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空(くう)は空(そら)ではない  作者: はまゆう


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17/17

第16話 志望校欄

 十一月の朝の空気は、十月よりもさらに薄く、硬かった。

 進路希望調査票が配られる。志望校欄、学部、学科、受験方式。

 東京大学文科三類。

 路沙はその文字をしばらく見てから、ペンを持ち直した。


     *


 放課後、有馬に呼ばれて図書室の奥、書庫に近い一角へ行った。

 人がほとんど来ない場所で、有馬はよくここで調べ物をしている。

「面談、今日でしょう」

「うん。有馬さんも?」

「わたしも」

 有馬は机の上に、進路希望調査票の控えを置いた。

 志望欄に、迷いのない字で「理科三類」と書かれている。

「重くないの、それ」

 路沙が訊くと、有馬は書架のほうを見たまま答えた。

「医学部に行って、留学してアメリカで研究をするの。がんの。そのための一歩でしかないから」

 言い方は静かなのに、まっすぐで、揺れがなかった。

「……そんな先の話、もうしてるんだ」

「先があるから、そこへ行くのでしょう」

 路沙は少し黙った。

 有馬はもう、日本の大学の先、海の向こうまで見ている。

 自分はまだ、東大という名前の前で立ち止まっている。

「有馬さんは」

 路沙は、言うつもりのなかった言葉を口にした。

「向こうに行ったら、帰ってこないの?」

 有馬の手が、一瞬だけ止まった。

「わからない」

「わからないんだ」

「でも、あなたが訊くとは思わなかった」

 その言い方に、責める響きはなかった。ただ、少しだけ驚いているようだった。

 路沙は目を伏せた。

「有馬さんが遠くに行っちゃう気がして」

 しばらく、書庫の静けさだけがあった。

 有馬は手を伸ばして、路沙の襟元のリボンを直した。理由なんてないような、いつもの仕草だった。

「まだ、高校三年生でしょう」

 有馬の声は低く、静かだった。

「先のことより先に、今のことがあるわ」

 リボンを直す指先が、少しだけ長く襟元に触れていた。

 路沙は、それだけで、さっきまでの不安が少しやわらぐのを感じた。

「行かないで、とは言わない」

「言ってもいいのに」

 有馬が、めずらしく軽い調子で言った。

 路沙は驚いて顔を上げる。

「今のは、冗談」

「わかりにくい」

「そう?」

 有馬は少しだけ笑った。

 その笑い方を、路沙はあまり見たことがなかった。


     *


 面談は、思ったより短く終わった。

 先生は成績表と志望校欄を確認し、「無謀ではないけれど、簡単でもない」と言い、併願校の設計を勧めた。まっとうな言葉だった。

 面談室を出たあと、廊下でシスター・マグダレナに会った。

「今日、文三って書きました」

「そうですか」

 シスターは驚かず、ただ静かに受け止めた。

「行

志望理由を、忘れないでいなさい」

 それだけで、路沙は少し息がしやすくなった。


     *


 その夜、真壁からは短いやり取りが一往復あっただけだった。

〈今日、文三って書いた〉

〈うん、頑張れ〉

 いつもの雑さより、少しだけ短い返信だった。


     *


 家に帰って、進路希望調査票の控えを机に置く。

 東京大学文科三類。

 その文字の向こうに、駒場の空気や、講義の声や、有馬の指先の記憶がある。

 有馬は、いつか本当に遠くへ行くかもしれない。

 それでも今は、同じ学校の、同じ書庫の空気の中にいる。

 路沙はリボンの結び目にそっと触れた。

 まだ、ここにいる。

 その事実だけを、今夜は静かに抱えていた。


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