【第1話】南風の吹く場所
南風が、アスファルトの照り返しが残る街の空気を無理やりかき混ぜるように吹き抜けていく。
五月が終わろうとしているというのに、今年の南の風は妙に冷たく、少し湿っていた。
立花葵は、自分の足音が嫌だった。
コツ、コツ、と乾いたハイヒールの音が、静まり返ったビルの階段にやけに大きく響く。
もう何ヶ月も、この音を聞くたびに胃が締め付けられるような嫌な感覚を覚える。
設計事務所のデスクワーク。
コンピュータ支援設計 (CAD)の画面に向かい、言われた通りの線をひき、言われた通りの図面を修正する日々。
図面の上では、建物は完璧な対称を描き、美しい幾何学模様として完成していく。
しかし、そこで働く人間たちの動線や、窓から差し込む光の計算など、かつて自分が理想としていた「人のためのデザイン」は、いつの間にか効率という名の歯車の中にすり潰されていた。
私、何をやっているんだろう。
ふと、モニターの画面に映り込んだ自分の顔を見た。
そこにあったのは、生気のない、くすんだ目の女だった。
半年前のあのコンペの日のことが、今でも脳裏から離れない。
先輩の描いた基本プランに致命的な欠陥を見つけたとき、葵はそれを指摘すべきか迷った。
しかし、職場の空気を波立てることを恐れ、先輩の機嫌を損ねることを恐れ、葵は口を閉ざした。
その結果、施工段階で大きな手直しが必要になり、クライアントとの間に深い亀裂が入った。
すべての責任は、なぜか実務担当だった葵の確認不足ということにされ、始末書を書かされた。
誰も本当のことを言わない。
誰も責任を取らない。
冷え切ったオフィスの空気が、葵の呼吸を少しずつ奪っていった。
「……はぁ」
ため息をつく気力すらなかった。
気付けば、葵の足はいつもの帰り道とは違う方向へ向かっていた。
どこへ行くあてもなかった。
ただ、この息苦しい場所から離れたくて、ただひたすら歩き続けていただけだった。
ネオンがまばらに光る寂れた商店街を抜け、海沿いの古びた住宅街に迷い込んだとき、冷たい南風がふと止んだ。
街灯の少ないその一角に、妙に古い木造建築がぽツンと建っていた。
周りのコンクリートのビル群に取り残されたかのように、そこだけ時間が止まっているように見える。
看板はない。
ただ、窓の隙間から、どこか懐かしい香炉の匂いが外に漏れ出している。
遠い記憶の底を優しく揺り起こすような、白檀の香りだった。
葵の足が止まった。
頭で考えるよりも先に、心がその場所を求めていた。
名もなき悩みを抱えたまま、人は今日も扉を叩く――そんな言葉が、どこからともなく葵の脳裏に浮かんだ。
なぜそんな言葉が浮かんだのか自分でもわからない。
ただ、ここに行かなければならないという、奇妙な引力だけがあった。
木製の古びた扉に取り付けられた取っ手に手を伸ばす。
心臓がうるさいほどに脈打っていた。
逃げ出したい。
こんな得体の知れない場所に入るべきではない。
そう理性が警告を発しているのに、指先は勝手に力を込め、重い扉をそっと押し開いていた。
「……どうぞ」
部屋の中は、外の喧騒がまるで嘘のように静まり返っていた。
薄暗い照明に照らされた室内には、壁一面に古い本や見たこともない奇妙な道具が並び、中央に置かれた小さなテーブルを挟むようにして、一人の男が静かに座っていた。
彼の名は、阿門甲斐吽。
人々の祈りと向き合い続けてきた男だった。
その年齢を推し量ることは難しいが、深く落ち着いた佇まいと、すべてを見通すような静かな眼差しが、ただ者ではない気配をまとわせていた。
甲斐吽の目は、葵が言葉を発するよりも先に、彼女の震える指先や、強張った肩のラインから、その心の奥底にある傷を静かに読み取っていた。
「いらっしゃい。風が強い日ですね」
甲斐吽の声は低く、心地よい響きを持って葵の耳に届いた。
冷え切った心に温かいお茶が染み入るような、不思議な安心感があった。
葵は促されるままに、対面の椅子に腰を下ろした。
目の前に座る男を見つめていると、これまでの会社での理不尽さ、誰にも分かってもらえなかった孤独感、そして自分の不甲斐なさに対する怒りが、一気にこみ上げてきて、喉の奥が熱くなった。
「私……間違っていたんでしょうか」
気づけば、葵の声は震えていた。
「あのとき、声を上げていれば、何かが変わっていたかもしれないのに、怖くて逃げて……。今でもあの図面を見るだけで吐き気がするんです。私の人生、ずっとこんなふうに、誰かの失敗の後始末をして、自分の意志を殺して生きていくしかないんでしょうか」
あふれ出た言葉は止まらなかった。
堰を切ったように、葵は自分の弱さや、過去の選択に対する後悔を零し続けた。
甲斐吽はそれを遮ることなく、ただ穏やかな表情のまま、すべての言葉を受け止めていた。
光も闇も分け隔てなく、ただそこに在るものとして包み込むような沈黙が、部屋を支配していた。
「泣きたいときは、泣いてもいいのですよ」
甲斐吽が静かにそう言って、テーブルの上に一枚のカードを置いた。
それは見慣れないタロットカードだった。
表面には、荒涼とした大地の上にぽつんと佇む小さな扉と、その隙間から漏れ出る一筋の光が描かれていた。
「過去に置き去りにした痛みは、消し去ることはできません。あなたがそこで感じた恐怖も、悔しさも、すべてあなたのものです。けれど、それは決してあなたを縛るための鎖ではない。未来へ続く鍵になるために、ずっとそこであなたを待っていたのですよ」
「鍵……ですか?」
葵は涙を拭いながら、カードを見つめた。
「人は誰もが、迷い続けます。進む理由が見えなくなり、この世界が自分にとって冷たく感じられる夜もあるでしょう。けれど、迷い続ける人生に意味がないわけではありません。あなたが今日、この扉を開いたことも、偶然ではないのです」
甲斐吽はゆっくりと立ち上がり、部屋の隅にある小さな燭台の火に目をやった。
微かに揺らぐその炎は、どんなに小さな風が吹いても消えることなく、確かな光を放ち続けている。
「声にならない想いの奥を、ご自身の手ですくい上げなさい。答えを急ぐ必要はありません。私が示したのは、答えそのものではなく、あなたがご自身の足で再び歩き出すための、小さな灯火です」
その言葉を聞いた瞬間、葵の胸の奥で、何かがパチンと音を立てて弾けた気がした。
心の底に澱のようにたまっていた澱みが、スーッと消えていくような感覚。
誰かに許されたわけではない。
けれど、自分で自分を許すための、ほんの小さな許可が下りたような気がした。
「私……もう一度、自分の意志で線を描いてみます」
葵が顔を上げると、甲斐吽は深くうなずき、静かに微笑んだ。
「いってらっしゃい。あなたの新しい物語の始まりですね」
占い処を出たとき、顔を撫でる南風は、さきほどまでの冷たさが嘘のように、心地よい夜風に変わっていた。
見上げる夜空には、都会の光に負けない星がいくつか瞬いている。
葵は自分のハイヒールの音を確かめるように、しっかりとアスファルトを踏みしめながら歩き出した。
胸の奥に灯った小さな火は、もう二度と消えることはない。
確かな足取りで、彼女は自分の明日へと続く扉を開くため、家路へと急いだ。
第1話(完)




