あぁ、アイナ!
二人は並んで手を取り合い、森の中を進んでいく。女神様と一緒でアイナはちっとも怖くなんてなかった。獣も魔物も、森の木々さえも二人に道を開けているように思えた。
アイナが円らな瞳で見上げて尋ねる。
「女神様は、女神様じゃないの?」
アイナは自分を助けてくれる人が誰だか知りたかった。自らを女神様ではないと言ったその人はいったい何者なのか?長い金の髪を揺らして、女の人は改めて答えた。
「えぇ、違うわ」
「じゃぁ、神様のお遣い?天使様?」
続けざまの質問にも黙って首を横に振る。
「お名前はなんていうの?アイナはね、アイナっていうんだよ」
アイナの分かりやすい自己紹介に女の人はクスリと笑ったが、すぐに謝った。アイナにはその顔が少しだけ悲しそうに見えた。
「ごめんなさいね。名乗ることはできないの」
「えー?じゃぁ、なんて呼んだらいいの、お姉ちゃん?」
急に女の人が立ち止まる。アイナが見上げると、その眼は一瞬遥か遠くを見ているようだったけれど、すぐにアイナに向き直るとこう言った。やっぱり、少し悲しそうな顔で。
「えぇ、お姉ちゃんでいいわよ。そう、私はただの、お姉ちゃん」
光り輝きながらお空から降りてくるような人がただのお姉ちゃんなはずないじゃないか、とアイナは思ったけど、お姉ちゃんの悲しそうな顔を思い出して問い詰めるのを止めた。
途中、一休みしている時にお姉ちゃんはアイナにとても大事なことを伝えた。とてもとても大事なことだからと前置きして、絶対に忘れてはいけないと強く念を押された。
「あそこはね……アイナがいたあそこは人間の思っているような場所ではないの。人はあそこを、魔王さえ喰らう邪なる神の眠る地と信じているけれど、そうではないの。あそこには同族さえ震え上がらせた古の魔王が眠っているの」
「いにしえの……魔王……」
アイナの緊張した面持ちから、アイナが魔王という言葉を正しく理解していると確認してお姉ちゃんは小さく頷き、続けた。その表情は真剣そのものだった。
「そう、だから人間は絶対にあそこへ立ち入ってはならない。間違っても贄なんて捧げてはならない。村へ帰ったら大人の人にもそう伝えて頂戴。アイナならできるわよね?」
「うん!アイナ、ちゃんと伝える!あそこは昔の魔王が眠っているから、入っちゃ、ダメ。えぇっと、ニエもササゲちゃ、ダメ。絶対!」
アイナが一生懸命暗唱するのを見てお姉ちゃんは優しくにっこりと微笑んだ。アイナもつられて一緒に微笑むのだった。
「アイナ、頼まれたってもう、あんな所には行かないよー」
「ふふっ、そうね。森の中だって一人で入ってはダメよ」
「お父さんもいつも言ってた。森の中はキケンだって。でも、お姉ちゃんと一緒なら平気だよね!あ――」
何かに気付いてアイナの声のトーンが急に下がる。
「お姉ちゃんも、一緒に村に帰るんだよね?」
縋るような目線に、しかしお姉ちゃんは首を振って答えた。
「ごめんなさいね。村までは……一緒に行けないの」
「どうして!?それじゃぁ、村に着く前にお別れなの?そうしたら……お別れしちゃったらもう、お姉ちゃんには会えないの?」
お姉ちゃんは何も答えず、申し訳なさそうな、困ったような、悲しそうな瞳でアイナを見詰めている。
が、やがてすぅと一つ息を吸って、
「♪遠い月の夜に――」
静かに歌い始めた。それはアイナがお姉ちゃんと出会う直前にも歌っていた、慈愛の女神の賛歌。歌い出しが本来「雪の夜」なのが、少し違っていたことにアイナは気付いたけれど、お姉ちゃんの清らかな歌声にただただ聞き入ってしまうしかなかった。
「♪あなたが 泣いていたこと
知っているのは
きっと 私だけ
今旅立つ あなたは どれほどの
不安や恐れを
抱えているのでしょう――――」
優しい歌声は静かな森に、そして何よりもアイナの心の奥に染み渡っていった。
