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乙女ゲームのヒロインに転生したのに、死亡ルートしかない  作者: 春野スミレ


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16/16

NO.16 引き金

 アルドたちの姿が見えなくなっても、リヴィアはしばらくその場に立ち尽くしていた。


 玄関ホールの空気は静かだった。

 磨かれた床に午後の光が落ちている。外へ続く扉はもう閉じられ、さっきまでそこにいたはずの気配だけが、妙に鮮やかに残っていた。


 指先に、まだ熱がある気がした。

 手の甲に落ちた、ほんの一瞬の口づけ。

 たったそれだけなのに、ひどく鮮烈だった。


 あの場では何とか平静を保っていたはずなのに、思い出した途端、心臓が少しだけ落ち着かなくなる。


 それと同時に、医務室でのかすかに青ざめた横顔を思い出す。

 “ノクス”という言葉を聞いた時の、あの動揺。

 立っていることすらできなくなるほど、彼を追い詰めたもの。

 胸の奥が重く沈む。


「行きましょう」


 隣で、マルコが静かに声をかけた。

 振り向くと、彼はいつも通りの薄い表情で立っている。

 リヴィアは小さく息を吐き、頷いた。


「ええ」


 玄関ホールを離れ、再び屋敷の奥へ向かう。

 執務室の前まで来ると、マルコが軽く扉を叩いた。


「入れ」


 中から、低い声が返る。

 扉が開かれ、リヴィアはその後に続いた。


***


 ダンテは机の前に立ったまま、何枚かの紙を見ていた。

 リヴィアたちが入ってきても、すぐには顔を上げない。

 数秒の後、ようやく視線を寄越した。


「送ってきたか」


「はい」


 答えたのはマルコだった。

 リヴィアは机の上に広げられた紙の束へ目を落とした。


 船が来るのは明日の夜。

 人間を、箱詰めにして出荷する。


 そんなことがこの国でおきている事実が恐ろしい。

 それでも、自分が蚊帳の外にいる気にはなれなかった。


「明日」


 口を開いた瞬間、自分でも驚くほど声ははっきりしていた。


「私も行くわ」


 マルコの手が、紙をめくる動きをほんの一瞬だけ止める。

 ダンテは表情を変えなかった。

 ただ、少しだけ目を細めた。


「だめだ」


 即答だった。


「今度は見物じゃ済まない」


「分かってる」


 リヴィアもすぐに返す。


「それでもこの現実を知って大人しくしてられるほど利口じゃないの」

「私はアルド・ヴァレンティーノの娘よ」

「それに」


 一拍。

 ルカの顔が、脳裏に浮かぶ。


「……ルカのこともある」


 その言葉に、部屋の空気がほんの少しだけ変わる。

 ダンテは視線を逸らさない。


「だからこそ、だ」


 低い声。


「人を物みたいに扱う連中だ。倉庫に踏み込めば撃ち合いになるかもしれない」

「今度は運よく腕一本で済む保証もない」


 机の上の資料を指先で軽く叩く。


「お前が思ってるより、ずっと簡単に死ぬ」


 静かな言い方だった。

 脅しているわけではない。ただ事実を述べている。


 リヴィアは唇を引き結んだ。

 言い返せない。分かっている。どれだけ危険な場所かくらい。

 けれど、それで引き下がれるほど、他人事ではなかった。


「それでも行くわ」


 ダンテが小さく息を吐く。


「頑固だな」


「あなたに言われたくない」


 反射的に返すと、彼はわずかに口元だけで笑った。

 ほんの一瞬だけ。

 すぐにその表情は消える。


「お前、銃は使えるのか」


 その問いに、今度こそリヴィアは言葉を詰まらせる。


 銃を構えることはできると思う。

 照準の合わせ方も、呼吸の整え方も、たぶん身体は知っている。

 ゲームの中で何度もやった。敵に狙いをつけて、引き金を引いたこともある。

 動く標的を追うことも、静止したものを正確に撃ち抜くことも得意だった。


 けれど。

 あれはゲームだった。

 撃たれれば演出が入り、倒れればフラグが進み、やり直しもできた。痛みのない世界で、選択肢の一つとして引き金を引いていたに過ぎない。


 今は違う。

 今、相手を撃てば、本当に血が出る。

 本当に人が倒れる。

 そのまま、二度と立ち上がらないかもしれない。


 ダンテは急かさない。ただ、答えを待っている。

 マルコもまた何も言わず、静かに視線を伏せている。


 部屋の中が、やけに静かだった。

 ようやくリヴィアは口を開く。


「……撃ち方は知ってるわ」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

 けれど、その先は少しだけ掠れる。


「でも……人を撃ったことはない」


 言ってしまえば、それはとても情けない答えだった。

 だが、嘘をつく気にはなれなかった。


 ダンテはしばらく黙っていた。

 責めるでもなく、呆れるでもなく、ただその答えを量るように。

 やがて、低く言った。


「なら、今夜考えておけ」

「覚悟がないやつに引き金は引けない。自分が死ぬだけだ」


 リヴィアは息を止めたまま、彼を見た。

 そんな人間を何度も見てきたと言うような言い方だった。


 冷たく、正しい。

 

