、私は土塀の影から出る。
とたん、背を、ごく自然な声が追ってきた。
「教えてくれないかな。さっきの仮面、どうやって消したんだい」
私はすぐに振り向けない。
胸の中央から背骨を、激痛が突き抜けたからだ。
冷や汗がにじむ。
冷たい毒の脈動が激しく刻まれた。
指先の傷が、熱を持って鼓動する。
堪えろ。
悟られるな。
痛みを忍耐の箱へ叩き込み、私は平然と笑顔で振り向いた。
「アナタこそさっきの仮面を、ここ以外のどこで見たの」
返事はない。私は会釈して、歩き出した。
イエルが深刻に呟く。
「なあ、姫さん、さっきの二刀の男。なんか、気になる。どっかで、見た気がする」
イエルの勘は、外れない。私は彼から手を離した。
独り言みたいにイエルは続ける。
「…戦場だった。どの、かは分からない。けど、関わったらだめだ。特に、姫さんに、よくない」
「分かったわ、イエル」
私を見下ろしたイエルは、どういうわけか後悔の顔で枯草みたいに脱力した。
「ちゃんと調べておくわね」




