第7話 酒が買えない
アパートに戻った頃には、すっかり疲れていた。
「……ただいま」
誰もいない部屋に向かって、何となく言ってみる。当然、返事はない。
靴を脱ぎ、両手の買い物袋を床へ置いた。そのままソファへ座り込む。
「ふう……」
疲れた。
朝から色々ありすぎた。
田中亮が死んだことを知り、いつものラーメン屋へ行ったら誰にも分かってもらえず、気づけば女子高生になっていた。
その後は美那と会い、下着や服まで買うことになった。
「……何なんだ、今日」
改めて考えると、とんでもない一日だった。
ついさっきまで美那が隣で喋っていたせいか、部屋の中がやけに静かに感じられる。
あいつ、よく喋る奴だったな。
しばらくぼんやりしてから、買い物袋を引き寄せた。
中から服や下着を取り出す。
ブラウスにTシャツ、カーディガン。それにスカートとズボン。靴も新しく買った。
並べてみると、結構な量だった。
「……これだけあれば大丈夫だろ」
少なくとも、着るものには困らない。
今朝まで着ていたジャージを無理に着続ける必要もなくなった。
買ってきた服を一枚手に取り、鏡の前に立つ。
そこには、相変わらず田中明日香がいた。
今日だけで何度も見た顔だ。もう鏡を見るたびに驚くことはなくなったが、だからといって慣れたわけでもない。
「……本当に女なんだよな」
昨日まで、俺は男だった。
少なくとも、男の身体で暮らしていた。
それが一晩でこうなった。
しかも、本物の田中明日香は別の場所にいる。
俺は明日香ではない。
それだけは分かっている。
「……はあ」
服を置き、ソファへ戻った。
金はまだある。帰る部屋もあるし、食事をする場所も知っている。美那という知り合いだってできた。
今日一日で、生活するために必要なものはいくらか揃った。
なのに、肝心なことは何一つ分かっていない。
「……で、これから俺、どうすりゃいいんだ?」
誰も答えてくれない。
そもそも、明日もこの姿なのだろうか。
田中亮だった頃は、朝起きれば同じ自分がいるのが当たり前だった。
でも、もうその当たり前すら信用できない。
「……まあ、いいか」
考えても答えは出ない。
今日はもう疲れた。買ってきたものを片づけて、風呂に入って、それから酒でも飲んで寝よう。
明日のことは、明日考えればいい。
俺は立ち上がり、買い物袋を持ち上げた。
少なくとも、明日着る服だけは決まっている。
明日もそれを着られる身体でいるのかは分からないが。
◆
服を片づけ終わり、冷蔵庫を開けた。
「……ない」
もう一度見る。
水と、適当に買っておいた飲み物くらいしか入っていない。
ビールもない。
缶チューハイもない。
「全部飲んだっけ……」
そういえば、昨日までに飲んでしまった気もする。
今日は色々ありすぎた。
こういう日は酒でも飲んで、さっさと寝たい。
「……買ってくるか」
一瞬、このまま寝てもいいかと思った。
だが、ないと分かった途端、余計に飲みたくなった。
財布を持ち、今日買った服に着替える。
鏡を見る。
どこから見ても普通の女子高生だった。
「……まあ、コンビニ行くだけだし」
俺は部屋を出た。
◆
向かったのは、近所のコンビニだった。
田中亮だった頃から何度も使っている店だ。夜になって酒がなくなれば、よくここへ買いに来ていた。
今まで身分証なんて見せたことは一度もない。
「いらっしゃいませー」
いつも通り店へ入り、冷蔵棚へ向かう。
ビールを二本。それから缶チューハイを一本。
つまみにポテトチップスも取った。
「これでいいか」
レジへ持っていく。
「お願いします」
「はい」
店員が商品を一つずつ読み取っていく。
ポテトチップス。
ビール。
もう一本。
缶チューハイ。
そこで店員が俺の顔を見た。
「あの、すみません」
「はい?」
「年齢確認できるものはお持ちですか?」
「……年齢確認?」
「はい。免許証とか、マイナンバーカードとか」
「いや、持ってないですけど」
店員が少し困った顔をする。
「そうしますと、お酒は販売できないんです」
「……え?」
「年齢が確認できないので」
「いや、二十歳は超えてますよ」
「申し訳ありません」
「本当に」
「すみません」
「……」
店員を見る。
向こうも困った顔で俺を見ている。
「ここ、いつも酒買ってるんですけど」
「え?」
「何回も」