お姉ちゃんの歌声は、その歌の本当の意味を、その末端を幼いアイナにも触れさせた。歌詞にもあるように、必ず誰にでも守ってくれるものがいる。必要としてくれる人がいる。でもそれだけじゃなくて。自分自身も誰かを必要として、誰かを守ってあげる。守れるようにならねばならない。
アイナの問いかけにお姉ちゃんが悲しんでしまうなら、そうならないようにすればいい。とても簡単なことでアイナは自分がお姉ちゃんを悲しみから守れることに気が付いたのだった。
歌い終わる頃にはアイナは納得していた。やっぱりお姉ちゃんは、女神様なんだと。
だから、ずっと一緒にはいられないんだと――――
それから二人は歌いながら歩いた。森の中までは月の光は届いていないのだろうに、不思議と暗くはなく、ただ道に任せて歩いているだけなのに、着実に村に近付いているように感じられた。
やがて月が遠く山の向こうに差し掛かる頃、遂に森の切れ目が見えてきた。息を切らせて駆けだすアイナ。森の端からその先を見れば、丘の向こう、遥か彼方に小さく、でも確かに見覚えのある家々が目に入った。
「お姉ちゃん!家だよ!村だよ!帰って来たんだよ!!」
喜び勇んでアイナが振り向くと、そこにはもう、お姉ちゃんの姿はなかった。
ちゃんとお別れしたかったけれど、そうしたらちゃんといい子で我慢できたかは自信がない。ううん、きっとお姉ちゃんも一緒に行こうと泣き喚いて困らせていただろう。だから、これでよかったのだと自分に言い聞かせる。
アイナは少しだけ走って立ち止まり、もう一度だけ森の方を振り向くと口に手を当てて大声で叫んだ。
「お姉ちゃん、ありがとー!」
そして今度こそ村に向かって真っすぐに、全力で駆け出すのだった。
アイナが帰ると、村は大変な騒ぎになった。みんながアイナの帰還を驚き、村長さんも目を丸くしていた。
「ただいまっ!」
満面の笑顔でお母さんの胸に飛び込むと、お母さんは大声を上げて泣きながらアイナを強く強く抱きしめた。
「あぁ、アイナ!私の可愛いアイナ!ごめんなさい。お母さんが間違っていたわ。もう二度と離さない!」
「あぁん、お母さん。苦しいよぉ」
お父さんの大きな腕が、アイナとお母さんをまとめて包んだ。
村のみんなが遠巻きに見守る中、村長さんが訊ねてきた。
「アイナ、いったいどうやって戻ってきたのじゃ?」
お母さんの胸から顔を上げてアイナが答える。
「えっとね、女神様……んじゃなかった。女神様みたいなお姉ちゃんが助けてくれたの」
そして何があったのか、アイナは全てを話した。
何故か誰もいないところで一人で石のベッドで寝ていたこと。
食べてもなくならない木の実のこと。
お姉ちゃんが光を纏ってお空から舞い降りてきたこと。
それは真っ白できれいなドレスを纏い、長い金の髪をなびかせてまるで女神様みたいなお姉ちゃんだったこと。
二人で歌いながら森を歩いてきたこと。
もちろん、大人の人たちに伝えてと言われていたことも忘れずにきちんと話した。
ただ、一つだけ。
お姉ちゃんが、あのお歌の最初のところを、わざと違う風に歌ったことだけは、ナイショだった。
「さよなら……」
小さくなってゆく影と、遠くの景色にサーシャはそっと呟いた。森の端で踵を返し、森の中へと歩みを進める。
でも、もう一度だけ。
アイナも森の外でそうしたように、後ろを振り返る。だが、サーシャは何も言わない。その目線の先、何かを言うべき相手には今、別れを告げたのだ。
その景色が心に焼き付くほど眺めた後で、サーシャは前を向く。向いた先、森の中には懐かしい顔が二つ。一晩しか離れていないのに、懐かしいと感じてしまうのはどうしてだろう?疑問に思いながらもサーシャは照れを隠すように柔らかい笑顔を作ってみせた。
「……ただいま」
「おう、お帰り。……って、まだ、これから帰るんだけどな」




