【第2話】夜の底に沈む声
南の風が、潮の香りとともに街全体をねっとりとした湿度で包み込む梅雨の入り口。
古びた木造建築の占い処の窓を、パタパタと不規則な雨粒が叩いていた。
前回の立花葵が去ってから数日。
店主である阿門甲斐吽は、薄暗い部屋の隅で古い真鍮の香炉にゆっくりと新しい香木をくべていた。
立ち昇る白檀の煙が、部屋の澱んだ空気を微かに揺らす。
看板のないこの場所を訪れる者は、いつも自らの足で、しかし限界を迎えた心を引きずるようにやってくる。
ガチャリ、と、控えめな金属音が響いた。
「どうぞ」
甲斐吽が静かに声を掛けると、重い木製の扉がわずかに押し開けられた。
そこから顔を覗かせたのは、高校生の制服に身を包んだ少年だった。
名は、真田蓮。
私立の進学校に通う、どこにでもいそうな少年……に見えたが、その肩は小さく震え、目の下に深く刻まれたクマが、ここ数日まともに眠れていないことを物語っていた。
蓮は気まずそうに周囲を見回し、おずおずと部屋へ足を踏み入れた。
濡れているのは、雨のせいだけではないらしかった。
冷や汗と、得体の知れない恐怖が彼の全身を支配している。
「……ここ、本当に占いが、できるんですか」
震える声で尋ねる蓮に対し、甲斐吽は表情一つ変えず、ただ対面の席に置かれた木製の椅子をそっと引いた。
「いらっしゃい。雨に濡れましたね。まずは、そこに座りなさい」
甲斐吽の落ち着き払った声と、部屋を満たす温かな香炉の匂いに気圧されたのか、蓮は観念したように椅子に腰を下ろした。
しかし、膝の上で握りしめられた拳は、白くなるほど強く固く閉じられていた。
「何か、重い荷物を背負っているようですね。……言葉にできるところからで構いませんよ」
甲斐吽がそう促すと、蓮はしばらく俯いたまま沈黙していたが、やがて絞り出すようにぽつりと言葉を零した。
「俺は……友人を、殺したかもしれないんです」
部屋の空気が、一瞬にして凍りついた。
外で降る雨の音が、妙に大きく室内に響き渡る。
「……詳しく聞かせていただけますか」
甲斐吽の声には驚きの色はなく、ただすべてを受け入れる深い静けさがあった。
その態度に救われたのか、蓮は堰を切ったように、震える声で語り始める。
「数日前、放課後の旧校舎の屋上で、親友の拓海と口論になったんです。小さな言い争いでした。どちらが部活のレギュラーにふさわしいか、そんな、くだらないことだったはずなのに……。だんだんとお互いの感情が高ぶって、俺は、拓海を強く突き飛ばしてしまったんです」
蓮の目から、大粒の涙がポロポロと床の上に落ちた。
「屋上のフェンスは低かった。拓海はバランスを崩して、そのまま……。でも、警察にも、学校にも、誰もそんな事件は起きていないって言われるんです。ニュースにもなっていない。拓海の親も、先生も、拓海は昨日も元気に学校に来ていた、お前は何を言っているんだって……。そんなはずない、俺は自分の手で、あいつをあのフェンスから落としたのに……!」
蓮は自分の両手を見つめ、まるで血でもついているかのように激しく震えさせた。
「俺はおかしくなったんでしょうか。それとも、俺の記憶違いで、全部夢だったんでしょうか。怖くて、夜も眠れなくて、自分の部屋にいると、あのときの拓海の目の色が脳裏から離れないんです。助けてください……俺は一体、どうしてしまったんですか」
それは、現実の事件か、それとも極度のプレッシャーが生んだ幻覚か。
あるいは、少年の心が作り出した悪夢か。
甲斐吽は微動だにせず、蓮の苦悩のすべてをその眼差しに映し出していた。
光も闇も分け隔てなく受け止める彼の瞳には、蓮が抱える深い闇の輪郭が正確に捉えられていた。
「……なるほど」
甲斐吽は静かに立ち上がり、棚の奥から古びた木箱を取り出した。
中から取り出されたのは、前回葵のときにも使われた、神秘的な光を放つタロットカードだった。
シャッフルされるカードの音が、静かな店内に乾いたリズムを刻む。
「人というものは、自分の都合のいいように記憶を書き換えることもあれば、逆に、あまりの恐怖に耐えかねて、起きていない現実を自分の罪として背負い込んでしまうこともあります。真田くん、あなたが今見ている世界は、本当にあなたが望んだものですか」
甲斐吽はカードをテーブルの上に広げた。
最初にめくられたのは、『正義』の逆位置。
偏った視点、不当な自己処罰を意味するカードだった。
「カードは告げています。あなたは、ご自身を罰するために、この幻影を作り出しているのだと」
「罰する……? 俺が、わざとこんな恐ろしい夢を見ているって言うんですか?」
「夢ではありません。それはあなたの心が発している、あまりにも強い祈りのようなものです。……あなたは、拓海くんに対して、普段から何か負い目を感じていたのではありませんか?」
甲斐吽の問いかけに、蓮の息が止まった。
図星を突かれた少年の顔から、血の気が一気に引いていく。
「……俺は、ずっと、拓海に嫉妬していた」
蓮は両手で机を叩くと声を絞り出した。
「あいつは努力しなくても何でも器用にこなして、いつも周りに人がいて……俺なんか、いくら努力してもいつも二番手で。だから、心のどこかで、あいつがいなくなればいいって、本気で思っていたんです。だから……だからあのとき、突き飛ばした瞬間、俺は心の底で『ざまあみろ』って思った。それが……それが本当の俺なんです」
咽び泣く蓮の背中を、外の雨音が優しく包み込むように叩いていた。
自分が抱いた黒い感情。
それを自らの口で認めた瞬間、蓮の肩から、鉛のように重かった何かが少しだけ剥がれ落ちた。
甲斐吽は優しく首を横に振った。
「人間の心には、光だけでなく、誰もが目を背けたくなるような闇の領域も存在します。それを認めることは、決して容易ではありません。けれど、その闇があるからこそ、あなたは他人の痛みに気づき、本当の意味で優しくなれるのです。拓海くんが無事なのは、あなたの世界があなたを罰するのをやめ、もう一度やり直すチャンスを与えてくれているからではありませんか」
甲斐吽が最後に、もう一枚のカードをめくった。
そこには、新しい朝の光の中を歩き出す旅人の姿が描かれていた。
「答えを恐れてはいけません。過去に置き去りにした心の歪みも、これからの未来を創るための鍵になります。明日、学校に行きなさい。そして、拓海くんにあなたの言葉で、ちゃんと向き合うのです」
その言葉を聞いたとき、蓮の胸の奥にあった冷たい塊が、ゆっくりと溶けていくのが分かった。
許されたわけではない。
けれど、逃げ出すのではなく、自分の足で現実と向き合うための覚悟が、少年の胸に小さな火を灯した。
「……はい。明日、ちゃんと、話してきます」
蓮が顔を上げたとき、その目にはさきほどまでの怯えた色はなく、覚悟を決めた強い光が宿っていた。
占い処の扉を開けると、外の雨はいつの間にか止み、南の風が湿った空気を吹き払うように爽やかに通り抜けていった。
蓮がしっかりと前を向いて歩き出す背中を見送りながら、阿門甲斐吽は静かに息をついた。
迷いの中に意味を灯し、答えではなく気づきをあたえる。
人々の祈りを背負う男の静かな役目は、今夜もまた、ひとつの魂の扉を開いたのだった。
第2話(完)




