19 鬼畜の所業。
「まぁ……良いでしょう」
黒の蝶が謄写された深紅の扇子に口元を隠すガヴァネスの声は震えている。
“有り得ない” という心の声がだだ漏れだ。
レティシアは頭に載せていた本を両手に持ち直した。
「おほめにあずかり、こうえいです」
慣れないヒールを履き、分厚い本を頭に乗せて真っ直ぐ歩く。
それは、回帰前では一年後の八歳より組み込まれた内容だった。
今回は繰り上げられた。
理由は明白だ。
ズバリ、回帰前には無かったイベントが追加されたからだ。
「で・す・が! 褒めている訳ではありませんからね。月桂冠受領式、そして祝賀パーティーに参加するのですから、こんなもので満足してはなりませんわ」
誕生日会で父が宣言した、レティシアの祝福の公表を行う受領式の日程が決まったのだが、その日までの猶予と言うと一ヶ月も無い。
「分かりました。あの、ひとつよろしいでしょうか?」
「なんです?」
「いちどちゅうだんのきょかをいただきたいのです。くつずれをおこしたようなので、そのてあ――」
「まぁ! 今の今! ご説明しましたのに、休みたいと仰るのですか!」
どうしたら、その解釈になるのだ。
『靴擦れを起こした』と。その部分は全く持って無視なのか。
「いえ、そうではなくて――」
「全く……。侯爵家のご令嬢という意識が足りていないように見えますね??」
「……」
レティシアは別に休みたいなどとは言っていない。ただ、靴が当たらないように応急処置の時間が欲しかっただけだ。
(手当だって、言ってるでしょ!)
会話をしているようで出来ていないこの状況、誰か助けて欲しい。
「…………」
「さぁさぁ、休んでるお暇などないのですから」
嫌がらせの絶好のチャンスだと、本人よりも(違う意味で)気合いの入ったガヴァネスにげんなりするのは致し方ないと思う。
「はつげんのきょかをいただけますか、先生」
「? よろしくてよ?」
「ありがとうございます。――おことばですが、先生。先生はおけがを負われた場合、どうなさいますか?」
「意味の無い質問ですね。わたくしはそんなヘマを致しませんので」
「私の聞き方がわるかったですね。ヘマをなさった時、どう “いたしましたか” ?」
「……何が言いたいのですか」
不信感に目を細めてこちらを見るルイーズへ、はっきりとゆっくりと丁寧にレティシアは説明してみせる。
「お分かりになりませんか。では、くわしくお話しいたしましょう。さかのぼるとこ、いっしゅうかん前の出来事です。私は先生が足をくじいたと、父の前でふらつくのをもくげきいたしました。あのさい、先生は近くにいあわせたメイドに――」
「あ、あれはっ!」
まさか見られているとは思ってもいなかったのだろう。顔を真っ赤に染めて言い訳を探すように目が泳ぐ。
その刹那、ルイーズの顔はこの国では余りお目にかかれないマイナーな海の幸を茹であげたように変化した。
「す、過ぎたことを持ち出すなんて、意地の悪いっ!! い、今! 私のことは関係ないでしょうに!」
「いいえ、かんけいありますよ。先生のあの日あのばでのおことば、いちごんいっく、私はおぼえています」
レティシアが目撃した出来事はこうだ。
あの日、講義を終えて屋敷を出よう廊下を歩いていたルイーズが時間を同じくして帰宅した父と鉢合わせた。
その時ルイーズはいかにも体調が悪いですと言わんばかりに、その場でふらつき父に撓垂れ掛かったのだ。
『あら、なんだか目眩が――』
幸か不幸か(?)その日の父は屋敷帰宅後も慌ただしくしていたため、(見るからにわざと)よろけたルイーズに気づくことなく足早にその場を後にした。
ルイーズのよろける演技が下手だったのか、父の競歩が早すぎたのか失敗に終わったそれから、運悪く居合わせてしまった主人の帰りに廊下の袖へ捌け道を開けていたメイドや従者の何人かが気まず気に目を逸らしたのだった。
そして、その状況(父に気付いてもらえず、それを下の者らに目撃されたという羞恥心)に耐えきれなくなったルイーズが叫んだ。
『――な、何を突っ立って見ているのよ! 足を挫いたのよ!? 侯爵家の使用人ともあろう者が、この家の令嬢のガヴァネスを無視するつもり!? すぐに医者の所へ連れて行くぐらいしたらどうなの!』
と、それはもう大きな声で。
「ふくしょう、いたしましょうか?」
「……ッ!!! いいえ、結構よ! さ、さっさと、手当てでもなんでもすれば良いわ!」
「ありがとうございます」
身に覚えがあるらしいルイーズから言質を取った。
「では、せきをはずさせていただきます」
文句の付けようのないカーテシーを見せつけて部屋を退出する。
何も言い返せない彼女のあの今にも癇癪を起こしそうな顔といえば――少しは溜飲が下がる。
◇◇◆◇◇
「あれ? レティシア様、どうなさいました」
扉横で控えていたトーリが驚いたようにこちらに問いかける。だが、すぐに主人の足の異常に気がついて顔を顰めた。
「少しだけ足のここ、すれちゃって」
「すぐ行きましょう」
「わっ」
「靴を履いたままに我慢させるのは忍びないですが、ご令嬢が足を晒すのは良くないのは俺でも知ってるので……このままで失礼しますね」
トーリが一息に言い切ったと思えば、レティシアの目線が途端に高くなる。
「すぐ着きますので」
どうやら、抱き上げられたらしい。
「おおげさだわ」
ビクともしない腕に乗せられて移動だなんて、歩けない訳でもないのにまるで大怪我をしたような扱いだ。
「いーえ、大袈裟でもなんでもありません。その状態で歩いて、悪化でもしたらどうするんですか。――それにしても、あのガヴァネス。靴擦れを起こした靴そのままで追い出すなんて何考えてるんだ」
トーリの後半の言葉は独りごちただけだったのだろう。
返事を求める様な言葉ではなかったので、レティシアは何も返さなかった。が、心のうちは密かにじんわりと温かくなった。