 ダンテはもう、この話を終えたというように視線をマルコへ移した。


「明日の夜までに全てを整えておけ」


「承知しました」


 マルコは一礼して、すぐに部屋を出ていく。

 扉が閉まると、執務室の中にはリヴィアとダンテだけが残った。


 窓の外で、午後の光がさらに傾いている。

 部屋は静かだった。


 リヴィアはまだ立ったまま、息を整えていた。

 さっきの問いが頭の中で何度も反響している。


「……あなたが初めて人を撃ったとき、どんな気持ちだったの」


 ぽつりと零すと、ダンテが書類を整える手を止めた。

 紺の瞳が静かにリヴィアを見る。


「失いたくないものがあった」

「そのために引き金を引いた。後悔はない」


 その返答はあまりにも真っ直ぐだった。

 ただ、ほんの一瞬、瞳が揺らいで見えた。


「お前が行きたいと言うなら、止めはしない」

「だが、最低限自分を守る努力をしろ。誰かを守りたいならな」


 リヴィアは返す言葉を失う。

 この男はいつもそうだ。

 冷たい言い方をするし、甘やかしてもくれない。

 だが、自分のことを真剣に心配してくれている。


 ダンテは再び書類へ視線を落とす。


「今日は休め」

「明日までに決めろ」


 そこで会話が途切れた。

 リヴィアはしばらくその場に立ち尽くしたまま、机に向かう彼の横顔を見ていた。

 声をかけるべきか、何か言うべきか迷ったが、どの言葉も違う気がした。

 だから、ただ短く答える。


「……分かったわ」


 それだけ言って、執務室を後にした。


***


 その夜、リヴィアはなかなか眠れなかった。


 客室の窓辺に立ち、暗くなった庭を見下ろす。

 昼間には整って見えた木々も、夜になると輪郭を失い、ただ静かにそこに沈んでいた。


 もし明日、自分の目の前で誰かがルカへ銃を向けたら。

 もし、引き金を引かなければ彼が連れていかれると分かったら。

 その時、自分は撃てるのか。


 同時に別のことも考える。

 もし、自分がいない所で、ルカが攫われてしまったら。

 なにか出来ることがあったのではないかと、後悔しないだろうか。


 彼女はゆっくりとベッドへ潜る。

 すぐには眠れないと分かっていても、目を閉じるしかない。

 守るためには覚悟を決めなくてはならない。


***


 リヴィアが執務室へ通された時には、すでにダンテとマルコがいた。

 ほどなくしてアルドとルカも姿を現す。


 五人が揃う。


 大きな長机の上には、西倉庫街の見取り図、搬出入の記録、港湾の荷札一覧、倉庫の使用申請書らしき紙がいくつも並べられていた。

 地図室から部分的に持ち出したのだろう。


 ルカは昨日より落ち着いて見えた。

 顔色も戻っている。

 けれど、完全ではないことくらい、リヴィアには分かった。


 マルコが一礼し、報告を始める。


「3-Eの表記が確認できました」


 その一言で、部屋の空気が変わる。

 マルコは一枚の紙を手前へ出した。

 倉庫使用台帳のようだった。

 端の方に、英字と数字の区分けが記されている。


「西倉庫街第三倉庫」

「Export区画」


 リヴィアの指先が、無意識に少し強く重なる。

 Export。輸出。


 マルコは淡々と続けた。


「表向きは、船積み前の荷を一時保管するための区画です」

「今夜入港する貨物船の積み荷記録にも、第三倉庫Export区画の使用申請が出ています」


 ダンテが机の上の紙へ目を落とす。


「名義は」


「表向きは輸出代行商です」

「ですが、会社の実体は薄く、ここ数ヶ月で急に取引量が増えています」


 アルドが鼻先で小さく息を吐いた。


「隣国へ流すための表札としては、分かりやすいな」


「ええ」


 マルコが頷く。


「倉庫そのものは本拠地ではありません」

「ですが、通過点であることはほぼ確実です」


 目的は倉庫を潰すことだけではない。

 そこにいる人間を助け、船を止め、その先に続く本拠地への手がかりを奪うこと。


 沈黙を破ったのはダンテだった。


「で、お前はどうする」


 視線が、まっすぐリヴィアへ向く。

 問いの意味は明らかだった。


 リヴィアはゆっくりと息を吸った。

 怖さが消えたわけじゃない。

 それでも、守りたいものがある。


「覚悟は出来たわ」


 短く、はっきりと言い切る。

 部屋が静まり返る。


 ダンテはしばらく何も言わなかった。

 紺の瞳が、ほんのわずかに細くなる。

 やがて、低く言う。