「……そうなんですか?」
「はい。昨日だって――」
そこまで言って止まった。
ああ、そうか。
この店で酒を買っていた時、俺は田中亮の顔だった。
今ここにいるのは、どう見ても女子高生だ。
店員からすれば、初めて見る客なのだろう。
「何か年齢の分かるもの、ありませんか?」
「……ないです」
「それでしたら……」
「本人が二十歳超えてるって言っても?」
「申し訳ありません。確認できるものがないと……」
どうやら本当に駄目らしい。
「……じゃあ、お酒はいいです」
「申し訳ありません」
「これだけください」
「はい」
結局、ポテトチップスだけを買った。
店を出て、袋の中を見る。
「……つまみだけあってどうすんだよ」
思わず呟いた。
今までなら、何の問題もなく買えていた。
別に顔を覚えられていたわけじゃない。ただ、見た目だけで酒を買える歳だと思われていたのだろう。
今は違う。
「……まあ、店変えればいけるか」
このコンビニが厳しかっただけかもしれない。
近くにスーパーがある。
あそこなら、普通に買えるんじゃないだろうか。
「そっち行ってみるか」
何となく嫌な予感はしたが、俺はスーパーへ向かった。
◆
スーパーはまだ開いていた。
酒売り場へ向かい、缶ビールを二本取る。
そのままレジへ行こうとして、足を止めた。
「……待てよ」
酒だけを持っていくから、余計に怪しまれるんじゃないか。
普通に買い物をしている中に酒が入っていれば、そこまで気にされないかもしれない。
そう考え、カゴを取りに戻った。
弁当。
パン。
ペットボトルの水。
適当に目についた菓子。
それから、さっきの缶ビール二本。
「……よし」
カゴの中を確認する。
どう見ても普通の買い物だ。
いや、酒が入っている時点で普通じゃないのかもしれないが。
「まあ、大丈夫だろ」
自分に言い聞かせ、レジへ向かった。
「お願いします」
「はい、いらっしゃいませ」
店員が商品を次々と読み取っていく。
弁当。
パン。
水。
菓子。
そして、缶ビール。
「あの、お客様」
「……はい」
やっぱり来た。
「年齢確認のできるものをお願いできますか?」
「……持ってないです」
「免許証などはございませんか?」
「ないです」
「申し訳ありませんが、お酒は販売できません」
「……やっぱり?」
「申し訳ありません」
俺はカゴの中を見る。
弁当もパンも水もある。
ちゃんと普通の買い物をしている。
なのに、酒だけ駄目らしい。
まあ、考えてみれば当たり前か。
「……あの」
「はい?」
「俺……じゃなくて、私、何歳くらいに見えます?」
「え?」
「いや、見た目で」
店員が少し困ったように笑った。
「申し訳ありません。見た目だけでは判断できないんですけど……」
一度、俺の顔を見る。
「高校生くらい……でしょうか」
「……ですよね」
自分でも分かっていた。
今日一日、何度も鏡を見た。
田中明日香の顔は、かなり若い。
高校生だと聞けば納得するし、服装によっては中学生に見えるかもしれない。
美那がやたらと可愛い可愛い言っていたのも、少しだけ分かる。
自分の顔だと思うと妙な気分だが、確かに整った顔ではある。
ただ。
酒を買う時には、まったく役に立たない。
「……じゃあ、お酒だけ抜いてください」
「かしこまりました」
缶ビールが二本、レジの横へ避けられる。
残った商品だけ会計した。
「ありがとうございました」
「……どうも」
袋を持って店を出た。
今度こそ諦めた。
「……買えねえじゃん」
コンビニでも駄目。
スーパーでも駄目。
店を変えても同じだった。
それに、よく考えたらおかしい。
酒だけ持っていけば怪しまれると思って、わざわざ食べ物まで買った。
でも、店員が見ているのはカゴの中身じゃなかった。
俺の顔だ。
「……何やってんだ、俺」
自分でも呆れた。
田中亮だった頃なら、こんなことを考える必要すらなかった。
飲みたいと思えば買えた。
夜に飲みに行くことだってできた。
誰かに歳を聞かれることもなかった。
それが今は、缶ビール一本すら買えない。
「面倒くせえ……」
袋を持ち直す。
店員が悪いわけじゃない。
そんなことは分かっている。
向こうは仕事をしているだけだ。
それでも、腹は立った。
「俺、二十歳超えてんのにな……」
口にしてから、足が止まった。
「……いや」
本当にそうなのか?
