第16話 志望校欄
十一月の朝の空気は、十月よりもさらに薄く、硬かった。
進路希望調査票が配られる。志望校欄、学部、学科、受験方式。
東京大学文科三類。
路沙はその文字をしばらく見てから、ペンを持ち直した。
*
放課後、有馬に呼ばれて図書室の奥、書庫に近い一角へ行った。
人がほとんど来ない場所で、有馬はよくここで調べ物をしている。
「面談、今日でしょう」
「うん。有馬さんも?」
「わたしも」
有馬は机の上に、進路希望調査票の控えを置いた。
志望欄に、迷いのない字で「理科三類」と書かれている。
「重くないの、それ」
路沙が訊くと、有馬は書架のほうを見たまま答えた。
「医学部に行って、留学してアメリカで研究をするの。がんの。そのための一歩でしかないから」
言い方は静かなのに、まっすぐで、揺れがなかった。
「……そんな先の話、もうしてるんだ」
「先があるから、そこへ行くのでしょう」
路沙は少し黙った。
有馬はもう、日本の大学の先、海の向こうまで見ている。
自分はまだ、東大という名前の前で立ち止まっている。
「有馬さんは」
路沙は、言うつもりのなかった言葉を口にした。
「向こうに行ったら、帰ってこないの?」
有馬の手が、一瞬だけ止まった。
「わからない」
「わからないんだ」
「でも、あなたが訊くとは思わなかった」
その言い方に、責める響きはなかった。ただ、少しだけ驚いているようだった。
路沙は目を伏せた。
「有馬さんが遠くに行っちゃう気がして」
しばらく、書庫の静けさだけがあった。
有馬は手を伸ばして、路沙の襟元のリボンを直した。理由なんてないような、いつもの仕草だった。
「まだ、高校三年生でしょう」
有馬の声は低く、静かだった。
「先のことより先に、今のことがあるわ」
リボンを直す指先が、少しだけ長く襟元に触れていた。
路沙は、それだけで、さっきまでの不安が少しやわらぐのを感じた。
「行かないで、とは言わない」
「言ってもいいのに」
有馬が、めずらしく軽い調子で言った。
路沙は驚いて顔を上げる。
「今のは、冗談」
「わかりにくい」
「そう?」
有馬は少しだけ笑った。
その笑い方を、路沙はあまり見たことがなかった。
*
面談は、思ったより短く終わった。
先生は成績表と志望校欄を確認し、「無謀ではないけれど、簡単でもない」と言い、併願校の設計を勧めた。まっとうな言葉だった。
面談室を出たあと、廊下でシスター・マグダレナに会った。
「今日、文三って書きました」
「そうですか」
シスターは驚かず、ただ静かに受け止めた。
「行
志望理由を、忘れないでいなさい」
それだけで、路沙は少し息がしやすくなった。
*
その夜、真壁からは短いやり取りが一往復あっただけだった。
〈今日、文三って書いた〉
〈うん、頑張れ〉
いつもの雑さより、少しだけ短い返信だった。
*
家に帰って、進路希望調査票の控えを机に置く。
東京大学文科三類。
その文字の向こうに、駒場の空気や、講義の声や、有馬の指先の記憶がある。
有馬は、いつか本当に遠くへ行くかもしれない。
それでも今は、同じ学校の、同じ書庫の空気の中にいる。
路沙はリボンの結び目にそっと触れた。
まだ、ここにいる。
その事実だけを、今夜は静かに抱えていた。