「それでいい」


 リヴィアは小さく息を吐く。

 もうこれで逃げ場はない。

 生き残るために必死にやってきたのに、自ら危険に身を投じるとは。我ながらおかしな話だ。


 だがもう誰かが傷つくところを見たくはなかった。


 隣からかすかに視線を感じた。

 ルカだった。何も言わない。

 けれど、その目の奥には、止めたい気持ちと、それでも認めるしかないという諦めにも似たものが、静かに共存していた。


 ダンテが地図へ手を伸ばす。


「配置を決める」


 ダンテの指先が、机の上の見取り図をなぞる。


「先行隊は俺とマルコ、それからドン・ヴァレンティーノ」


 第三倉庫の正面と、側面の搬入口。

 太い線で引かれた侵入経路の上を、彼の指が迷いなく滑っていく。


「中へ入って制圧する」

「目的は三つだ」


 低い声が、静かな部屋に落ちた。


「人の確保」

「船便の記録、帳簿、荷札の回収」

「それから、隣国に繋がる情報を持ち帰ること」


 ダンテは視線を上げることなく続けた。


「お前と護衛は後方だ」


 その一言で、リヴィアは机の上の地図から顔を上げた。

 ルカもまた、わずかに表情を引き締める。


「倉庫裏の搬出口と、海側の逃走路を押さえろ」

「外へ出る人間、運び出される荷、全部確認する」

「逃げる連中がいれば止める。無理に中へ入るな」


 マルコが補足するように口を開いた。


「倉庫裏は死角が多く、海側へ抜ける道もあります」

「正面で騒ぎが起これば、運搬役や見張りが外へ散る可能性が高い」

「もちろん各ファミリーから人を出しますが、お二人にはその場の指揮をしていただきたい」


 アルドが腕を組んだまま言う。


「ルカを最初から前面に出せば、向こうが過剰に反応する可能性がある」

「奴らに顔を知られているなら、なおさらだ」


 その言葉に、ルカの指先がほんの僅かに動いた。

 だが彼は黙っている。

 ダンテがようやく視線を寄越す。


「お前ら二人の方が動きやすいだろう」


 何でもないように言ったくせに、その言葉は妙にまっすぐだった。

 リヴィアは一瞬だけ目を瞬かせる。


「お前は観察眼がある」

「護衛は若いだけあって動きがいい」

「それに、一緒にいた方がお互い力を発揮できそうだ」


 含みがあるような言い方だったが、ルカと一緒にいられることに少なからず安心した。

 リヴィアは机の縁に置いた指を、そっと握る。


「分かったわ」


 短く答えると、ルカが静かに口を開いた。


「俺が必ず守ります」


 迷いのない声だった。

 その一言に、部屋の空気が少しだけ変わる。

 アルドは何も言わず、ただ小さく顎を引いた。

 ダンテもまた、それを否定しない。


 リヴィアは隣を見た。

 ルカは前を向いたままだったが、その横顔はひどく静かで、そして強かった。


 ダンテが机の引き出しを開ける。

 中から、小ぶりの拳銃を取り出した。

 黒く鈍い光を放つそれを、彼は机の上に置く。

 金属が触れ合う硬い音が、妙に大きく響いた。


「おい」


 呼ばれて、視線を落とす。


「お前はこれを使え」


 胸の奥で何かが、小さく脈打つ。

 昨夜の問いが蘇る。


 リヴィアはゆっくりと拳銃へ手を伸ばした。

 触れた金属は冷たい。思ったよりも重く、その重さだけで現実を突きつけてくる。


「必要なときは躊躇うな」


 ダンテの声は平坦だった。


「自分が守るべきものは、自分で決めろ」


 リヴィアは拳銃を握ったまま、顔を上げる。

 紺の瞳がまっすぐこちらを見ていた。

 試すようでいて、逃がさない目だった。


「……ええ」


 怖さはまだ消えていない。

 けれど、その冷たさを手の中で感じた瞬間、不思議と覚悟の輪郭がはっきりした。

 マルコが最後の確認を始める。


「船の入港は今夜二十三時過ぎ」

「積み替えは深夜に入ってから」

「我々はその前に配置につきます」


 アルドが立ち上がった。

 それに合わせて、他の全員も動く。


「では行くぞ」


 もう迷っている時間はない。

 リヴィアは机の上の地図を最後にもう一度見た。


 西倉庫街第三倉庫。

 Export区画。


 ルカが静かに一歩、彼女の隣へ寄る。

 何も言わない。

 けれど、側にいるだけで十分だった。


 執務室の扉が開く。

 彼らは、そこから先へ続く道を奪いに行く。



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