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見えない貧困 ― 社会の隙間で生きる人々  作者: 冷やし中華はじめました


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喰い物にされる命

パート1:甘い罠


 大谷章の「空白の数年間」を知る人物。  柴田が紹介してくれたのは、有田ありたという四十代の男だった。  待ち合わせ場所に指定されたのは、上野公園の噴水広場だった。  八月の猛暑日。アスファルトが陽炎かげろうを揺らめかせている中、有田はベンチの端に、まるで置物のように小さく座っていた。  くたびれたポロシャツに、底のすり減ったサンダル。日焼けした肌は健康的というより、路上生活特有の油膜が張ったような黒さを帯びている。  彼もまた、現在はネットカフェと路上を行き来する生活を送っているという。


「……井川さん、ですか」  真由が声をかけると、有田はビクリと肩を震わせ、怯えた小動物のような目でこちらを見た。 「あ、はい。そうです。有田さんですね」  真由は努めて柔らかな声を出した。警戒心を解くため、自販機で買ったばかりの冷たいお茶を差し出す。  有田は震える手でそれを受け取り、一気に半分ほど飲み干した。喉が鳴る音が、彼の渇きを物語っていた。


「柴田さんから聞きました。あんた、あの『S荘』のことを調べてるんだって?」  S荘。それは、大谷章が山谷のアパートに移る前、二年間ほど滞在していたとされる「無料低額宿泊所」の通称だ。 「はい。大谷さんがそこでどう過ごしていたのか、知りたいんです」 「……地獄だよ」  有田は吐き捨てるように言った。 「あそこは、人を助ける場所じゃねえ。人間を家畜みたいに飼って、金を搾り取るための養鶏場だ」


 有田は語り始めた。彼が大谷と出会ったのは、その施設に入る直前、まさに「狩られる」瞬間だったという。  場所は、新宿の都庁下。炊き出しの列だった。  当時の大谷は、離婚して家を出てから数ヶ月、ネットカフェを転々とし、所持金が尽きかけていた。 「俺も大谷さんも、ボロボロだった。腹は減ってるし、風呂にも入ってない。これからどうなるんだろうって、頭の中が真っ白で……思考停止状態だったんだ」  人間は、極限まで空腹と疲労に追い込まれると、正常な判断力を失う。「助けてくれるなら誰でもいい」という心理状態に陥るのだ。


 そこに、男が現れた。  清潔な白いシャツを着た、三十代くらいの男。柔和な笑顔を浮かべ、手にはカラフルなチラシを持っていた。 『即入居可! 敷金・礼金ゼロ』 『三食付き、個室あり、生活再建サポート』  ポップな丸文字で書かれたその文言は、絶望の淵にいた彼らにとって、天から垂らされた蜘蛛の糸のように見えたはずだ。


「男は言ったよ。『大変でしたね。もう大丈夫ですよ。うちに来れば、温かいご飯も、布団もある。役所の手続きも全部手伝いますから』って」  有田は悔しげに唇を噛んだ。 「あの時の俺たちには、その男が神様に見えたんだ。……でも、よく見れば分かったはずなんだ。男の目が、全然笑ってないことに。あれは、獲物を品定めする爬虫類の目だった」  真由は想像した。  元エンジニアとして論理的に生きてきた大谷が、なぜそんな怪しい話に乗ったのか。  それは、彼が愚かだったからではない。  「誰かに優しくされたい」「もう一人で戦わなくていい」という、切実な渇望があったからだ。  その心の隙間に、男は正確に毒針を打ち込んだのだ。 「車に乗せられた時、大谷さんは泣いてたよ。『ありがとうございます、ありがとうございます』って、何度も頭を下げて……」


 車は、救済の地へ向かうノアの方舟はこぶねではなかった。  彼らを乗せたワンボックスカーが到着したのは、埼玉県の郊外にある、窓の少ない古びた倉庫のような建物だった。


パート2:ベニヤ板のひつぎ


 有田の証言を元に、真由はその「S荘」があった場所を訪れた。  すでに施設は閉鎖され、更地になっていたが、当時の写真や図面を入手することができた。  そして、現在も似たような形態で運営されている別の施設を取材し、その内部の光景を目の当たりにした。


