第3章 相対的貧困と生きる若者たち ——「働いているのに貧しい」現実
東京・山谷での孤独死取材を終えた新聞記者・井川真由は、記事への反響の乏しさに失望感を抱えていた。編集デスクの小山からは「内容は良かったが、読者が自分事と捉えにくかったのかもしれないな」と言われ、あらためて「伝える」という行為の難しさを突きつけられた。
そんなある日、深夜残業中のオフィスで小山が声をかけてくる。
「真由、最近“相対的貧困”って言葉を耳にしないか?
若者が“働いてるのに貧しい”って嘆いてるんだ。なにも山谷だけが貧困の象徴じゃない。ここに目を向けろ。」
家がなく路上で暮らす“絶対的”な困窮者とは違うため、イメージが湧きにくい。しかし“若者も困っているらしいぞ”という小山の勘は侮れない。山谷で見た現実と根っこが繋がっている気もして、真由は重い気持ちを抱えながら取材を始めることにした。
1.NPO職員・柴田からの紹介
まず真由は、山谷取材で知り合ったNPO法人の若手スタッフ・柴田陽太に連絡を取った。彼は生活困窮者支援を行っており、非正規就労や低収入に苦しむ若者とも日常的に関わっているという。
「山谷ほどわかりやすい悲惨さはないかもしれません。でも“食べるものに全く困らない”とも限らない。
失職や体調不良が一度重なるだけで、家賃が払えなくなる若者も多いですよ。」
柴田の言葉には力がこもっていた。真由は、単なる“自己責任論”では片付けられない世界があると実感する。柴田はさらに言う。
「今度、当事者の座談会をやるので来てみませんか? その前に、何人か個別に会ってみたらどうですか。たとえば、派遣社員の田上くんとか……」
そうして真由の新たな取材先が決まった。
2.若年派遣社員・田上とのファミレス面会
翌日、真由は都内のファミレスへ向かった。待ち合わせの時間より早めに入店すると、すでにソファ席でうつむきながらメニューを睨んでいる青年がいた。田上祐樹、二十三歳。パーカー姿で、やや疲れ切った表情が印象的だ。
「あ、はじめまして……。柴田さんから話は聞いてます。俺、派遣でいくつか仕事掛け持ちしてるんですけど……何から話せばいいんでしょう。」
初対面の硬さが抜けないまま、真由は自己紹介をし、取材の趣旨を伝える。田上は倉庫での仕分け作業や、飲食店のホール勤務など、同じ派遣会社から紹介される仕事を日替わりでこなしていた。
週あたりの勤務時間:深夜や早朝のシフトも含めて週6日働くことも珍しくない。
月の手取り:シフト数次第だが、多くて13万円前後。体調が悪くなり欠勤すると、翌月の収入は激減。
住居:都内の端にある木造アパート。家賃は月5万円+共益費。築数十年で風呂なし。風呂代わりに近所の銭湯へ通っている。
「派遣切れになることもあるし、何かあったら一瞬で終わりますよ。貯金? してる余裕ないです。昼飯も安いカップ麺か100円のパンで済ませてるし……。」
彼が口に運んだドリンクバーのコーラは、マグサイズより小さいグラスいっぱい。おかわり自由でも、そのたびに立ち上がる気力がないのか、こぼれ落ちるように「もう疲れますね……」と呟く。真由は記者ノートに走り書きをしながら、どこか申し訳なさを感じた。自分は会社の経費で取材できる立場だが、彼にとってはファミレスのドリンクバーの数百円も負担なのだ。
「正社員になろうと面接行っても『派遣とバイトしかやってないから、即戦力にならない』とか言われて終わり。もっと若い人に来てほしいって言われたことも。俺、23ですよ? 若い方だと思ったのに……。」
すでに“レールから外れてしまった”という焦りと不安が、彼の表情に貼りついている。真由は心の中で「23歳で“年齢を理由に跳ねられる”なんて……」と驚きを禁じ得ない。
3.シングルマザー・中山母娘の暮らし
続いて真由は、柴田が紹介するひとり親家庭の女性・中山清美(48歳)を訪ねる。場所は都内の公営団地だ。エレベーターで上がっていくと、廊下の端にある角部屋のドアに表札が出ている。
