知っていたけれど、おれはヤンデレだったようだ(本編後の地下牢)
ヘンリー視点です
奥様の命を受けて、先ほどまでこの家の主人であった男を引きずっていく。伯爵家に仕える者、ほんの数人しか知らない通路を通り、地下牢へと向かった。
四重の扉を、一つずつ開けながら、奥へと進む。
最後の格子戸に着くと、俺は暴れる男の背中を思いっきり蹴り、むせる男を見ながら、素早く鍵をかけた。
……早くこの作業を終わりたい。
可及的速やかにここを去り、俺にはやりたいことがある。
けれど、最後にもう一つ、やっておかねばならないこともあって……。だから溜息をついて、できるだけ申し訳なさそうに見えるように表情を作った。
「申し訳ありません、伯爵様、大丈夫ですか?」
自分で思いっきり蹴ったくせに我ながら笑えるが、思ったよりもちゃんと声音が作れている。
まだ伯爵ではなく、これから伯爵になることは二度とないであろうこの男を伯爵と呼ぶのはそのほうがこの男が喜ぶからだ。
「こんなこと、をして! どうなるかわかっているのか!」
俺に蹴られたせいでまだ息が上手く吸えないのか、それとも自分の身に起きたことに恐怖しているのかわからないが、その声は震えている。
だから、俺はそんな男を落ち着かせるように声を出した。
「奥様は狂っておいでなのです。この家も財産もすべて伯爵様のものなのに……。きっとすぐに悪事はばれます。みなさまは伯爵様の努力をわかっておいでです。すべては奥様が悪いのです。伯爵様が違う女性を選ぶのは当然のことです」
奥様への侮蔑を混ぜながら、真剣な目をして目の前の男を見る。男は警戒した色で俺を見ていたが、そんな俺の言葉に心が落ち着いたようで、すぐにああ、と頷いた。
「そうだ。俺は悪くない。あいつが悪い。……俺が不幸なのも、人生が思い通りに行かないのも、全部あいつのせいだ」
「そうです。奥様さえいなければ、伯爵様は真実の愛で幸せになれたのです。奥様は伯爵様のことを大事に思っていないのです。だからこうして伯爵様をないがしろにする。真実の愛ではありません。……他の女性はこうおっしゃいませんでしたか? 『私ならあなたを大切にする』『私ならあなたの苦しみをわかってあげられる』と」
「ああ。きっとあいつがいなくなったほうが幸せな人生を送れるはずなんだ。こんな家捨ててもいい、財産だっていらない。ただあいつじゃない誰かと一緒に過ごし、結婚すれば、今とは違う、幸せな人生が待っているんだ」
すべてを奥様に押し付けた男は、その目に憎しみを灯らせる。自分の不幸をすべて奥様に背負わせ、ここではないどこかへ行けば、自分は認められ、自分のすべての希望が叶えられると、そう信じているのだ。
「私は伯爵様にそんな思いをさせません」
……なあ? どうせお前の女たちはこう言うんだろう?
「伯爵様の人生はこんなものではない」
そう言って、奥様と別れるように迫りながら、一緒に暮らしたいと懇願するんだろう? 私といれば幸せになれる、と現実に過ごしてきた人生と夢しかない人生を比べさせ、女と過ごす人生ならばすべてが満たされるような錯覚を起こさせるんだろう?
「先ほどは奥様に命令され、仕方がなかったのです。必ず助けに参ります」
――だから、これは夢だ。
現実的に考えてみろよ。誰がお前を助けに来てくれる? 男爵家とも絶縁し、微々たるコネと奥様の多大な愛だけで生きてきた男。そんなお前に人生をかけてくれるやつなんているわけないだろう?