 そこは、「部屋」と呼べる代物ではなかった。  かつてオフィスか倉庫だった広いフロアが、薄いベニヤ板によって蚕棚かいこだなのように細かく区切られている。  一つの区画は、わずか二畳ほど。  身長一七〇センチの大人が横になれば、頭と足が壁につく狭さだ。  そして、何より異様なのは、「天井」がないことだった。  ベニヤ板の仕切りは高さ二メートルほどで止まっており、その上は空間が繋がっている。  つまり、音も、光も、臭いも、すべてが筒抜けなのだ。


「プライバシーなんて、あるわけねえ」  有田の声が蘇る。 「隣の奴の寝息、咳、おなら、独り言……全部聞こえる。ビニール袋をガサガサさせる音だけで、殺意が湧くんだ」  真由は、その空間に大谷章が置かれたことを想像し、戦慄した。  かつては静かな郊外のマンションで、家族と暮らしていた男。  深夜のリビングの静寂さえも苦痛だった彼が、このノイズの洪水の中に放り込まれたのだ。


 空気は澱んでいた。  窓は目張りされ、換気扇は回っていない。  そこに漂うのは、カビの臭い、カップラーメンのスープの残り香、何日も風呂に入っていない男たちの体臭、そして安っぽい消臭スプレーの刺激臭。  それらが混ざり合い、鼻の奥に粘りつくような不快な「貧困の臭気」を形成していた。


「これが、『個室』?」  真由は取材した施設の廊下で、思わず口元を手で覆った。  案内してくれたNPOのスタッフが、小声で教えてくれた。 「建築基準法上は、これでも『簡易宿泊所』として届出が通ってしまうグレーゾーンがあるんです。消防法もギリギリ。火事になったら、奥の部屋の人は逃げられません」


 まさに、「ひつぎ」だ。  生きたまま人間を閉じ込める、ベニヤ板の棺桶。  ここに入ったが最後、入居者は外界との接触を断たれ、思考を奪われていく。  大谷もまた、この二畳の箱の中で、膝を抱えて震えていたのだろうか。  あの第3章で見た、深夜のソファでの姿と同じように。  だが、ここでは「家族」というクッションすらない。あるのは、同じように搾取され、絶望した他人の気配だけだ。


 しかし、本当の地獄は、この劣悪な環境そのものではなかった。  彼らを逃さないために張り巡らされた、巧みで冷酷な「搾取のシステム」にあった。


パート3:搾取のシステム


 上野公園のベンチ。  有田は、飲み干したペットボトルを握りつぶし、その乾いた音と共に語り出した。


「施設に入った翌日だ。俺たちは事務所に呼ばれて、ある『契約』をさせられた」  契約といっても、紙切れ一枚に判子を押すだけの簡単なものだ。だが、その内容は魂を売り渡すに等しかった。 「『金銭管理契約書』だよ。俺たちは金がないから、まずは生活保護を申請させられる。役所への手続きは全部職員がやってくれる。ここまでは親切だ。……問題はその後だ」


 有田の手が、怒りで震えていた。 「支給日が来ると、俺たちは車に乗せられてATMに行く。そこで保護費の十三万円全額を引き出させられて、その場で職員に手渡すんだ。通帳と印鑑も、ハンコ一つ自由に使えないように『管理』という名目で没収される」  全財産の没収。  それは、彼らから「逃亡する資金」を奪うことを意味していた。


「で、俺たちの手元に戻ってくるのはいくらだと思う?」  有田は指を一本立てた。 「一日、千円だ」  真由は息を呑んだ。 「千円……ですか」 「ああ。家賃、食費、光熱費、管理費、布団代……あらゆる名目で天引きされて、残るのは三万円ぽっち。それを日割りで渡される。千円じゃあ、タバコとコーヒーを買ったら終わりだ。電車に乗ってどこかへ逃げる金なんて、一生貯まらない」


 完璧なシステムだった。  入居者を「生かさず殺さず」の状態に留め置き、毎月確実に十三万円の利益を生む「家畜」として飼育する。  だが、真由がさらに戦慄したのは、その「対価」として与えられるものの粗悪さだった。


「食費だけで、月四万円も引かれてた。四万だぞ? それなりの飯が食えるはずだろ」  有田は顔を歪めた。 「実際に出たのは、スーパーの廃棄寸前の惣菜と、伸びきったカップ麺。ひどい時は、白飯と梅干し一個だけだ。野菜なんて、変色したキャベツの千切りが週に一回出るかどうかだ」  真由の脳裏に、大谷のレシートにあった『強力わかもと』の文字が蘇った。  彼はここで、慢性的な栄養失調と胃腸障害に苦しめられていたのだ。  四万円を払い、残飯のような餌を与えられる屈辱。 「文句を言えば、『嫌なら出て行け』だ。外には戻りたくない。飢えたくない。だから俺たちは、黙って梅干しを啜るしかなかった。……惨めだったよ。人間としての尊厳なんて、とっくにゴミ箱行きだ」