部屋に入ると、奥から高校生の娘が「こんにちは」と挨拶をしてくれた。狭いながらも整頓されたリビングには、娘のバスケットボールのユニフォームやトロフィーが飾られている。
「朝はスーパーのレジ。終わったら家で夕食を娘と一緒に食べて、夜の清掃バイトに行くんです。月に14~15万くらい……もちろん、母子手当もあるけど、それを合わせてもギリギリですね。」
中山が資料袋から取り出した家計簿には、食費・光熱費・学費関連の赤字が目立つ。娘が遠征試合を控えると、交通費や合宿費が想定外にかさむ。すると中山は土日の臨時バイトも探すことになる。
「学校の先生には『娘さん、才能ありますからもっと強豪校に行くのもいいかも』って言われたんです。でも塾に行かせる余裕もないし、家計が苦しいからちょっと難しくて……。」
娘は「部活が好きで続けたいけど、遠征費はなるべく安くなるように工夫するし、ユニフォームもなるべく買い換えないように頑張る」と微笑む。窓の外では大人の背丈ほど伸びた雑草が団地の隙間に生えている。エアコンは年季が入っていて動きが悪いようで、真由が蒸し暑さに汗をかく一方、中山は「節電のためになるべく扇風機だけで済ませたい」と笑ってみせる。
「何度か『生活保護を利用したら』って、知り合いに言われたこともあるんです。でもやっぱり、娘がいじめられたらとか、周囲の目を気にしちゃって……。」
その声は自嘲気味であり、同時に“母としての意地”も感じられた。「働いているのに貧しい」現実は、ここにも確かに存在する。
4.当事者同士の座談会 ——“孤立”が生む苦しみ
さらに柴田は、支援活動の一環で「若者の声を共有するための座談会」を開くという。夕方から雑居ビルの会議室を借りて十数名が集まり、真由も取材させてもらうことになった。
室内には田上らしき姿もあるが、彼とは別の角に、ネットカフェ生活中の遠藤大志(34歳)が座っている。遠藤は生真面目そうな顔立ちだが、緊張で足を小刻みに揺らしていた。
「実家を出てからは、ネットカフェか友人の部屋を転々としてます。何度か日雇いバイトをしたけど、長続きせず……。
そもそも引きこもり期間が長かったから、ちゃんと働いた経験がほとんどない。病院に行きたいんですけど住所不定だと健康保険の手続きも難しくて……。」
彼の隣には、漫画家志望の藤井志穂(22歳)が頬杖をついている。バイト掛け持ちしながら漫画を描くが、体力を削られてなかなか創作に集中できないという。
「バイト減らしたら家賃が払えなくなる。かといって働きすぎると描く時間がなくなるし、体力もなくなる……。これがずっと続くと考えると、心が折れそうになります。」
座談会が始まると、互いの事情を聞いた当事者同士が「わかる」と頷き合う場面が増えた。真由は、彼らが直接言葉を交わす光景に目を奪われる。誰かが一人で語るときよりも、本音をこぼしやすいのかもしれない。
「いつ崩れてもおかしくない暮らし。身近な友だちには言いづらい……っていうか『そんなん甘えでしょ』と返されるのが怖くて。結局、黙って笑ってるだけになっちゃうんです。」
そうこぼしたのは田上だ。遠藤も「僕だって親からは“もう34にもなって何やってんだ”って毎回責められる。だから実家に戻るのも嫌で……」と苦笑する。
“どこかで誰かに理解してもらいたいが、言えない”という孤立感が、彼らをじわじわ締めつけている。それは山谷の“絶対的困窮”とは違う形の苦しみだが、放っておけば同じく危うい末路に繋がってしまいそうだ。
5.主人公・真由の揺れる心 ——「また届かないのでは」
座談会終了後、参加者たちが三々五々帰っていく中、柴田が真由に声をかける。フロアに置かれた自動販売機の脇で、二人で紙コップのコーヒーを啜りながら話す。
柴田「どうでした? この声、社会に届けたいですよね。けっして怠けてるわけじゃないのに、追いつめられてる人って、思ったより多い。僕は年越し派遣村の頃からずっと見てきましたけど、あの頃より増えてる気さえします。」 真由「驚きました。23歳でも“もう遅い”とか……しかも実際に職に就きにくいんだから、単なる思い込みじゃない。