「ソニアに! ソニアに連絡して欲しい。俺はそこで二人で生きていく。二人で過ごせば、もっと素晴らしい人生が待っているはずなんだ!」
ソニア、ね。確か子爵家の次女か。別に伝えるのは構わないが、その場合はソニア嬢の婚約者から伝えてもらおう。伯爵家としては子爵家の次女よりもその婚約者である伯爵家の三男に筋を通さなければ。
「はい、必ず」
「頼んだぞ!」
格子に縋りつく男に任せてほしいと頷く。男はあからさまにほっとした顔をしたので、ついでにもうひと押ししておくことにする。
「伯爵様は悪くない。奥様が悪いのです」
それだけ残し、さっさと地下牢を出る。
途中にある扉にもきちんと鍵をかけ、鍵も保管場所へと戻す。そこにはいつも三人以上のものがおり、鍵を盗んで逃げだすことは不可能だろう。
そこまでの作業を終え、俺は奥様の部屋の前へと急いだ。
……男を連れて行くとき、奥様の瞳は濡れていた。もしかしたら、今頃、一人で泣いていらっしゃるかもしれない。
そう思うと、胸が痛い。
奥様はいつだってあの男を許してきた。それは傷つかなかったわけじゃない。傷つきながらも、それでもあの男を信じ、共に生きてきたのだ。
――あの男はどうしようもない。
あの男に人生をかけているのは奥様だけなのに。あいつが悪だと断じる奥様だけが、自分の身を切り、奉仕し続けているのに。それが真実の愛ではなく、なんだと言うのか。
現実という楽しいことだけではない日々。傷つけられても、苦しくても、それでも男と生きていくのだと、生きていきたいのだと乞う奥様のどこが悪だと言うのか。
――だからこそ、あの男には二度と愛を乞わせない。
ずっと奥様を悪だと言い続ければいい。そして、そのまま死ねばいい。夢を見たまま、帰ってこなくていい。
やっと奥様が決断してくれたのだ。
周りのものがどんなに言っても聞いてくれなかったが、ようやく新しい一歩を踏み出してくれた。
けれど、今でも奥様の一番はあの男。だからあの男が現実に気づき、奥様に愛を乞えば、たちまち奥様は許してしまうだろう。
『俺が悪かった』
その一言で、奥様はまたあの男を愛してしまう。男がそのまま逃げてくれればいいが、結局また元に戻るだけでなにも変わらない可能性もある。
だから、このまま。
奥様の心が穏やかであり、あの男の支配から逃れられるのなら、それが一番いいのだ。
「奥様、戻りました」
扉の前で声をかける。けれど、返事がない。すこし逡巡したのち、思い切って扉を開けた。そこにはぽろぽろと涙を流す奥様がいて……。
「これを」
胸にあったハンカチを奥様へと渡せば、奥様はそっと受け取ってくれた。そして私を見上げて、困ったように笑う。
「新しい一歩は少し胸が痛いわ」
「はい」
「……他の人に目を向けられるような日がくるかしら」
奥様の弱音。それは仕方がない。それだけあの男が好きなのだ。そしてそれゆえに今もまだ苦しみの中にいる。
――大丈夫です、奥様。
私があの男に語り続けます。現実を見せることなく、夢を見せ続けます。そうすれば、決してあなたという現実に気づくことはありません。もう二度と奥様を惑わし、また突き放すような真似はさせません。
「……かならず。初恋は実ることのほうが少ないですから」
「そうね、そうよね」
奥様が笑う。すこし寂しそうなその笑顔でさえ、俺にはまぶしくて……。
……あの男に誰がなにをしたわけでもない。奥様との暮らしの中であの男自身がこの道を選んだのだ。
それを思えば奥様は男を見る目がないのかもしれない。けれど、奥様を見ている男はたくさんいる。この決断はきっと奥様にとっていいものになるはずなのだ。
「俺の初恋も実っていません」
そう。実るはずもなかった。
「……同じね」
奥様が困ったように眉根を寄せ、首を少しだけ傾ける。
……その仕草もとてもきれいだと思うから。
――ああ。早くあの男を殺したい。
どうか一刻も早く奥様があの男を忘れ、光り輝く道を進めますように。