田中亮は、どう見ても酒を飲める歳だった。
俺もずっとそう思って暮らしていた。
でも、田中亮は俺じゃなかった。
だったら、本当の俺は?
何歳なんだ。
「……」
考えてみれば、俺は自分の誕生日すら知らない。
二十歳を超えているという根拠だって、昨日までの身体が大人だったというだけだ。
さっきまで店員に、二十歳は超えていると当たり前のように言っていた。
でも、本当は。
「……分かんねえじゃん」
それどころか本当の自分は?本当に男なのか?
自分が何歳なのかすら性別すらわからない。
俺はしばらく立ち止まっていたが、やがて首を振った。
「もういい」
考えるのをやめた。
酒を買いに来ただけなのに、何でまた自分が何者なのかまで考えなきゃならないんだ。
今日はもう十分だった。
◆
アパートへ戻り、買ってきたものを適当に片づけた。
弁当と水を冷蔵庫へ入れる。
さっきまで酒を入れるつもりだった場所は、何も入らないままだった。
「……はあ」
ソファへ倒れ込む。
今日は酒を飲んで寝る。
ただ、それだけのつもりだった。
田中亮だった頃は、飲みたい時に飲んでいた。
昼から飲むことだってあった。
馴染みの店へ行けば、何も言わなくても酒が出てくることさえあった。
それが今は、コンビニでもスーパーでも買えない。
「……酒くらい飲ませろよ」
天井へ向かって呟く。
当然、誰も答えない。
昨日まで普通だったことが、今日だけでいくつもできなくなった。
いつものラーメン屋では、誰も俺を知らない。
男子トイレにも入れない。
服も買い直した。
そして今度は、酒まで買えない。
「……ほんと、面倒な身体だな」
言ってから、少し考えた。
明日香が悪いわけじゃない。
本物の明日香だって、俺に身体を貸した覚えなんてないだろう。
それでも、昨日まで当たり前にできていたことが、一つずつできなくなっていく。
それが、どうにも面倒だった。
しかも、いつまでこの姿なのかも分からない。
明日になれば元に戻るのか。
それとも、ずっとこのままなのか。
あるいは、また別の誰かになるのか。
「……もう寝よ」
今日は何もしたくない。
風呂だけ済ませて、俺はベッドへ潜り込んだ。
目を閉じる。
明日の朝。
また違う誰かになっているかもしれない。
それとも、このまま田中明日香なのか。
「……せめて昨日の身体に戻ってねえかな」
小さく呟く。
昨日までの自分の身体ですらなかったことを思い出し、何だか余計に疲れた。
それでも、田中亮だった頃の方がずっと楽だった。
少なくとも、酒を買うのに困ることはなかった。
「……明日は酒買える顔になってねえかな」
誰に頼んでいるのか、自分でも分からなかった。