でも書いたところで“働けるならいいじゃん”とか、“本人の努力不足”で済まされるんじゃないかと思うと、また無力感を感じます。」
真由の中には、山谷の孤独死記事を書いたのに“世間の大半が動かなかった”という記憶が重くのしかかっていた。柴田はコーヒーを見つめ、苦笑する。
柴田「それでも、読んで何か行動を起こした人はいるかもしれませんよ。たとえば『家族や友人の様子を気にかけるようになった』とか、『社会の仕組みを調べてみた』とか、数字に出ない変化だってある。
支援だって同じです。全員を助けられなくても、目の前の一人二人を救えたら続ける価値があると思ってやってます。」
真由はぐっと唇を噛み、一瞬目を伏せる。そうだ、自分があれほど「孤独死は他人事じゃない」と訴えたのに、読者の声が数字に現れなかっただけで「何も変わらない」と早合点していたかもしれない。
6.報道の使命 ——“隣の問題”として書く
その夜、真由は職場に戻り、深夜の編集フロアでPCに向き合っていた。周囲には数人しか残っておらず、蛍光灯が冷たく光る。田上や中山、遠藤たちの話を思い返しながら、ノートをめくる。
「……派遣の不安定さ、複数バイトと子育ての両立、ネットカフェ難民状態の精神的ストレス、夢を諦めきれないフリーターの焦り……。
こんなの、個人の頑張りでどうこうなるレベルじゃないのに、それを見えにくくするのが“相対的貧困”なのか……。」
山谷取材で見た“家がない、食べるものがない”ほどの絶対的貧困と比較すると、家やバイト先が“いちおう”ある分、周囲からは深刻に扱われづらい。それが「働いても報われない」人々をさらに孤立させる要因でもある。真由はそのことを文章に盛り込もうと決意する。
キーボードを叩きながら、ふと頭をよぎるのは、次のような疑問だ。
——「もし、あともう一歩何か不運が重なれば、彼らもホームレス状態になるのでは? あるいは家族の支えがなければ自分だって同じかもしれない」
——「それなのに多くの人は、『まだ路上にはいないなら大丈夫』と安心してしまうのだろうか?」
深夜2時を回ったころ、彼女は記事の結論にこうした一節を入れた。
「日本で生活保護を利用している人々の多くが高齢者や失職者だとされるが、若い世代においても“あと一歩で保護が必要になる”境界線上の人は少なくない。
一見普通に働いているように見えても、貯金がほとんどなく、親とも疎遠、保証人もいない。体調を崩したら一気に住まいを失う——それは私たちの隣りにある問題であり、“本人の努力不足”だけでは語れない構造が存在する。
山谷の孤立死のようなケースは、こうした『見えない貧困』がさらに進んだ先にあるのかもしれない。」
最後に、彼女は再度ファイルを読み返し、何度か推敲を重ねる。やがて少しだけため息をつくと、デスクに送信ボタンを押した。
7.深まる疑問
翌朝、オフィスで顔を合わせた小山は「相対的貧困についてここまで掘り下げた記事は読み応えある」と評価をくれたが、同時に苦い顔で言った。
「ただ、数値や当事者の話だけじゃ『また同情されて終わり』になりかねないからな。お前自身がどう見たか、どう考えたかをもっと踏み込んで書け。
それから、柴田くんが言ってた“脱法ハウス”とか“貧困ビジネス”の実態もちらほら耳にする。そこまで踏み込めば、ただの同情記事じゃなくなるかもな。」
真由は“貧困ビジネス”というフレーズに胸がざわつく。山谷の簡易宿泊所で起こった孤独死も、安価な住まいが故に起こりやすい悲劇だった。若者の相対的貧困が、あのドヤ街をはじめとする“食いつぶし”の仕組みとどう結びつくのか、考えるだけで頭が痛い。
それでも、書かねばならない——。相対的貧困の背後にある闇を知るには、まだ多くの現場を回る必要があると真由は心の中で決意を新たにするのだった。