パート4:抵抗と絶望


 そんな無気力な日々の中で、大谷章だけは違っていたという。  入所して一ヶ月ほど経った頃のことだ。


「ある日、事務所のパソコンがトラブルを起こしたんだ。ネットが繋がらないとかで、職員たちが騒いでた」  有田はその時の光景を鮮明に覚えていた。  たまたま掃除当番で近くにいた大谷が、その騒ぎを聞きつけた。  その瞬間、彼の背中がスッと伸びた。  彼は無言でデスクに近づき、職員が止めるのも聞かず、キーボードに手を伸ばした。 「早かったよ。カタカタカタッて、すげえ勢いでキーを叩いてさ。一分もしないうちに『直りました。IPアドレスの競合です』って言ったんだ」


 その時の大谷の顔を、有田は忘れられないと言った。  ドヤ街の薄汚れたオヤジではない。  かつて日本の金融システムを支えた、誇り高きエンジニアの顔。  自分のスキルが役に立った。自分はまだ、能無しではない。  その瞳には、久しぶりに「生」の光が宿っていた。 「俺も見てて嬉しかったよ。すげえじゃん、大谷さんって。……でもな」  有田の声が沈んだ。


 職員の反応は、感謝ではなかった。  三十代くらいの、ジャージを着た職員が、大谷を冷ややかな目で見下ろした。 『……余計なことすんなよ、オッサン』  職員は、直った画面を見ることもなく、大谷の手を乱暴に払いのけた。 『お前は黙って掃除してりゃいいんだよ。調子に乗るな』  暴力的な言葉だった。  それは、「お前には人間としての能力など求めていない」「ただ黙って金を産む家畜でいろ」という宣告だった。


「大谷さん、凍りついてたよ。差し出した手が、宙に浮いたままで……」  その瞬間、大谷の中で何かが砕け散る音が聞こえた気がしたと、有田は言った。  プライド。自己効力感。希望。  かろうじて残っていたそれらが、粉々に粉砕されたのだ。


 その夜から、大谷は変わってしまった。  誰とも口を利かなくなった。  食事の時間になっても、出された餌を機械的に口に運ぶだけ。  彼の目は、死んだ魚のように濁り、焦点が合わなくなった。 「心が、死んじまったんだ。殴られたわけじゃねえ。でも、あの一言で、彼の魂は殺されたんだ」


 学習性無力感。  何をしても無駄だという絶望が、人をロボットに変える。  大谷は、ベニヤ板の檻の中で、ただ呼吸をするだけの有機物になり果ててしまった。  有田は、震える手でタバコを取り出し、火をつけた。 「俺は怖くなって逃げ出したけど……大谷さんは、逃げる気力さえ奪われてた。あそこは、そういう場所なんだよ。心を壊して、逃げられないようにする」


 真由はペンを握りしめすぎて、指が白くなっていた。  許せない。  大谷章という一人の人間が積み上げてきた技術や人生を、こんな安っぽい悪意が踏みにじったことが。  だが、そんな彼が、なぜ最後にはあの施設を出て、山谷のアパートに辿り着いたのか?  心が壊れたはずの彼が、どうやってその檻を破ったのか?


「……有田さん。大谷さんが施設を出た時のこと、何か聞いていませんか?」  真由の問いに、有田は紫煙の向こうで目を細めた。 「噂だけどな。……彼、追い出されたんじゃなくて、自分から『消えた』らしいんだ」


パート5:最後の逃走


「……消えた?」  真由の問いに、有田は深く頷いた。


「ああ。ある朝、点呼の時間になっても大谷さんが起きてこない。職員が部屋を見に行ったら、布団がもぬけの殻だったそうだ」  有田は、足元の鳩を見つめながら言った。 「あそこは夜中も見回りが厳しい。逃げ出すなんて不可能に近い。でも、彼はやったんだ。窓の目張りを爪で剥がして、二階から雨樋あまどいを伝って降りたらしい」


 爪で剥がして。  真由は、第3章で見た美佐子の荒れた手を思い出し、そして第1章で見た大谷の遺品の段ボール箱を思い出した。  箱に入っていたスニーカーの底は、極限まですり減っていた。  彼は、あの埼玉の施設から、東京の山谷まで、何十キロもの道のりを歩いたのだ。所持金などほとんどなかったはずだ。


