第八話 悪意Ⅰ (1)
家の玄関の、少し重めの扉を閉じると、「桐原」と少し丸いフォントの表札が視界に入る。家の前は住宅地の狭めの路地。車通りが少ないから安心して歩ける。
私はこの道を通学路にして、学校に向かう。
住宅地の路地を、少し縫うようにいくと校門坂の下に出る。ゆっくり歩いても二十分くらい。
校門坂を登っていると、仲のいいもの同士、声を掛け合って、並んで歩いたり、手を振りあって各々教室を目指したりする姿が見える。部活に入った一年生も、先輩に声を掛けたりかけられたりするようになった。
校門坂を登っていく人の流れの中で、まるで分子が結合するように、左右の人が入れ替わって結びつく。
そんななか、動きのない塊があった。
葉月莉緒くんの後ろ姿だ。いつも後ろの席から見ている背中。小さくて、細身のスタイル。
隣にいるのは、えっと、たぶんお兄さん。もう、ほっぺたに絆創膏はない。どんな顔をしていたかおぼろげだけど、隣を歩く葉月莉緒くんの視線と表情が、穏やかで、信頼に満ちている。隣にお兄さんがいなければ、彼はとてつもない孤独の海にいたに違いない。
その二人は、誰とも交わることなくゆっくりと坂道を歩いている。
時折、莉緒くんの名を呼んで挨拶をする、女子や、少ないけど男子の姿がある。
けど、その塊に結びつく分子はない。他人と交わらない人が、他にいないわけではない。でも、その二つの背中は私の中で妙に目立った。
彼をとりまく、表面上の好意的な空気。
でも、好意的な空気は、交わることなく寄っては離れる。
薄皮一枚の笑顔で、中になにを内包しているか分からない雰囲気。
葉月莉緒という人をよく知らないけど、なんとなく有名になった人の名前を呼んでいるだけ、そんな風に私には見えてしまう。
その裏で囁かれる陰湿な言葉。彼が、過去において”乱暴“にあったと吹聴する者。それが事実というなら、なぜ人の心の傷を敢えて広めるのか。その本質にある、人気者の失墜を笑う機会を待っているかのような空気。
彼の過去を知っている人の吐き出す言葉が、どこかで彼を汚そうとしている気がした。
私の考え過ぎだろうか。たった一度聞いただけの良くない噂と、数学のプリントにまつわる出来事がどうしても私によくない想像をさせる。
そして悪意は表面化した。あのプリント、体育祭のプリントを提出した二日後に。
「あ、あのね。葉月くん」
その日の休憩時間、少しおどおどとした女子が私の前の席にやってきた。たしかそう、名前は白石さん。私と杉山さんが臨時の学級委員から晴れて解放されて、代わりに正式な学級委員になった人物だ。自動的に、いまは体育祭実行委員でもある。
こう言っては何だが、気が弱くて多数の意見に流されるタイプ。委員も少し押し付けられた感がある。私も押しつけた側にいる手前、悪くは言いたくはないけど。
「あのね、葉月くん、体育祭実行委員会の人に言われたんだけどね、おとついのプリントが出てないって。それで、希望なしとして競技が割り振られちゃってて……」
彼に、おそらくだが出場種目リストの紙を見せながら、白石さんは言った。
「え……」
と、葉月莉緒くんはその紙を受け取って、少し戸惑いの声を漏らしていた。
体育祭がらみの一昨日のプリントというと、所属チームと出場種目の希望を書くプリントのことだろう。
私は、無難なところで100m競争とか綱引きとかを適当に選んだ。一番短い運動で済む種目と、団体で過大な責任がない種目。100m競争は個人種目だけど、各チームから複数の代表者が何レースかに分かれて走るので、責任としてのプレッシャーは少ない。多数選手に選ばれるので、当選確率も高そうだ。
逆に、うんと楽な競技は、希望者が多くて当選はむずかしいはずだ。
で、葉月莉緒くんが未提出の結果選ばれた種目は……私は興味本位で言った。
「種目決まったの? 私にも見せてよ」
白石さんの持つ紙は、やはり決定した出場種目リストで、クラス全員に配るくらいの束だったから、私は自分の分を白石さんにリクエストした。
あくまで自分の種目を確認するため、という体裁。周囲でも、体育祭の出場種目がわかったと聞いて、おもに男子たちが出場種目リストを求めて白石に群がり始めている。いち早く紙を受け取った私は、混雑を避けてさっさと席についた。
席に着くと、自分の種目より興味の方を優先させた。そのためにわざわざ機先を制したのだから。
葉月莉緒、赤組。種目、騎馬戦、障害物競走、選抜リレー、ムカデ競争? 四種目も?
なんだか、見事に穴埋め要員にされたみたいだ。最低二種目参加、多くて三種目の人が多いなか、四つは珍しい。彼のためにプリントの表枠が増設してあるから、表の中でその名前はやけに目立った。
騎馬戦は、体力馬鹿どもには人気があるけど、一騎仕立てるのに四人いるから人数が要る。障害物競走は中学と似たような内容なら、何気に体力勝負で敬遠されがちだし、リレーはチームの責任と体力面がつらい。ムカデ競争は未知数。
まあ、たくさん選ばれて張り切る人も中にはいるのだろうけど。
葉月莉緒くんがどんな反応を示しているのか、背中からでは当然わからない。
「白石さん、ありがとう。がんばるよ……でも、プリントは出したはずなんだけど。いまから訂正って間に合うのかな」
言葉を少し飲みこみかけていた、と、私はそう思ったが、葉月莉緒くんはちゃんと言った。それで私は思い出した。彼女……間違えた、彼は一昨日、吟味に吟味を重ねる私より先に席を立ち、プリント提出ボックスに丁寧に置いたのを。当然、彼は私の前の席だからよく見える。
席に戻ってきたとき、彼は私に言ったのだ。
『良い種目にあたるといいね』 と。
そうだ、間違いない。
私は席を立って白石に言った。
「私、葉月くんがプリントを提出ボックスに入れたのをみたわ」
提出したはずの物がない。そこに明確な悪意を感じとると、葉月莉緒くんを守るという感情よりは、悪意に対する嫌悪が勝った。
「白石さん、クラス選出の実行委委員として、委員会に修正を掛け合えないの?」
「で、でも提出期限、過ぎちゃってるし……」
この弱虫、って苛立ちが顔に出たかもしれない。白石はちょっとびくついていたけど、これ以上ごり押しする義理もない。当の葉月くんが、それ以上強く言わないからだ。




