花冠
毒竜ゲオルギウスは覚えていた。
かつて言葉と知恵は、竜の一族が人という愛しき友へと贈った花冠であったことを。
園で初めて結ばれた、人と竜の契約。一族の誇りだった。
故に永久永遠の喪失の螺旋にその巨躯を置いていながらも、忘れることなどあり得なかった。
だが、花絨毯の温かさを竜肌に感じることはできても、もはや視線を向けようと思わなくなったのは、いつからだっただろうか。
色さえ忘れ去った花束は、いまや虚ろな祭壇を飾るために手折られ、拡がりは鉄甲に踏み荒らされ、血の滴りを覆って隠している。
花言葉に綴られた祝福は空転するだけに留まる。血肉持った呪詛は土壌に強く根付く。竜との“契約”によって人にもたらされた“言葉”はいつしか“神の愛”を騙り、夥しい戦火を大地に拡げていた。
煙たい香が痛く鼻を突く。
礼拝堂の内には冷気が漂い、鱗肌に宿ったはずの戦いの火照りを奪っていった。窮屈さに巨躯を縮こませて彼女は白く嘆息を吹いた。
此処では、歌が、歌われていた。美しく整えられ、耳障りが良いだろうと母音に飾られた旋律が、空虚なる間を塞ぐように渦巻く。
天窓によって切り取られた月明りの下、心許ない燭台を手に祈祷捧げる聖職者たちが、慎ましくも存在強く知らしめる十字架に跪いている。柔らかな布地に包まれた寝躰の累々が熱の潤滑と血の滴りを失ったまま並ぶ。それら傍らに供えられた剣と鎧は盃水に撫でられ、次に取り上げられ、新たな戦の回し手へと帰される。
多く諳んじられる文言はどれのひとつもゲオルギウスの骨の鐙を震わすことはなかった。
竜は視線をただひとつへと注いだ。薄暗さを荘厳へと翻訳されたこの場において、唯一と言っていいほど柔く暖かな輝き。直視すら眩しくて、瞬膜を閉じ、息を整えてゆっくりと開く。
長き祈り願いを終えて、男が立ち上がった。外套をたおやかに翻して、振り返る。
白地に金装飾刻まれた騎士鎧を着込んでもなお、その痩躯は靭やかな外形を保っている。艷やかな黒髪、金の瞳、整然とした表情。おおよそ優しきに満ちた存在は、毒竜ゲオルギウスの姿を認めると、微笑みへとゆっくりと砕けた。
「待っていてくれたのかい?」
竜の心に、心地良きその奏。緩やかなその振動は、腹部に僅かな熱すら感じさせるほどだった。
「ああ、ずっとずっと、"私"にはとても寒かったよ⋯」
"彼女"の口許は思わず解けて、言葉が溢れる。
剣を握るには柔らかく細すぎて温かすぎる手のひらが、竜の頬を撫でた。確かな熱が内から生じる感覚に、竜は快方に低く唸った。
「もう良いのか?レドゥア」
彼女は、その親しき名を喉より綴る。歌うには歪にしゃがれ潰れすぎた竜言に、笑みをひとつも曇らすことなく、レドゥアは互いの頬を触れ合わせた。
ゲオルギウスは意図せず息を止めた。肺より滲む劇毒の腐臭を嗅がせないために、惚けた嘆息を呑み込んだのだった。
「もう大丈夫だよ、ゲオルギウス⋯もう、大丈夫だ⋯⋯」
金の雫が一筋、受け留めた鱗肌を熱する。
――ああ、貴方の一滴はなんと儚く、脆く、柔く、愛しく、そして、強く。私の心を揺さぶり続けるのか。
吐露を貯めたままに、ゲオルギウスは鼻でレドゥアの頬を拭った。
ありがとう、と消え入りそうな呟きで返す。彼は正しく身を直し、礼拝堂の扉を押し開けた。
「行こう、友よ。こんな無意味な戦いを、我らの手で終わらせなくては」
"勇者レドゥア"は、彼自身の決意を以てして、そこに成った。直剣の柄握り締める手は固く、威風堂々たる声は歌を制して礼拝堂に響き渡る。"名"を盟約の友へと言い正して、先を進む。その顔はもはや柔きを英雄譚に溶かして消えていった。
ゲオルギウスは輝く横顔に問う。
「やはり私との“契約”を結ぶつもりはないのか、レドゥア。竜の胆力を得れば、この戦いもすぐに終わりが来よう」
勇者が僅かに顔を向ける。微かに顰められた眉間に、毒竜は自身の発言を後悔した。
「僕は君の友であり続けたい。自由を愛する君を縛り付けたくないんだ」
人と魔が真名を連ね、血肉と魂を均する御業。死が二人を分かつまで運命を共にする契り。それこそが“契約”だった。
「それに僕は強い。君も知っているだろう?」
片腕を上げておどけるように示して見せた。
「亜人の群れも、どんな魔物も、君と一緒に蹴散らしてきた。だから勇者なんだ」
そのとおりだ。レドゥアは強い。連合軍の兵士すべてが勇者と呼び慕うのを躊躇わないほど、彼は今まで数々の偉業を達成して見せた。食人鬼の群れも、敵軍の包囲網も、大雷鳥バジリスクも、大毒蛇ヒュドラも、彼には敵わなかったのだ。
だが――。
ゲオルギウスには、予感がしていた。
此度だけは違う。
何かが狂う。
めぐる天輪はいつの日も、勝者を定めない。
「それに君にはなんの見返りもないじゃないか」
重く思案する竜にレドゥアが微笑む。
竜は答えをすぐには返せかった。
しばし言い澱み、思わず漏れ出そうになった言葉を飲み込んだ。
そして、発した。
「……執着だよ」
視線を逸らすように、彼女にしてはまったくの小声で答える。
「お前には、ずっと私のそばにいて欲しいのだ」
勇者は優しく竜の頬を撫でた。
「僕はずっと君のそばにいるから」
そのとき、そよぐ夜風の冷たさに意味はあったのだろうか。無いとして、それでも、今この瞬間のゲオルギウスにとっては、在るがままで良かった。
――ただほんの少しだけ、もう少しだけ、その優しい声が欲しかった。
彼女は暫し立ち止まり、勇者の外套は旗めいて遠ざかる。深い青の織物は、その勇姿目に焼き付けた人々の願いを巻き込んで、帆の如く踊り逝く。
――もはやこの真名は、契り無くとも貴方の元に在るというのに。愛しき友よ、"名"よりも"真名"を。
貴方に、ただ呼んで欲しかった――。