「どうして、急に逃げたんでしょうか。心が壊れていたのに」 「……俺の想像だけどな」  有田はタバコの煙をゆっくりと吐き出した。 「彼は、自分が『人間』でいられる最後のタイムリミットを悟ったんじゃないかな」


 有田の話によれば、大谷が消える数日前、同じ施設にいた高齢の入居者が亡くなったという。  その男もまた、元は大工の棟梁だったが、ここではただの金づるとして扱われていた。  男が死んだ時、職員たちは悲しむどころか、舌打ちをしたそうだ。 『チッ、面倒だな。次の入居者を探さないと』  その言葉を、大谷は聞いていたのかもしれない。  このままここにいれば、自分もまた、ただの「空きが出た在庫」として処理される。  誰にも知られず、誰にも惜しまれず、システムの一部として廃棄される。


「だから、逃げたんだよ」  有田の声に、微かな熱がこもった。 「野垂れ死にするかもしれない。飢え死にするかもしれない。それでも、あんな場所で『家畜』として殺されるよりは、外で『人間』として死ぬことを選んだんだ」


 真由の脳裏で、カチリとパズルのピースがまった音がした。  第1章。  山谷のカビ臭いアパート。三畳一間。  真由はあの部屋を「孤独で惨めな最期の場所」だと思っていた。  だが、違ったのだ。  あのアパートは、大谷章が命がけで奪還した「城」だったのだ。  誰にも管理されず、自分の好きな時に起き、自分の好きなものを(たとえそれが百十円のおにぎりであっても)買い、自分の意志で生活をするための、最後の砦。


 ノートに残された『誰にも知られずに、このまま消えてしまうのだろうか』という言葉。  あれは、単なる嘆きではない。  施設で味わった「透明人間にされる恐怖」との、必死の闘いの記録だったのだ。  彼は最期の瞬間まで、自分が自分であることを手放さなかった。  あの部屋で一人で死んだことは、敗北ではない。  巨大な搾取システムに対する、彼なりの静かで、壮絶な勝利だったのかもしれない。


「……有田さん、ありがとう」  真由はベンチから立ち上がった。  胸の奥で、熱い塊が燃えていた。  それはもう、可哀想な老人への同情ではない。  戦い抜いた一人の男への敬意と、彼をそこまで追い詰めた連中への、冷徹な怒りだった。


「俺からも頼むよ」  有田は真由を見上げ、初めて弱々しい笑みを浮かべた。 「大谷さんのこと、書いてやってくれ。あそこで死んでいった仲間たちの分も」 「約束します。必ず」


 真由は上野公園を後にした。  西郷隆盛像の横を通り過ぎ、駅へと向かう雑踏の中で、彼女はスマートフォンを取り出した。  検索画面に打ち込んだのは、あの悪徳施設の運営母体の名前だ。  『NPO法人 輝きのもり』  美しい名前を冠したその団体の代表者名を探り当てる。  その男こそが、大谷章を、そして数多くの弱者たちを食い物にし、私腹を肥やしている元凶だ。


 取材は終わった。  大谷章の人生の軌跡は、すべて繋がった。  技術者としての栄光。  構造的な排除。  家庭の崩壊。  そして、貧困ビジネスによる搾取と、そこからの脱出。


 次は、書く番ではない。  その前に、やるべきことがある。  真由は編集部の小山デスクに電話をかけた。  コール音が鳴る。 「……はい、小山です」 「井川です。デスク、大谷さんの件、裏が取れました。貧困ビジネスの核心に切り込みます」  真由の声は、自分でも驚くほど低く、落ち着いていた。 「相手はタチが悪いです。訴訟をちらつかせるかもしれません。それでも、やらせてもらえますか」


 電話の向こうで、小山が短く息を吸う音が聞こえた。  そして、ニヤリと笑う気配が伝わってきた。 『面白い。ウチの社会部は、そういう喧嘩を買うためにあるんだ。……徹底的にやれ』


 通話を切る。  真由は夕暮れの上野駅を見上げた。  巨大なターミナル。ここから、多くの人が夢を抱いて東京へ、そして傷ついて去っていく。  大谷章もその一人だった。  だが、彼の物語はここで終わらない。  私のペンが、彼の声を、怒りを、この社会に刻みつける。


 真由はヒールを鳴らし、改札へと向かった。  その足取りに、もう迷いはなかった。

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