第17話 大地を癒す者——あなたの手は温かい
復興計画の第一段階は、農地の浄化から始まった。
朝靄の中、俺とアンネリーゼ様は領都の南に広がる農地に立っていた。
見渡す限りの灰色。本来は麦畑が広がっていたはずの大地が、魔力の汚染で完全に死んでいる。土を手に取ると、さらさらと指の間からこぼれ落ちた。水分も養分もない、砂のような土だ。
「ここから始めましょう」
アンネリーゼ様が両手を大地にかざした。
金色の光が聖女の手のひらから溢れ出し、地面に沁み込んでいく。俺は背後から魔力を供給して、浄化の効果を増幅させる。
アンカードの森で確立した連携だ。あの時は魔核を浄化したが、今度は大地を清める。
じわじわと、土の色が変わっていった。
灰色から茶色へ。乾ききった土壌に水分が戻り、微かに土の匂いが漂い始める。
「おお……」
遠巻きに見ていた住民たちから、驚きの声が漏れた。
昨日は俺たちに背を向けた人々だ。だが、目の前で死んだ大地が蘇っていく光景は、言葉より雄弁だった。
一区画の浄化に約三十分。朝から始めて、昼過ぎまでに六区画を清浄化した。
予想通り、アンネリーゼ様の浄化魔法と俺の魔力供給の組み合わせは効率的だった。魔核から安定した魔力を引き出して供給するので、俺の身体への負荷も天使召喚に比べれば格段に軽い。
とはいえ、アンネリーゼ様の消耗は大きい。
「聖女様、休憩にしましょう」
「もう少しだけ……あと一区画——」
「だめです。倒れたら元も子もありません」
前世で覚えたことがある。優秀な人ほど休まない。そして突然壊れる。俺自身がそうだった。
「アンネリーゼ様、ぼくの前世の上司の口癖を教えましょうか。『休むのも仕事のうち』です」
「前世の……上司?」
「あ、いえ。昔読んだ本に書いてあった言葉です」
危ない。前世の話が口をついて出るところだった。
アンネリーゼ様は不思議そうな顔をしたが、素直に木陰に座って水を飲み始めた。この人は言われたことを素直に聞く。方向音痴と眠気以外は完璧な聖女だ。
午後になると、リディア嬢がフィーネを連れて農地にやってきた。
「ルーク様、浄化の進捗はいかがですか?」
「六区画完了です。予定より早いペースです」
「それは素晴らしいですわ。では、さっそく——」
リディア嬢は驚くべきことを始めた。
浄化の終わった区画に自ら入り、フィーネと一緒に土を耕し始めたのだ。
「リディア様、何を——」
「種を蒔きますわ。フィーネさんが種芋を確保してくれましたの」
フィーネが得意げに麻袋を掲げた。
「近隣の村から分けてもらいました。根菜なら二ヶ月で収穫できます」
公爵令嬢が泥にまみれて畑を耕している。
前世で言えば、大企業の社長令嬢が作業着を着て工場のラインに入るようなものだ。普通はあり得ない光景だが、リディア嬢は平然とやっている。
「リディア様、手伝います」
「結構ですわ。ルーク様は浄化に集中してくださいまし。こちらはわたくしの仕事です」
断られた。
だが、その横顔を見ていると——泥だらけなのに、なぜか目が離せなかった。
額に汗。頬に泥の跡。金色の髪は後ろで結ばれ、ドレスの裾を腰まで捲り上げている。
公爵令嬢の面影は完全に消えて、そこにいるのはただの——一生懸命に働く一人の少女だった。
……反則だ。こんな姿を見せられたら。
「ルーク様、何をぼうっとしていますの?」
リディア嬢が泥の手で額の汗を拭った。結果、額が泥で茶色くなった。本人は気づいていない。
「いえ、何でもないです。すみません」
「何でもないという顔ではありませんわね」
泥だらけの顔で首を傾げるリディア嬢が、とてつもなく可愛い。
こんな感情を十六歳の少女に抱いている自分が不謹慎だと分かっている。分かっているが、止められない。
「リディア様、額に泥がついていますよ」
「えっ、どこですか?」
「ここです」
俺はハンカチを取り出して、リディア嬢の額の泥をそっと拭った。
至近距離。碧い瞳が俺を見上げている。
「……ありがとうございます」
リディア嬢の声が、少しだけ小さくなった。頬が赤いのは、日焼けか、それとも——
「お、お二人とも、わたしのことは気にしないでくださいね……」
木陰からアンネリーゼ様の切ない声が聞こえた。
この人はどこにいても存在感を発揮する。寝ていても、迷子でも、今みたいに空気を読めなくても。
夕方、俺たちは領都の広場に住民を集めた。
といっても、残っている住民は三十人ほどだ。老人と子供が多い。働き盛りの大人は、大半が領地を離れている。
リディア嬢が壇上に立った。
午前中の泥はさすがに落として、公爵令嬢の装いに戻っている。だが、住民たちの目は冷たいままだ。
「皆さまにお伝えしたいことがございます」
リディア嬢の声は穏やかだが、芯がある。謁見の間でジェレミー殿下に立ち向かった時と同じ声だ。
「本日より、この領地の税を三年間半減いたします」
住民たちがざわめいた。だが、信じていない顔がほとんどだ。
「税を下げるだと? 何か裏があるんだろう」
「甘い言葉で釣っておいて、後から搾り取る気だ」
住民の声は辛辣だった。
無理もない。前の領主にさんざん搾り取られてきたのだ。簡単に信じろという方が無理がある。
リディア嬢は動じなかった。
「裏などございません。その代わり、皆さまにお願いがあります。この土地を、わたくし達と一緒に育ててください」
住民たちが黙った。
「今朝、南の農地の浄化を始めました。ご覧になった方もいらっしゃるかと思います。あの土地は蘇ります。作物が育つ土地に戻ります。ですが、それには皆さまの力が必要です」
リディア嬢の碧い瞳が、一人一人の顔を見つめていく。
「わたくしは逃げません。この土地が再び豊かになるまで、ここにいます。それをお約束いたします」
沈黙が続いた。
長い、長い沈黙だった。
やがて——あの老人が口を開いた。昨日、俺たちに唾を吐くように言い捨てた、杖をついた老人だ。
「……嬢ちゃん、今朝の畑を見たぞ」
「はい」
「お前さん、泥だらけになって芋を植えとったな」
リディア嬢が頷いた。
「……公爵家の令嬢が泥にまみれるなんざ、見たことがねぇ」
老人はしばらく黙ってから、ため息をついた。
「まあ、嘘つきの目じゃあなかった。少しだけ——ほんの少しだけ、信じてやるよ」
大きな変化ではない。
だが、最初の一歩だった。
リディア嬢が——微笑んだ。
涙を堪えたような、でも確かな笑顔だった。
俺は壇の下でその姿を見ていた。
前世の飛び込み営業で学んだことがある。最初の一件が取れた時の喜びは、その後の百件よりも大きい。
あの老人の「少しだけ信じてやる」は、リディア嬢にとって最初の一件だ。
広場からの帰り道、リディア嬢は俺の隣を歩きながら、何度も目元を拭っていた。
「泣いてませんわよ」
「聞いてません」
「……少しだけ、泣いてましたわ」
夕日が荒廃した大地をオレンジ色に染めていた。
まだ灰色の方が多い。だが、今日浄化した区画だけは、茶色い土が夕日を反射して温かく光っている。
ほんの少しだけ——この土地に、色が戻り始めていた。
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